あの新型を駆るリーダー機のパイロットはヨノイと名乗った。
結局呼集もかからぬまま日の暮れたその日、イライは夕食の席でヨノイと同席すること
になった。
大規模な基地であれば、イライたちパイロットとホガリたち整備員が同じテーブルを囲
むこともないだろう。が、イライが住みかとする基地では、階級によって食堂を分離する
ことが無駄なほどに人員が少ない。だから今日も、パイロットと整備員は同じテーブルを
囲んだ。
夕食のトレイには、鶏肉を過程不明に調理したプレートと、山盛りの野菜、焼きしめた
パンが並んだ。そしてテーブルには、知らない顔が何人も並んでいた。澄んだ海底のよう
に青く沈んだ夜の風景が窓の外に広がっていた。イライは滑走路をわずかにのぞくことの
できる、食堂の端の席に着き、知った顔と知らない顔がくっきりと分かれたテーブルを一
度見渡して、腰を下ろした。ハスミの顔が食堂の対角線上に見えたが、彼はチナミととも
にもうトレイの半分以上を平らげていた。昼間に漏らした言葉の通り、新型機の印象を聞
いているのかもしれない。イライは新型にさしたる興味もなかった。新型とともにやって
きたパイロットを除けば。そんな気分でいたとき、空席だった対面に、知らない顔がやっ
てきたのだ。それがヨノイだった。ヨノイは黙ってイライの正面に座り、けれど表情は柔
和だった。見たことあるな、イライは思った。キリウやレンダと同じ種類の表情だ。きっ
とこの男も純粋培養組だ。かけてもいい。……かける? 誰と。
「初めまして」
ヨノイはイライの目をまっすぐに見て言った。そして名乗った。自分は名乗っておきな
がら、イライの名を訊ねようとはしなかった。
「ここの食事はうまそうだ。いや、前にいた基地はね、魚はうまかったんだけど、肉がね」
おしゃべりな男だ。第一印象はそれで決まった。
「あなたは、ずっとここに?」
ヨノイが訊く。訊かなくてもわかりそうなことだ。
「長そうに見えるかい」
「飛行時間は」
「前は、放浪の旅をしていてね。ギターが下手なんで、パイロットにされた」
言ってから、つまらない冗談だったとイライは後悔した。自分にはやはり、冗談も本音
も似合わない。
「ずっとノスリに?」
おおかたのパイロットと同じく、ヨノイもまた仕事の話以外はできないのかもしれない。
それでもいいと思った。自分も似たようなものだ。イライはよく焼けた鶏の肉をかじる。
皮はパリパリだ。予想外にうまかった。
「ここしばらくは、X型以外乗ったことはない」
イライが答えると、返事だというように、ヨノイもまた鶏肉をかじった。そして、本当
にうれしそうな顔をした。鶏肉がうまかったのか、イライの返事がうれしかったのか。イ
ライには前者に思えた。
「僕はX型には乗ったことがない。けど、Y型には四十時間ほど乗ったことがあるよ」
Y型か。今日、新型と飛来したノスリのことだろう。
「ターボプロップ?」
ヨノイはうなずく。
「反応が鈍くてね。その前に乗ったW型の方が僕は好きだった」
「よりどりみどりだな」
「そういう職業なんだ」
「そういう職業にしては、ずいぶん舌が回るんだな」
挑発的すぎたかもしれない。イライは思ったが、ヨノイは意に介さずといったところだ。
すでに一個目の鶏肉を平らげ、二個目に入る前にキャベツを噛み砕いていた。
「プロペラ並みには。ターボジェットほどじゃない」
冗談のつもりだったのだろうか。イライは可笑しくなった。ヨノイの冗談にではなく、
そのぎこちない態度にだ。この男はいくつくらいだろう。イライの半分ということはない
だろう。もう少し上……基地でいうなら、半分くらいの場所か。
「あまりフレアを掛けないんだな」
イライは話題を振ってみた。着陸のときの話をしてみる。
「速度はね、スポイラーで殺した方が飛びやすいんだ。エンジンの反応が鈍い分、変なピ
ッチを取ると、ストールする」
「ストールしたことがあるのか」
「まさか。着陸中だったら、僕は今頃ここにはいない」
「俺はある」
「着陸中に?」
ヨノイは大きな目をしていた。よく澄んでいた。作り物のようだ。世代が違うのだ。イ
ライは悟る。
「上空で。場所は機密だ」
「敵機は」
「いたら今頃ここにはいない」
「なるほど」
「あんたの飛行機は速いのか」
「速いって、最大速度の話をしているの?」
「別に着陸速度でも、離陸速度でもかまわないが」
「全部、速いね。ノスリとはずいぶん違う。僕が乗ったY型よりもずっと」
「重そうだったな」
ハスミの感想を、代弁してみた。
「そう……」
ヨノイはフォークを放るようにプレートに置くと、右手をひらりとトレイの上に舞わせ
た。
「ロールレートは、ノスリの相手にならないよ。確かに重い」
そう言って、ヨノイは離陸させた右手を、そっとバンクさせた。左に。まるで今日の再
現のように。
「もっとバンクしたらどうなる」
「速度を失う。旋回時ならね。そうだな、空回りするような感じだ。エンジンが」
「よくわからないな」
「格闘戦になったら、X型にだったら、簡単に墜とされてしまうよ。作りが違うから」
左旋回に入ったヨノイの右手は、唐突に失速し、再びフォークを握った。
「機銃は同じか」
「メルクア・ポラリスの二十ミリ。電気式だよ。二重装填の心配がない。……X型と同じ
だね。ベースは同じ。でも、バレルが長いんだ。撃ちやすいよ」
「どれくらい」
「そう……」
イライが訊くと、ヨノイはエンピツ持ちをしていたフォークを、フォアハンドにした。
人差し指を軽く浮かせる。操縦桿のつもりらしい。
「気持ち、ほんの少し遠くても、当たる」
イライは答えるかわりに、二個目の鶏肉を口に入れた。
「でも、飛行機の速度が違うからね。たいして変わらないよ」
「そんなに違うか」
「違わなければ、新型じゃないでしょ」
「そうだな」
今日の夕食は、それ単体で見たならば、週に一度あるかないかの上出来だった。料理長
の機嫌がよかったのだ。きっと。けれど、堪能できない。目の前の男のせいだ。いや、目
の前の男が連れてきたもう一人のパイロットのせいだ。
「たった二機でどうするつもりなんだ」
訊いてみた。遠回しに、もう一人のパイロットのことを匂わせたつもりだった。
「あまり大きな声では言えないんだけど」
「なんだ」
ヨノイは軽く身を乗り出し、そしてうれしそうに、散歩前の子犬のような顔をして言っ
た。
「この基地、掩体にはかなり空きがあるでしょ」
「空から見たか」
「ここに来る前に聞かされた」
「ではその通りだ」
「全部とは言わないけれど、ほとんどを埋めるつもりなんだ」
ヨノイは二個目の鶏肉にかじりついた。
「埋葬するのか。旧型ごと」
自分には向いていないと思っていながら、イライはまたやってしまった。冗談と本音の
半々をこぼしてみた。すると、ヨノイには受けたらしい。一瞬目を丸くした後、けらけら
と笑った。子供のようだった。こいつ、いくつなんだ。
「要するに、新型に置き換えるわけだな」
ヨノイはうなずいた。
「話してもいいことなのか」
ヨノイはうなずいた。
「俺が敵に通じてたらどうするんだ」
言うと、ヨノイはグラスからオレンジジュースを一口飲んで、そして笑った。
「もし、あなたが敵に通じてたら。そうだね、僕が明日あなたと一緒に飛んで、帰ってく
るのは僕だけさ」
冗談半分、本音半分。きっとそんなところだろう。イライのグラスにはミルクだった。
残りを全部飲み干した。悪い食事ではなかった。同席した人間を除けば。
「じゃあ、明日一緒に飛んでみよう」
イライはポケットから煙草を取り出した。喫っていいか、とは訊かなかった。
「飛行割りに、俺の名前があった。俺は飛ぶ。あんたは、ヨノイさんか。あんたは飛ばな
いのか。『旧型』以外の名前はなかったが」
イライは「旧型」のところに力を込めてみた。
「さっきの話とは別にして、僕はあなたと飛んでみたい」
煙草に火をつけた。ヨノイは表情を変えなかった。こいつは煙草も喫わないんだろうな。
イライは思った。
「一機で飛ぶわけじゃないだろう」
イライはまた食堂を見渡した。ヨノイのウィングマンの姿は、見えなかった。
「もう一人に、よろしく言ってくれ。明日を楽しみにしてる」
低く言った。
ヨノイはまだうれしそうな顔をしていて、鶏肉と格闘していた。
もう少し料理の話をすればよかった。煙草を喫いながらイライは思ったが、もう会話は
終わらせたつもりだった。もう話すことはない。今日はここまでだ。俺も、仕事の話以外
は得意じゃないからな。もう一人のパイロットのことを訊けばよかったか? そんなこと
は、席を立ってから気づいた。
ハスミの笑い声が聞こえた。そのとき気づいた。食堂はいつもよりも談笑する声が少な
かった。
みんな、戸惑っているのかもしれない。
自分の場所に、別な登場人物が現れたことに。
晴れた。
プリブリーフィングで、気象隊のユヒが無表情に、前線が去ったと話した。夕食の後し
ばらく、激しい雨が基地を襲った。風はなかったが、強い雨だった。大粒で、宿舎の屋根
がにぎやかだった。タグサリが帰ってこなかった日に聞いたあの曲が、また宿舎の廊下に
流れていた。雨音とは周波数が違うのだろう。イライの耳にもよく届いた。誰の部屋から
こぼれて、誰が聞いているのか、昨夜もわからなかった。
そして、晴れた。
飛行服を着ると落ち着いた。飛行割りには、ノスリが四機、自分、ユサ、アイズ、ハス
ミの名があった。どういう割り振りなのかよくわからなかった。それはいつものことだ。
ハスミと飛ぶことが多い気がするのは、タグサリが帰ってこなかったからだ。タグサリが
墜ちる前までは、ハスミと飛ぶことは三回に一度ほどだった。ほぼ毎回、タグサリと飛ん
でいた。もしかすると、キリウは俺たち前世代をまとめて始末したいのかもしれないな。
朝から二本目になる煙草を待機所で喫ってから、掩体まで歩いた。指示された離陸時間ま
ではもう少し時間がある。ゆっくり掩体まで歩くと、ヌノベが待っていた。ホガリの同期
と聞いている。ホガリよりもさらに背が低く、分厚いメガネをかけていた。メガネがなけ
れば、パイロット向きの身体だろう。ヌノベの身体は、メガネの印象よりずっと引き締ま
っていた。前職は整備員ではないのかもしれない。トルクレンチのかわりに拳銃を、ジャ
ッキのかわりに重機関銃を担がせれば似合うに違いない。本人に言ったことはないが、そ
れがイライの感想だった。
「おはようございます」
ヌノベは無愛想だった。パイロットに必要以上気を使わない。逆にありがたい。べった
りされるよりはずっと。ホガリよりずっと無愛想だ。行き過ぎる嫌いはあるが、イライは
ホガリに対する信頼と同じく、ヌノベを嫌いではなかった。タグサリがどうだったかは知
らないが。
「ホガリは」
戦闘機には機付きの整備員が割り振られている。イライの機体はホガリが機付長で、ヌ
ノベはその補佐扱いだった。基地ではパイロットの数も少なかったが、整備員の数はまだ
少ない。異常なことだと何度も思ったが、質が量を凌駕しているのだろう、問題が起きた
ことはなかった。そう、機体が原因でパイロットが未帰還になったことはほとんどない。
だいたいが敵機のせいか、パイロットがヘタクソだったか、どちらかだ。整備員は優秀だ。
「ハチクマについてます」
「配置換えか」
「研修だって言ってましたよ」
ヌノベはそう言って暖機運転を始めた。コンタクト。そうか、研修か。ヨノイの話は本
当なんだな。新型がまだ来るのか。けれど、俺が乗り換えるわけではないだろう。俺はこ
いつ以外に乗せられることはないだろう。今後、きっと。
噂ばかりだったY型と、華やかに登場した新型に、かつての最新鋭機がかすんで見える。
GC-8-X型、イライたちのノスリが。しかし、レシプロエンジンの戦闘機としては、いまだ
に最新鋭のはずだ。Y型がターボプロップを積んでしまったからだ。いいエンジンだ。例
えるなら、絹のような感触だ。ホガリとヌノベが調律したこのエンジンは、セッティング
が難しいとされる排気タービン機にありがちな気むずかしさがさして感じられなかった。
ずっと以前に乗っていたW型のスーパーチャージャーより、イライは好きだった。何より
高く飛べる。
エンジンに火が入ると、もうハンドサイン以外、ヌノベと会話などできない。コクピッ
トに潜り込み、プリフライトチェックを黙々とこなす。気温も上々、暖かい。空には雲が
ない。澄んでいる。風の様子は雲がないのでよくは見えないが、積乱雲が太鼓を鳴らして
走ってくるよりはずっといい。もっとも、空に上がってから身を隠すための遮蔽物もまた
存在しないということだが。
ヌノベがハンドサインをよこす。イライが返す。チョーク、はずせ。機体は掩体をゆっ
くりと出る。誘導路を歩き出す。そうだ、まだ走らない。このままタキシングすれば、指
定時間にほぼぴったりには滑走路に出る。キャノピーを閉じた。
誘導路の両脇に茂る木々にはもう、葉が残っていなかった。いつの間に散ったんだ。ま
もなく雪が枝を飾る。本格的な冬になれば、誘導路も狭くなる。除雪隊が活躍するときは、
パイロットも暇になることがある。空模様と雪が離陸を許してくれない日も出てくる。そ
うすれば生き延びるチャンスも増えると喜ぶパイロットもいた。飛ばない、ということは、
死ぬ確率がそれだけ劇的に下がる。歓迎すべきことか? 死ぬよりはいいだろう。交通事
故や病気や、あるいは階段から転げ落ちて死ぬよりは、ここで、コクピットで死にたい。
死ぬのなら。イライは誘導路を進む。巧みに配置された掩体が木々の間に見える。大半は
空き家だ。これもある意味欺瞞か。爆撃機や偵察機が上空を飛んでも、どの掩体に戦闘機
が入っているのか、わからないだろう。誘導路を子細に観察すればわかるかもしれないが、
一万フィートからそれを見分けることができるだろうか。雨あられと爆弾を降らせれば関
係ないかもしれないが、こんな北方まで敵の爆撃機の大編隊が来るはずがないし、こんな
僻地の前線基地が絨毯爆撃を受けるようになったらもう負けだ。爆撃で死にたくはない。
爆撃で殺された人間は惨めだ。撃墜されるより屈辱だ。飛行機に殺されるときは、空にい
るときだけだ。イライはそう決めている。
誘導路がゆるやかにカーブする。左へゆるやかなR。見慣れた風景だ。まもなく滑走路に
出る。羽ばたき音が聞こえる。別のノスリだ。誰だろう。カーブを曲がると、特徴ある六
翔プロペラが目に入る。真後ろからだったので、機番もマーキングもわからない。だから
誰かはわからない。ハスミではないだろう。やや機体がよたついていた。アイズか。イラ
イはゴーグルをおろす。マスクを確かめる。酸素ボトルは三本。よほど遠くまで飛ばされ
るのか。今日も増槽を二本、主翼に吊っていた。機体内タンクも満タン。今日も重い。ハ
チクマが上がってくるなら、不利だ。ただでさえ速度で負けているのに、機動性まで落さ
れたら、墜とされるしかない。ましてタグサリを墜としたあいつがまた現れたら。増槽二
本ではどこまで飛ばされるかわからない。指示では中立地域へ今日は飛行しないことにな
っている。レーダーサイトの向こう、海峡を目指して飛ぶ。攻撃目標があるわけでもなく、
電探情報で敵機が現れたわけでもない。ほぼ訓練だった。模擬戦闘という言葉はなかった
が、プリブリーフィングでのキリウは、言外にそれを匂わせた。
(研修だって言ってましたよ)
俺も研修か。いや、研修の相手か。いまさらノスリで研修はないだろう。
突然視界が開ける。滑走路だ。すでにノスリが二機、位置に着いていた。機番が読めた。
やはり前にいるのはアイズで、自分は集合の最後だったようだ。ハスミの隣に並ぶ。前に
ユサとアイズ。ハスミの機体を向くと、彼もこちらを向いていた。ゴーグルにマスクで、
表情は全くわからない。だからハスミは頭を二度振って見せた。意味があるサインではな
い。あいさつだ。おはよう。イライは操縦桿から右手を離して、軽く敬礼してみせた。お
はよう。ハスミも右手で軽く敬礼を返し、そのまま人差し指を九時方向の空に向けた。イ
ライはハスミの指した空を見る。爆音。
ハチクマだ。もう離陸していた。滑走路上をローパスしていく。速い。主翼端からヴェ
イパートレイルを引いている。それが合図だったかのように、ユサとアイズが滑走を開始
した。プロペラ後流がキャノピーにぶち当たる。二機のノスリがまず離陸。続いて自分と
ハスミだ。スロットル全開、プロペラピッチ最大、エンジンは一瞬で吹け上がる。ターボ
ジェットには真似ができないに違いない。機体は増槽二本分だけ加速をスポイルされてい
るが、順調に速度は上がる。速度が増していく。操縦桿が粘っこくなる。翼が空気をつか
み始めるときの感覚だ。ラダーペダルも粘っこくなる。ハスミとそろってのフォーメーシ
ョン・テイクオフ。ずっと先に二機のノスリ、さらに先に二機のハチクマが見える。イラ
イもハスミも速度を稼ぐ。真ん丸い沼を一瞬で飛び越える。鏡のように空を映して青かっ
た。波もなかった。だから風もなかった。いや、風がないから波がないんだ。世の中には
順序がある。きっと撃墜されるのにも順序がある。
イライは思う。
ユウ。俺を墜とす気か。
ヨノイは昨夜のテーブルでイライを墜とすと笑っていたが、その役目は、ユウ、お前が
担っているのではないのか。違うのか。
コヤチダ本線の鉄橋を瞬きする間もなく通過する。市街地が見える前にゆっくりと左へ
旋回した。視界の右手にのっぺりとした平面が見えた。ソラノ川だ。ニジマスが釣れるら
しいとは、誰から聞いたのだろう。今年は、よく釣れる。いつ聞いたのだろう。三ヶ月前
か。だったら、六機上がって四機墜とされた、その四機のパイロットの誰かだったかもし
れない。だったら覚えていなくて当然だ。彼らの記憶はすでにない。きっとタグサリもま
た、忘れられていく。忘れようとして忘れていく。人はそうして年を重ねていく。生きて
いくには、すべてを覚えていく必要はない。生きていくには覚えることが多すぎる。必要
最小限のことだけを覚えていればいい。人も戦闘機も身軽な方がいい。けれど、人は戦闘
機のように、余分なタンクをすっきり切り離したり、残存燃料を投棄したりはできない。
人が余分なものを捨てるには、手続きが煩雑なのだ。忘れようと努力するのは結構だが、
努力しすぎるとかえって忘れられなくなる。そういうときは、何も考えなければいい。そ
れが一番難しいのだけれど。
ハスミはがっちりと編隊を組んでくる。今日の隊形は、ユサがフライトリーダー、アイ
ズがそのウィングマン、こちら側はハスミがエレメントリーダー、自分がウィングマンだ。
やや先行するハスミの翼端で、空気が歪んで見えた。速度は十分だ。ハチクマはどこだ。
新型は。その性能を、確かめてやる。タグサリを墜としたあいつらよりヘタクソだったら、
そうだ、俺が二機ともまとめて撃墜してやるからな。
先行して離陸していた二機のハチクマに四機のノスリが追いついたとき、眼下はうっそ
うとした森林地帯だった。といっても、高度一万フィートを超えたいま、果てしなく続く
森林は、すっかりくたびれた玄関マットのように見えた。さもなければ、毛足の短い絨毯
だ。三時下方に鉄塔が並んでいる。海峡沿岸の発電所から電力を供給する超高圧線だ。イ
ライは時々思う。中立地帯にもああした送電塔が並んでいる。低空を飛ぶとき、あの鉄塔
と送電線は何よりも脅威だ。低空で進入する戦闘機や攻撃機を防ぐために敷設したのかと
思うほど、送電線はやっかいな存在だった。発電所や変電所の近隣は飛びたくない。たと
えば夜間、発電所への爆撃を命令されたらと思うとぞっとする。航空標識灯を消灯した鉄
塔は闇に紛れ、送電線は獲物を待ちかまえるクモの巣のようにパイロットたちを罠にかけ
るだろう。意図せずとも、あれは脅威だ。
四機のノスリは二機ずつ別れ、わずかな距離と高度を隔てて飛ぶ。先行するのは離陸し
たときと変わらずユサ、続いてアイズ、ハスミ、そしてイライ。二機のハチクマは、菱形
に近い隊形で飛行するノスリの右側に占位していた。編隊間を詰めてくる。戦闘隊形では
なかった。ハチクマを間近で見るのは、これが初めてだった。長い機首、ノスリよりも太
い胴体、後退翼に背の高い垂直尾翼、よく見ると水平尾翼は全体が作動するタイプだった。
そして、ハチクマも機体中央に増槽タンクを下げていた。主翼に搭載された二基のターボ
ジェットエンジンの燃費はどうなのだろう。ノスリにとってもまだこの高度はやや低め。
ではハチクマには低すぎるほどだろう。キャノピーが日を浴びていた。中のパイロットは
よく見えない。先行しているのが昨夜のヨノイだろう。大尉だとは後で知った。食堂に現
れた彼は、制服を着ていなかったからだ。飛行服にも階級を示す徽章はなかった。が、新
鋭機を任されたパイロットの階級が低いはずはないだろうとイライは思っていた。そして
彼が純粋培養組ならば、あの背格好でイライより階級が下とは思えなかった。食堂でのヨ
ノイは頼りなげだった。まるで子供のようだった。純粋培養組によく見られる性質で、そ
れは特筆すべき事柄ではなかった。上手に飛んでくれればそれでいいのだ。実際、並んで
飛ぶ彼のハチクマは安定していた。エンジンの排気がゆらゆらと陽炎のようで、それにし
てもやはり機体は大きい。その彼のハチクマの後ろが、件のパイロットの機体だ。
見間違いかもしれない。他人の空似という言葉もある。イライは昨日、二機のハチクマ
が飛来したときに自分がみせてしまった動揺を、いまでは後悔していた。本当にユウか。
そんな気持ちが強く湧き出てきたからだ。エプロンでキャノピーを開き、そこで遠く見え
たパイロットの顔が見えただけだ。それに、飛来してきたパイロットたちは自己紹介を積
極的にしなかったし、キリウやレンダも彼らを紹介しようとはしなかった。
ユウか。
無線のスイッチは切ったままだった。いつもの飛行なら、無線封鎖の指示がない場合、
パイロットたちは会話する。機体の様子、空気の様子、目標の様子、その他様々。が、今
日は離陸する前から誰も必要以上の言葉を発しなかった。なぜだろう。だから自分も無線
のスイッチに指はいつでも届く状態にしていたが、スイッチを入れることはなかった。
ユウか。
スイッチを入れ、呼びかければいい。ともに飛ぶパイロットの名を呼ぶことは、規律違
反でも何でもない。けれど、できなかった。ヨノイの機体を子細に観察することはできて
も、後続する「彼女」の機体を観察することができなかった。
後ろめたさがあった。
かすかな屈辱もなぜか感じていた。
なぜ、そんな疑問もあった。
逡巡する自分が信じられなかった。地上ではいくら思い悩んでもよかった。しかし、離
陸してからの逡巡は、命に関わる。戦闘機もパイロットも、可能な限り身軽な方がいい。
が、今日のイライは、気が重かった。ずっと旋回しているような気がする。そう、旋回時
の加速度がずっと全身にのしかかっているような気がするのだ。空間識失調に陥りかねな
いな、そんなことも思った。旋回しているはずもないのに、旋回していると思いこむ。想
像力は凶悪だ。身体が反応してしまう。
「ヒムロ・イチから各機。要石を通過」
ユサの声にはっとする。
「ヒムロ・ニ、了解」
アイズの声だ。
「サン」
ハスミ。
「……ヨン」
ヒムロは飛行隊に割り振られたコールサイン。イライは見たことがないが、ヒノキの仲
間の常緑樹だとハスミが以前話してくれた。首都の近くの公園に行けば生えているよ、と。
いましがたの交信は、編隊が海峡の手前の山岳地帯に設置されているレーダーサイトを
通過したことを告げるものだ。
「上がるぞ」
ユサの声。山地を越えるため、高度をさらに上げるというわけだ。わけてもこのあたり
は気流が荒い。海からの空気と、森林地帯から吹きつける風が山地で複雑に絡み合い、山
肌に沿って飛ぶときは、飛行機酔いをしそうになるほどだ。イライは操縦桿をわずかに引
き、機首を上げた。対気速度計の針はそのままで、昇降計の針が動き出す。まだエンジン
には十分すぎるほどの余裕がある。そして、基地を離陸したときと変わらず、雲は全くな
かった。何となく不安になる。逃げ場がない。適度に雲があった方が安心できる。いやな
習性だった。敵に襲われたときのことを常に考える癖がもうすっかり染みついていた。空
気はよく澄んでいる。ようするに「相手」からこちら側もよく見えるということ。逆にこ
ちらも「相手」をかなり遠くから見つけることができる気象条件といえるが、澄みすぎる
空気は、イライはどちらかといえばあまり好きではない。というより、安心できない。
「二万まで上がる。遅れるな」
「了解」
横を見ると、二機のハチクマはぴったりと離れない。機体もわずかなピッチングをして
いるだけで、それは気流を感じている心地よい揺らぎといった程度に違いない。
眼下に山岳地帯が広がり出す。白い。雪だ。砂糖を散らした菓子のようだ。やはりもう
季節は巡っていた。基地から巡航速度でわずか三十分。ここはもう冬の匂いがする。
上昇が続く。この程度の上昇角度なら加速することもまだできる。しかし各機は速度を
維持したまま編隊を維持する。燃費を考えていた。燃料系はまだ三分の一ほどを消費する
かしないかという程度だ。増槽から燃料を消費しているから、機体内燃料はたっぷりと残
っている。フィードタンクをうまく使えば、そして増槽を捨てれば、ノスリは風車のよう
にロールすることができる。そうなれば、もはやノスリはハチクマの敵ではない。もっと
も、あちらがスロットルを全開にし、最大速度へ向けて加速を始めたら、こちらは追跡を
あきらめて逃げるしかないだろう。もともと性格の違う戦闘機を戦わせてどうしようとい
うのか。今日の飛行に、イライは苛立ちをも感じていた。本音がこみ上げてくる。黙って
飲み込んだ。
山地のサミットは越えた。高度計の針がぴたり二万フィートを指す頃、キャノピーの真
正面に水平線が見えてくる。海峡だ。浴すんだ空気が、くっきりとした水平線を見せてい
た。船影も、今のところは見えなかった。速度、三〇〇ノット。ブレードの音が心地よい。
そろそろか。そんなことを思って横を向くと、二機のハチクマがゆっくりとイライたちの
編隊から離れ始めていた。
いよいよか。
イライは計器類をチェック、スロットルを握る左手と、操縦桿を握る右手、そしてラダ
ーペダルに載せた両足が、しっかりと機体とリンクしているかどうかを確かめる。
大丈夫だ。
イライは深呼吸をする。
そして思う。
何が、大丈夫なんだ?
(2005-03-11)