僕は蒼く澄んだ水の底にいた。 水の中では自由に泳げるはずだ。だが僕の身体には浮力がない。身体のどこかに鉛のよ うな意識があった。あの日以来、僕が抱きつづけている感情だ。だから身体が重い。僕は 両腕を両足を必死になって動かすのだけれど、よけい水を飲みこんだ喉は苦しく、もはや 上下の感覚すら怪しい。身体の奥底に重くのしかかる感情はけっして失われることなく、 しっかりと僕を底なしの闇へと突き落とす。だめだ、僕は浮かび上がることはできないの か。あまりの不快感に僕は大きく息をつく。するとそこがあたかも水中ではないかのよう に、僕の肺は心地よいほどの冷気を吸いこんだ。 遠のいていた意識が、ふっと戻る。そこは水の中ではなかった。水の中ではなかったが、 世界は蒼く澄んでいた。 十二月の夕方。……放課後の学校。  僕は誰もいないホールのベンチで、バスの時間を待っていた。太陽はとうに沈み、校内 はうっすらと闇に包まれはじめていた。いつもなら部活の生徒たちの声も聞こえるのに、 今日は水を打ったように静まり返っている。期末処理で軒並み部活は休みで、授業が終わ るとみんな先を争って帰ってしまった。 学校から一番近い地下鉄の駅までは、それでもバスで二〇分はかかる。そこから家まで はさらに小一時間近く、僕は一人でその時間を過ごさねばならない。あの日から続く風景 は空虚で、そこにはいるべき人間の姿がすっぽりと欠けていた。 四階まで吹き抜けのホール。天蓋はガラス張りで、電熱線でも入っているのか積雪はな い。おかげで澄んだ空も、瞬く星すらよく見えた。僕の正面には、一階から四階までの壁 を利用したレリーフが彫り込んである。いつでもレリーフは僕を、僕らを見下ろしていた。 それは流れる滝のイメージ。薄暮のホールでレリーフはちらちらと輝いていた。 僕はバスを待っている。レリーフに埋め込まれた古風な時計は、五時を指している。定 刻ならあと三〇分でバスが来る。おそらく外はかなり気温が下降しているだろう。すでに 校内の暖房は切られたようだが、零下一〇度の外よりはここのほうが居心地がいい。そう だ、彼がいなくなってから、僕はここで考えを巡らすことが多くなったんだ。……あの日 から。 あの日。 意識が逆転をはじめる。水の底のような蒼い十二月は、七月の、肌を灼く強烈な日差し にかわった。 蒼い冬から、白い夏へ。 ひたすら暑く、真っ白い太陽が僕を急かしつづけた一九九九年の夏、世界の終末が訪れ るとどこかの男が予言していた。僕は終末思想とは無縁だった。それはあまりに無責任で 刹那的な思想に思えたからだ。しかし、この夏確かに一つの「世界」が終わった。いや、 終末へのきっかけは唐突だった。唐突だった終末への始まりから、世界はゆっくりと終わ っていったのだ。そして一つの世界の終焉は、また別な新しい世界の開闢とも言えた。僕 はその事実をただ受け入れるしかなかった。 夏の記憶が蘇ってくる。鮮明に、体感的に。そしてたまらなく寂しい感情。 見上げる空は冷たく澄んでいる。名前も分からない星が瞬いていた。 ……、アキラ。  時を刻む音が、ホールに響いた。   一、アキラ 今年の夏は、いつもより早く訪れた。太陽の光はすべてを白く染め上げようとする勢い で、強く鮮烈に降り注ぐ。天蓋を通して差し込む太陽。ホールの床は夏の光であふれかえ っていた。 時計はまだ午後の四時半を過ぎたところで時を刻みつづけている。夏至を一月前に過ぎ、 まだ日は長い。学校中からトレーニングの声が響く。期末試験も学校祭も終わり、誰もが 開放感でいっぱいだ。だが、僕は開放感という言葉とは無縁な場所にいた。 空はエアブラシで吹いたような、突き抜けるように鮮やかな青。見上げる僕に、強く白 く、太陽は照りつける。そう、そのまま僕の思考も灼いてしまってくれ。今は現実を受け とめるだけの容量が、完璧に僕は欠けているのだから。 アキラ。 つい数日前までなら、僕の隣に彼がいるのが普通だった。僕より少し背が低く、半分閉 じた眠そうな目をした彼だ。 アキラがいない。彼は五日前、どこかへ行ってしまった。今日と同じく、強烈に暑い夏 の日に。 学校祭の振替休日だった月曜日、僕は昼過ぎまで眠っていた。日差しと暑さに目を覚ま して外を見ると、遠く手稲山がゆらゆらと揺らいでいた。誰もいない居間のソファに僕は 腰掛け、窓辺のベンジャミンの葉が風にそよいでいるのを眺めていた。喉に渇きを感じた 僕は、冷蔵庫で冷やしてある水をコップに注ぐと、一気に飲み干した。静かで暑い午後だ った。 杉本から電話がかかってきたのは、コップに注いだ冷水の二杯目を半分ほど飲んだとき だった。受話器を取った僕は、電話の向こうのただならぬ雰囲気を感じた。 滅多に動揺などしない杉本が、あきらかに我を忘れていたのだ。 どうかしたのか? 僕は訊いた。だが杉本は僕の問いには答えてくれない。ただ荒い呼吸を続け、上ずった 口調で脈略のない言葉を口にする。再度問いただすと、電話の向こうから唾を飲むような 音が聞こえた。そして杉本が告げた一言は、真夏の午後を凍らせた。 最初は質の悪い冗談だと思った。杉本はそれを即座に否定した。僕は何かを言おうとし た。だが言葉にはならなかった。声が思うように出ない。身体から一気に血が引いていく のが分かった。自分が立っているのか座っているのか、それすら分からなくなった。 アキラが死んだ。 杉本はそう僕に告げたのだ。 ホールでは夏の日差しが踊りつづけている。 僕はもう何度目か分からないため息を吐いた。胃が重い。 「永井君」 顔を上げると、床の照り返しに目を細める春香がいた。安藤春香。二年来の僕のクラス メイトだ。 「安藤」 彼女はポニーテールを揺らしつつ、ゆっくりとした動作で僕の隣に腰掛ける。 「まだいたの」 そういう彼女は、ブルーのジャージに白さだけが目に焼き付くTシャツ姿だ。 「部活?」 「うん。今終わったとこ。喉渇いちゃって」 そう言ってパック入りのソフトドリンクを一口。 「春香、更衣室閉めるよ!」 春香と同じジャージ姿の女の子が、廊下から声をかけた。 「今いく。  そうね、永井君、着替えてくるからちょっと待ってて。バス、まだ大丈夫だよね?」 僕はうなずき、春香は小走りにホールをあとにした。身長一六〇センチ、痩身の彼女は 走る姿も軽快だった。また僕は一人になった。 僕は再びレリーフに目をやった。レリーフは五年前、この緑陵高校が新築したときに記 念に作られたものだという。コンクリート打ち放しの壁面に、滝のレリーフ。「流水」のイ メージは、僕にはパイプオルガンにしか見えない。 天蓋から差し込む日差しは、幾分柔らか味が増していた。時間はゆっくりと夕刻へと向 かっている。 レリーフ中央には、何やら格言が彫り込まれていたはずだが、とても今の僕には読めな かった。ちょっと前まで視力は二.〇を誇っていたのだが。そうだ、確かに入学した当時 は見えていた。だが何が書いてあったのかはもう思い出すことができなかった。 「おまたせ」 春香が戻ってきた。着替えた春香は淡いブルーのブラウスに、色落ちしかけたジーンズ だ。特に制服の規定がないこの学校では、みんながおとなしいラフな服装だった。 「えっと、バス何分だっけ?」 春香は腕時計を一瞥する。 「安藤」 「ん?」 「あのレリーフの字、読める?」 僕は例の格言を指差す。 「んん、どれ?」 「あれ」 春香は丸い目を細め、 「ええっと、あれなんて書いてあったっけ。んんん、見えないよ。あたしコンタクト着け ても〇.七だもん」 と苦笑する。 「永井君、バスそろそろ来ちゃうよ。いこうよ」 なおレリーフを見ていた僕の手を、春香が引いた。 バス停は昇降口を出、二五段ある階段を降りた道路沿いにある。この学校は段差が多い。 僕ら二人のほか四人の生徒がバスを待っていた。 バスは珍しく定刻通りにやってきた。 「あっ、涼しい」 春香は最後尾の席に座る。当たり前のクーラーが妙に嬉しい。 雑木林が広がる水源池から、住宅街へ。影を伸ばす家並みをバスは走る。僕は座席で、 夕焼けが近づいた太陽に身を委ねていた。僕たちはほとんど言葉を交わさなかった。春香 も街並みを眺め、頬杖をついていた。練習での心地よい疲労に身体をたゆたわせているよ うな、穏やかでほんの少し眠そうな横顔だ。ポニーテールが夕日に輝き、少し潤んだよう な瞳を細い指先が時折こする。そんな表情を眺めていると、僕も眠気を感じてしまう。バ スが終点の地下鉄南北線澄川の駅に着いたとき、空は息を呑むような夕焼けだった。でも 春香は足早に改札へと向かった。急いで家に帰りたいのか、ひょっとしたら随分と腹が減 っているのかもしれない。駅前のパン屋から漂う香ばしい匂いに、「うう、バターロール食 べたいなぁ」などと呟いていた。 春香も僕も、ちょっとした遠距離通学者の部類に入っていた。僕は北区太平、彼女は白 石区南郷だ。平岸から白石へとバスも出ていたような気もしたが、春香は地下鉄を利用し ていた。僕は札幌駅から学園都市線に乗り換える。一時間以上かかる通学を最初は負担に 感じていたが、ラッシュアワーにさえ慣れてしまえば、どうということもなかった。友人 たちとばか話をしながらの通学も悪くなかったからだ。 自動改札から階段を上りホームへ。夕日がホームに差しこみ、電車を待つ誰もを金色に 染め上げる。乗客たちは夕日などには興味もないそぶりで、おそらくはたどりつく家路を、 食卓を思っているのだろうか。 ゴムタイヤを履いた電車が滑り込んでくる。始発の真駒内から二駅目。車内は充分空席 がある。窓からは藻岩山が夕日に輝く。けたたましい走行音も慣れてしまった僕にはもは や心地よい。電車は南平岸から地下へ潜る。突然訪れる夜の世界。鏡のような窓越しに春 香は時折目を合わせてきた。上目遣いに僕を見るのは、彼女が他人の様子をうかがってい るときの特徴。僕にはほとんど言葉をかけてこなかったが、でもその気遣いだけで十分だ ったし、そんな春香の気遣いはなんだかとても辛かった。僕がどれほど辛気臭い顔をして いたのか、窓に映る姿に自分自身分かっていたからだ。 大通駅で春香は東西線に乗り換える。「じゃあね」、春香は微笑みを残して電車を降りた。 雑踏へと消えていく彼女を目で追うが、あっという間に新たに乗り込む乗客たちにさえぎ られ、微かな春香の余韻は中年サラリーマンの吐息にかき消された。車内は混んでいた。 もう向こう側の窓などは見えない。だから僕がどんな顔をしているのか、自分自身では確 認できなかった。でも僕は自分がどんな顔をしているのか、やはりおおよその見当はつい た。これまでなら、つい一週間前なら、春香が降りたあとも僕が一人になることは少なか ったのだ。 アキラがいない。 だから僕はこんなにひどい顔をしているのだ。 アキラとはもう二度と同じ電車に乗ることはない。 彼は学校祭が終わったその夜、自宅の浴室で手首を切ったのだ。 自殺だった。 アキラはその日、杉本たちと学校祭のステージに立ち、汗を散らせてギターを弾いてい た。お粗末なステージとライト。リズムの時々狂ったドラム、即席っぽいキーボーディス トと喉を嗄らすボーカル、ノリノリのベーシスト。アキラは杉本のリードギターと絶妙の コンビネーションを見せていた。僕は下から春香とステージを見ていた。控えめだった彼 は実はギターの名手で、パートはサイドギターだったけれども杉本にすら負けていなかっ た。飲み込まれることなく、飲み込むことなく。たがいを引き立てつつ、それは数多い勇 姿バンドの中で最もすばらしいプレイだった。ステージが終わり、体育館一杯の拍手を浴 びた彼らは素敵だった。僕にはそう思えたし、アキラの顔も輝いていた。 アキラが自殺するような理由は、見当たるはずもなかった。実際帰りに一緒に乗った電 車では、口数こそ少なかったが、別れ際に見せた笑顔にはかげりなどなかった。 いったい、なぜ? 遺書は見つからなかった。 たった五日前まで、彼は確かにいたのだ。しかし今はもう、彼はいない。札幌駅の乗り 換えで、僕が「さよなら」を言うべき人間はもういない。 僕は一人、雑踏の自動改札を出る。地下街からJR札幌駅西改札へ。誰もが互いに無関 心な人込みの波の中へ。僕の心情を誰も知り得ないように、僕もすれ違う人たちの気分が 分からない。大体知りたくもない。僕はアキラの気持ちすら理解することができなかった のだ。 西改札から九番ホームへエスカレーターを上がる。学園都市線を走るディーゼルカーは もう入線していたが車内にはもう僕が座る余地などなかった。ステンレスの車体は真夏に 冷たく、ディーゼルエンジンの排ガスが僕の鼻を刺した。僕はデッキに立ち、発車を待っ た。ここから僕の家まではまだ半時間ほどかかった。アナウンスが流れ、ドアが閉まる。 列車はけたたましいエンジン音を響かせ、札幌駅を出発した。駅を出、高架から見える一 八〇万都市は茜色に浮かび上がり、すれ違う快速列車は満員の乗客を乗せている。僕もそ の数多い乗客の一人に過ぎない。 百合が原駅を六両編成の列車が出て行く。すれ違って札幌方面へ向かう列車は空席も目 立った。僕はとぼとぼと線路沿いの生活道路を歩いて行き、その横を小学生たちが駆けて いく。彼らが急ぐ先は、暖かい家庭か、そして優しいが少々口うるさい母親が用意した夕 食だろうか。タマネギ畑に真新しい住宅がアンバランスな道路を、彼らは駆けていった。 家に着いても、車庫は空っぽだった。玄関には鍵。両親は共働きで帰りが遅い。姉は一 年前に結婚し、家を出ていった。だから僕は夕食を一人でとることが多かった。母が帰宅 するのは早くても夜の七時過ぎで、父が帰宅するのは残業がつけば終電ぎりぎり、夜勤が 入れば翌朝だ。居間へは向かわず、僕はまっすぐ二階の自室へ上がった。廊下を突き当た ると僕の部屋で、隣の空き部屋は姉の部屋だった。月に一度は帰ってくるが、もう彼女の 部屋はほとんど物置に近くなっている。 通学カバン代わりのデイパックを放ると、ベッドに横になった。大きく息をつくと、全 身の力が抜ける。薄暗い部屋でぼんやり天井を眺めていると、眠くなった。 翌日も快晴だった。これでもう一週間、札幌には一滴の雨も落ちていない。百合が原駅 のホームは乾燥しきっていた。混み合う車内は、扇風機だけではもはやサウナと大差ない。 地下鉄の車両もクーラーのない、札幌オリンピック以来走りつづけている老兵で、季節の 風物詩と交通局が設置している風鈴の音色が車内の暑さに拍車をかけていた。蒸し暑いお 祭り列車は一五分間走行し、澄川駅から発車するバスの車内がようやく涼しかった。 いつも通りの通学風景だった。だが、昇降口で出会った杉本は、いつもと違う顔をして いた。 「やあ」 「よお、公弘」 去年の日焼けが消えないうちに今年も日焼けの始まった杉本は、覇気のない返事をよこ した。男子庭球部の次期エースとは思えないほど、ここ数日で杉本は弱々しい風貌に変化 していた。僕たちはほとんど口を利かずに教室へ向かう。教室は三階、僕も杉本も四組だ った。教室にはもう三分の二以上の顔がそろっていて、春香ももう席に着き、他の女の子 と話し込んでいる。HRまではまだ二〇分あった。クラスの雰囲気は昔と変わりがないよ うに見えた。ただ誰も窓際の最後尾、「永遠の空席」には近づこうとしなかったが。クラス メイトたちのそんな素振りは、ただ僕を苛立たせた。お決まりの花瓶と花など、この季節 三日と持たない。彼への手向けは昨日の夕方撤去された。 僕の座席は窓側の最前列。僕が席に着こうとしたとき、そばでたむろしていた朝倉が話 し掛けてきた。藤田和也が不敵な笑みをもらしているのが見える。 「よおキミヒロ、お前こないだの模試、どうだった?」 ねとつくような口調が耳障りだ。朝倉は藤田と仲がいい。僕は朝倉には返事をしなかっ た。 「アサ、失礼なこと訊くなよ。キミヒロは北大B判定が出てるんだから。学年七位」 藤田が挑発するように、だが誰に言う風でもなく言った。去年……一年の宿泊研修であ まりの不手際を僕に指摘された研修委員は、以降何かと僕に絡んできた。学年全員の前で 罵ったことがよほど癪に障ったのか、ずっと根に持っているらしい。僕が睨むと、杉本が ちらりと目配せをした。 「どうしたキミヒロ、あの成績じゃ不満かよ」 歩み寄りつつ、藤田は云う。変に上ずった甲高い声。彼の言動は僕の神経を逆撫でする のがとても上手だ。 「ああ不満だね。あんな成績じゃ」 僕は藤田の顔も見ず、ぶっきらぼうに答えた。模試の結果だと? いまさら何が模試の 結果だ。 「おやおや機嫌が悪そうだな、キミヒロ。……何かムカツクことでもあるのか」 藤田はとうとう僕の机の真ん前まで来ると、しゃがみこんだ。 「何か、不愉快なことでもあったのか、キミヒロ」 一言一句、確かめるようにいう。僕は返事の変わりに藤田をねめつけた。すると藤田は 身を乗り出して、僕にそっと囁いた。 「死人に憑りつかれたのか、キミヒロ」 一瞬、藤田が何を言ったのか僕は分からなかった。 「何」 「死人に憑りつかれたのか、そう言ったんだよ」 「え?」 教科書類を持った僕の手は止まった。 「あんなイカレ野郎のことばっか考えてると、お前までイカレちまうぜ。キミヒロ」 頬が無意識に震えた。言い返そうにも、言葉が思いつかない。 (イカレ野郎だって!?) 「お前は」 大きく息をついた。目の前がくらくらする。貧血に似ていたが、これは違う。 「アキラがなぜ自殺したのか、気にならないのか」 僕の言葉に藤田は唇の端を歪めた。 「ふん。自殺なんてする奴に、まともな奴がいるもんか。大方、神経衰弱にでもなってた んだろう」 「何だって?」  僕はふらりと席を立った。 「だから!」 藤田は勢いよく立ち上がる。 「そんな神経衰弱野郎に憑りつかれたお前も、同類ってことさ!」 くすぶっていたものに火が点いた。耳たぶが瞬間的に熱くなるのを感じた。 (……!) 僕の拳が藤田の顔面を捉えた。何の感触もない。何の音も聞こえない。だが藤田は僕の 一撃ですとんと腰を落としていた。勢い、藤田は後方の教卓に強く頭を打ち、その音だけ が大きく響く。教室が静まり返った。 「ツゥっ、……この野郎ォ!」 藤田は素早く起き上がると、報復の一撃を僕の頬に食い込ませた。次は僕が転がる番だ った。机が倒れ、いっそう派手な音がした。 「どうしたァキミヒロォ、来いよ、こらァ!」 口の中が鉄の味がした。僕を見下ろす藤田を、初めて僕は殺してやりたいとまで思った。 藤田はそれほど憎い相手ではなかった。が、彼は死人を愚弄したのだ。しかもかつての級 友を。 「フジタ……ァ」 「よせ、公弘」 藤田に向かおうとした僕を、杉本が羽交い締めにした。 「放せ、杉本。……藤田!」 口から紅い飛沫が飛ぶ。 「落ち着け。あんな奴相手にするな」 低い声で杉本が言った。藤田は朝倉たちになだめられ、凶悪だがどこか間の抜けた表情 で僕を睨んでいる。鼻血が彼の襟に紅い水玉模様を形作っていた。怒りはそう簡単には治 まらなかったが、杉本が押さえつける力は強く、僕の上半身はほとんど動かすことができ ない。 「落ち着け、公弘。落ち着け」  荒い息の僕に、杉本は再度僕にそう言った。 「分かった、分かったよ杉本」 呼吸を何とか整える。杉本はやっと拘束を解いてくれた。かたく握った右手の拳を開く と、くっきりと爪の跡がついていた。抱いていた藤田への殺意は、徐々に冷めていく。教 室の隅に目をやると、春香が悲しそうな顔をしていた。 下校していくざわめきを背に僕はホールのベンチに腰掛け、腫れた頬に頬杖をついてい た。あれから僕と藤田が顔をあわすたび、杉本や朝倉が間に立った。昼休みに僕と藤田は それぞれ職員室に呼ばれ、担任に事情を聞かれたほかはいつもと変わりない一日だった。 腫れた頬以外に右の拳が鈍く痛かった。あれほど強く他人を殴ったのは初めてだった。 「公弘」 低い声が僕を呼んだ。 「すぎも……痛てっ」 舌を動かすたびに切れた口内が痛んだ。 「痛むのか」 杉本は落ち着いた動作で僕の隣に腰掛けた。 「藤田の奴……」 さすがに杉本の前ではばつが悪い。彼が止めてくれなかったら、騒ぎはどうなっていた のかわからない。怒りに我を忘れてしまった。僕がもっとも嫌うもうひとりの自分。 「停学は免れたって?」 杉本はトーンを変えない。落ち着いた声だ。前を向いたままの僕には杉本が今どんな表 情をしているのかは伺えなかった。でも僕は彼がどんな顔をしているのか、知りたくなか った。 「昼休み、モリモトに呼ばれたろ。何か言われたか」 「一言『馬鹿野郎』だってさ」 「それだけか?」 「ああ」 「モリモトらしい」 杉本は嘲笑じみた笑いを漏らす。確かに杉本には笑われても仕方ないのかもしれない。 「口ん中、どうだ?」 「二ヵ所切れてた。一週間もあれば、治るだろうってさ」 保健室で言われたことは、それだけだった。藤田に関しては、……知らない。多分僕と 似たようなものだろう。あの程度なら、鼻が折れたわけでもなさそうだ。 「お前も、何であんな奴を相手にするんだ」 僕はちらりと杉本に目線を走らせる。切れ長な杉本の目は、まるで力を失っていた。 「いつものお前なら、藤田が何を言ったって相手にしないだろう」 僕は黙ったままだ。 「アキラ、か」 杉本はため息混じりに呟く。 「お前が荒れる気持ちも分かるよ。もともと藤田たちはアキラとは付き合いがなかったし な」 「それにしたって、言い方ぐらいはあるだろう。イカレ野郎だなんて」 ひざの上で痛む拳を握る。どうしても力が入ってしまう僕のひざを、杉本は厚みのある 掌で叩く。抑えろ、意味がないぞ。杉本の言葉が聞こえてくる。 ホールの床では、相変わらず「夏」が踊っている。 「あいつが自殺するなんて、な」 そう言って杉本は息をつく。 「アキラは、神経衰弱なんかじゃなかったよ」 自分に言い聞かせるように、僕は言う。アキラが神経衰弱だったはずがない。僕以上に しっかりした自分を持っていたアキラが、そんなはずはない。 「分かってる。あいつはそんなことで自殺したりしないよ。 頭のおかしな人間が、バンドの人間と上手くやってギターを弾いたりはできないさ。大体、 音楽やってる人間にはそんな狂った奴はいねぇよ」 あの日のリードギターが僕の耳に蘇る。激しいビートと汗を散らしていた杉本たちが。 「しっかりしろ。月並みな言い方しかできねぇけど、辛いのはお前だけじゃない、俺だっ て、つらい」 そんなことはここ何日かの杉本を見ていれば痛いほど分かる。畜生、僕はなんて馬鹿な のだろうか。自分だけが悲劇の主人公だと勘違いし、そして自分ででっち上げた悲劇に半 ば酔いしれかけている。苛立ちが苛立ちを生み、寂しさが寂しさを呼んでいた。死んだの は僕じゃない、アキラなんだ。僕は主人公なんかじゃない。そうだ、この「悲劇」には主 人公なんていないし、そもそもかっこいいドラマとは僕たちは無縁だ。不謹慎にも僕は悲 劇に酔いかけているのだ。それでは藤田と何の違いもない。ただ僕たちは一人の友人を失 っただけなのだ。それ以上でもそれ以下でもない。だが失ったものの大きさをまだ僕は正 確には把握できてはいなかった。だからなおさら苛立つ。自分自身に。 杉本の言葉が僕の意識に幾度も繰り返されていた。(俺だって辛い)と。 「……俺にはそれしかもう何も言えない」 杉本が最後の言葉を吐き出すと、二人の会話は止まってしまった。途切れた会話に、放 課後の喧燥が割って入る。不意に杉本は立ち上がり、僕の肩を二、三階軽く叩くとホール の出口へと歩きはじめた。 「杉本」 「部活だよ、試合が近いからな」 振り向きざま、杉本は笑ってみせた。久々に杉本の真っ白い歯を見た僕は、多少気が楽 になった。杉本の強さに触れた気がしたからだ。 「安藤さん、公弘は重傷だよ」 「杉本君」 声に振り向くと、春香がいた。杉本は後ろ手に手を振り、すたすたと行ってしまった。 肩に下げた色褪せたドラムバッグが杉本の広い肩に食い込んでいた。 「永井君」 杉本と入れ替わりに、春香は僕の隣に腰掛ける。がっしりした体躯の杉本に比べ、春香 は華奢で軽快だ。 僕の隣に座った春香は、朝の悲しそうな目はしていなかった。 「……大丈夫?」 春香は僕の顔を覗きこむ。左の頬に違和感があった。 「ひどいあざね。……痛むの?」 そっと春香は僕の頬にふれた。 「つっ」 春香の掌は冷たかった。春香の掌はいつでもひんやりとしている。本人は気にしていた が、今の僕には心地よかった。そのまま腫れた頬の熱を奪って欲しい。そして僕のもやも やも彼女に吸い取って欲しかった。しかし、辛いのは僕だけではないのは、杉本に言われ なくても分かる。春香だってどこかしらアキラを失った空白を抱いているはずなのだ。頬 を触れる春香の目に、今朝の悲しそうな光が垣間見えた。澄んだ瞳。だが彼女の目はひど い近眼だった。コンタクトレンズを介さなければおそらく僕の顔は見えないのだ。だから 僕は普段彼女の瞳を「直接」は見えていない。透明な壁に邪魔されている。 「ふう。永井君らしいわ」 春香はそう言って両手を広げ、ちょっとだけおどけた。。杉本も春香も、僕のことを気に している。気遣いは本当に嬉しい。しかしそれだけ気を遣われているということに、僕は 自分自身に腹が立った。 「帰ろうよ、ちょうどバスの時間でしょ?」 春香は僕を急かすように立ち上がった。 澄川駅へ向かうバスが僕らの脇を過ぎて行った。 僕らはバスには乗らなかった。ひどい混み方だったし、それよりもお互い歩きたかった のだ。程よい冷房の中にいるよりも、カラカラの暑さの外気に身をさらしたかった。心の どこかで高まった湿度を、少しでも蒸発させたかった。たとえ無駄でも。春香はただ、運 動不足になっちゃうからね、と笑った。本音は案外僕と一緒なのかもしれない。水源池の 森からはひっきりなしにセミの合唱が聞こえ、道路脇の草むらからは時折バッタが飛び出 し、むっとするほどの草いきれが夏本番であることを物語っている。 「今年は暑いね」  ようやく春香が口を開いたのは、もう僕らが水源池通りに入ってからだった。 「冬が寒かったからね」 僕は答える。何気ない会話。街路樹が風に揺れた。 「ああ、気持ちいい」 春香は目を細めた。 「海へ行きたいなぁ」 空を仰ぐように身体を反らせる。しなやかな春香の身体は中学、高校とバレーボールで 鍛え上げたものだった。 「ドリームビーチ?」 「そうね、やっぱりドリームビーチかな。石狩浜でも、いいけど」 「どっちも混むよ」 「そうね、混むよね。プールの方がマシかもね」 春香の「そうね」は、リラックスしているときの口癖だった。西に傾きはじめた日差し はまだ強く、僕らの気持ちは幾分乾いてきたのか。 「安藤、夏休み部活は?」 「んん、部活はねぇ。今日は休み」 「夏休みだよ。三年が引退して、安藤たちがメインになるんだろう?」 僕がそう言うと、春香は両手を首の後ろで組んだ。 「あのねぇ、あたし、部活辞めようかと思ってるんだ」 爪先で小石を蹴る。乾いた、しかし柔らかい音が転がる。 「どうして?」 僕は驚きを隠せなかった。春香がどれだけバレーボールが好きか、日頃聞かされていた からだ。 「そうね、背が、足らないのよねぇ」  身長? そういう春香はうつむき気味で小石を蹴りつづけていた。本音じゃないな。背 が足りない程度で彼女は弱音を吐いたりしないはずだ。 「安藤、いくつだっけ?」 「一六〇ちょっと、ないかな」 「女の子にしては、普通だろう」 春香は立ち止まり。背伸びをしてみせた。 「永井君はいくつ?」 「一七八、だったかな」 「いいな、少し分けて」 背伸びをした春香は、それでも僕の身長にはとどいていない。 「今度入ってきた一年生なんて、軒並み一七〇センチよ。一八〇近い子もいるのよ。 あたし、レギュラーではちっちゃい方なのよね」 「ジャンプ力つければ、大丈夫だろ? 頑張れよ」 「……そうねぇ、ジャンプ力ね。それは自信あるんだけど」 春香はその場で垂直跳びをしてみせた。街路樹の葉を一枚つかみ、僕ににやりと笑いか ける。不意に訪れる気弱な風と意識しない慰め。誰かにちらりと漏らしたくなる愚痴はみ んな持っている。春香が見せた先ほどの陰りは姿を潜めていた。 「垂直跳びは、六〇センチよ。あたし」 「すごいすごい。そんだけ跳べれば大丈夫、大丈夫」 千切った葉を僕の胸ポケットにさす。そして春香は僕を見据えた。 「永井君は、どうしてバスケット辞めちゃったの?」 彼女の一言は僕の心の中のどこかを揺らす。痛みではなかったが限りなくそれに近い感 覚。 「レギュラー、間違いなかったんでしょ?」 僕は答えられなかった。 僕は五月、バスケットボール部を退部した。理由などは下らないことだった。上級生と か部のメンバーと折り合いが悪かったわけではない。ただ、新任の顧問が気に食わなかっ た、意見が対立した、それだけだった。無視すればよかったのだろうし、意見の対立など プレイで見返せばよかったのだ。でも僕にはそれができなかった。半分勢いで辞めてしま った。嫌いな人間の顔など見ていたくなかったのだ。おそらくあいつも、僕が気に食わな かったに違いない。だから辞めた。 「もういいよ。辞めちゃったんだからさ」 僕は自嘲した。本当に僕の中ではどうでもいいことだった。 「本当は、辞めたくなかったんでしょ?」 僕は黙ったまま、路面をいく蟻の行列を目で追った。 「永井君て、そういうところあるのよね。一度自分で決めちゃったことは絶対曲げない。 そいでどんどん暴走していっちゃう。好き嫌いがはっきりしているっていうか、永井君の 場合しすぎてるのよね。そんなんじゃだめだよ。だから『緑陵のアナーキスト』なんて言 われちゃうのよ」 春香は一息に言う。いちいちが的を得ていたし、僕の不名誉な、例の宿泊研修で付いた ニックネームまで持ち出され、僕は笑い出した。 「笑いごとじゃないわよ、今日のことだって生徒指導のコバヤシの耳にでも入ったら、そ れこそヤバかったわよ?」 春香はだんだんと興奮してきている。こうなると僕はますますおかしい。 「ちゃんと聞いてるのッ?」 「ハイハイ、そのとおりだよ」 「せっかく成績がよくても、素行不よじゃお先真っ暗なのよ?」 「真っ暗なら真っ暗で、それでもいいさ」 「よくないっ!」 春香はいつしか本気で僕を叱りつけていた。僕は春香をからかい、春香は僕を叱りつけ る。僕が走り出すと春香は半分怒って、半分笑って追ってくる。 結局僕らは澄川駅までほとんど走りっぱなしだった。「現役」の春香に時折僕は置いてい かれそうになる。春香は足が速いのだ。僕の足は時に意思に反してもつれそうになる。ふ た月以上のブランクはきつい。だがこれでも持久力はある方だ。走って走って、汗は滝の ように流れてくる。澄川駅に着く頃には、二人ともシャワーを浴びたように汗みずくにな った。汗だくになったが、吹き出した水分は日差しに照らされあっという間に発散してい く。風邪などひきようもないほど暑かった。でも僕たちはその暑さすら楽しんでいた。 ひたすら太陽は眩しかったのだ。 百合が原公園は夏踊る緑の絨毯が眩しかった。土曜午後、僕は自転車に乗り、公園の周 回道路を走っていた。体力維持と増強のために中学生の頃から走っている周回道路だが、 ジョギングの老人や犬の散歩をするおばさんが多くスピードは出せない。もちろん持久力 を付けるために始めたのだから、全開走行を続けるわけではない。自転車で走っているの はランニングはひざに悪いと本で読んだからに過ぎず、本当に効果があるのかは分からな い。ただ最初始めたとき一日五周していたのが、今では八割の力で十周してもひどい疲れ は来なくなっていた。全開で走れば一周だいたい二分弱。最低でも週三日、夕方走ること が多かった。 日差しが暑い。一向に雨が降る気配はなく、石狩湾に積雲が浮かんでも札幌の街へはや ってこない。全国的に太平洋高気圧に覆われて、本州のあちこちでは水不足の声すら聞こ え始めている。北海道が水不足に陥らないのは冬の降雪があるからで、特に雪の多かった 今年の冬は寒さも厳しく、今夏の暑さはその裏返しのような気がした。 僕は走っていた。 滲み出る汗はどんどん蒸発して散っていく。道路を歩く人たちを右へ左へとかわす。七 速あるギヤは七速か六速にはいったままだ。このトレーニングのおかげで持久力は確実に ついているだろうし、僕の足は太く筋肉質になっていた。バスケットを辞めた今、この自 転車トレーニングをする意味などなかった。いくら持久力をつけても、それを発揮する場 所はもうない。いくら周回道路を速く走っても公園を散歩する人たちが迷惑に思うだけだ。 でも僕は走りつづけた。昨日春香に時々置いていかれたことが気になったからでもあった。 五周、六周、七周と僕はペダルを漕ぎつづけた。腿が重くなってくる。腕が硬直してくる。 全身の筋肉に乳酸が蓄積されはじめている。十周、十一周、十二周。そのうち足が攣り、 きっと僕は転倒してしまう。だがしょせんは自転車だ。バイクと違って転倒してもたいし たことはない。擦り傷ができるだけでせいぜいひどくて骨折だ。閉鎖された周回道路を走 っていて死ぬことはほぼ絶対にありえない。 僕は、死なない。 いくら走っても死ぬことはない。 頭上を丘珠を離陸したターボプロップ機が通過する。犬が芝生を駆け回っている。僕の 視界の片隅をどうでもいい映像が駆け抜ける。平和な土曜の午後が僕をすり抜けていく。 疎外された時間が過ぎて行くのだ。誰も僕には無関心だし、僕もそうだ。 ペダルを強く強く踏みこんだ。ハンドルを握る手は汗で濡れていた。Tシャツは水を被 ったようにぐっしょりだ。チェーンが軋む。高校入学と同時に買ったMTBだが、それま で乗っていたくたびれたママチャリとは違って楽しい自転車だった。変速機は重宝したし、 小回りが利くのが何よりの利点だ。この自転車でアキラの家まで行ったことも何度かあっ た。彼の家は同じ北区だったが地下鉄北二四条駅に近く、僕が住む太平からは自転車で三 〇分程度の距離だった。地下鉄駅近くの高層マンションに彼の家はあるのだが、そこまで はなかなか面倒な道のりだ。あの辺一帯はすすきのに次ぐ歓楽街で、ひとどおりも多く歩 道も狭い。アキラと時々ゲームセンターや古本屋を物色したのが懐かしい。いや懐かしい というにはあまりに最近のことだった。二週間もたっていない日曜に、僕は彼と二四条の 古本屋を何軒かまわって欲しかったコミックスを買っているのだから。 彼との共有できる記憶が蘇る。近いところでは学祭でのライヴ、学校帰りに寄り道した 地下街、スキーにも行ったことがあった。宿泊研修、一年前の学祭。杉本や春香、クラス メイト達と遊びに出かけたドリームビーチ。 奥歯が鳴った。頬が震えた。藤田に殴られた傷がまだ疼く。鼻の奥がつんと痛かった。 呼吸が乱れる。喉が鳴る。これは、鳴咽だ。ついに視界が霞みはじめた。気がつくと僕は 泣いていた。彼がいなくなってから初めて流した涙だった。通夜でも葬式でも、その事実 を受け入れることができなかった僕は涙が出なかった。クラスメイト達は泣いていた。時 折TVで見かける「友人の死に泣く級友達」という構図がそこにはあった。制服のない僕 らの学校ゆえ、中学校時代の制服を着てくる者、借り物の喪服で身を包み居心地の悪そう な者。僕もその中の一員だった。だが涙は出なかった。現実感がなく、架空のでき事、ア キラには悪いが僕には文化祭の演劇にすら見えたのだ。まったくリアリティを感じなかっ た。アキラと口を利いているのも見たことがない女子生徒が泣いていた。杉本はうつむき、 両手を堅く握っていた。春香は声を立てずに涙を流していた。僕は無表情だったに違いな い。藤田はどんな顔をしていたのか僕には記憶がなかった。彼は来ていたのか、憶えてい ない。それどころか僕が本当に出席していたのかも確たる記憶があいまいだ。僕にはアキ ラとの告別の記憶はこの程度しかなかったのだ。 僕は走りつづけていた。 息が上がる。辛い。自転車のスピードは徐々に落ちていく。六月にはユリが咲き乱れる 百合が原公園。美しい公園だった。でもアキラとこの公園に来たことはない。ここに来る とき僕は不思議と一人だ。 僕はとうとう自転車を停めた。何周したのだろうか、今まででもっとも辛い周回だった。 芝生に仰向けに転がる。真っ青な空にちらほらと綿雲が漂う。風は乾いていて、日差し以 外は暑さを感じない。自分の呼吸音以外は何も耳に入らない。体が熱い。腕や背中に芝生 が痛かった。足は棒のように重く、微かに痙攣していた。 ヘリコプターが飛んでいく。なんて自由なんだ……僕は空を飛ぶヘリコプターを見てう らやましく思う。地べたをちょろちょろ走り回るのはもういやだ。飛びたい。 なぜ、死んだ。  涙は止まらなかった。両方の掌で顔を覆った。周りの人間に泣いていると悟られたくな かった。嗚咽が漏れそうになるのをこらえるのが辛かった。 ナゼ、シンダ。ナゼイナクナッタ。ドウシテ、ジサツナンカ、ナニヲオモッテイタンダ オマエハ。オネガイダカラコタエテクレ。モウイチドオマエギターヒイテクレヨ。ナツヤ スミハドウスルンダ。アンドウガウミヘイキタガッテイルンダケド、オマエドウスル? キ ョネンハマイッタヨナ、スギモトガオヨゲナカッタナンテナ、イガイダッタヨナ。タノシ カッタゼアノトキハ。マタコトシモイコウゼ。……ソレニシテモドウシテイナクナッタン ダアキラ。ドコヘイッタンダ。ナゼ……。 ……。 去年の春に知り合って、なんか知らないけどお前とは気が合った。確か杉本よりも先に お前とは仲よくなったんだ。お前にはずいぶん話を聞いてもらった。随分ありがたかった。 夏休みに出かけたドリームビーチは本当に楽しかった。お前と、安藤と杉本と、坂ピーと、 あとミサキちゃん、スエチンと森脇もいたっけな。今年と違って去年の夏はあんまし暑く なかったけど、あの日はめちゃくちゃに暑かった。帰り、星置まで歩くのはだるかったぜ。 とめどない記憶の波が僕を攫う。せき止めてあったのかと錯覚するほど、楽しかったこ とばかりが思い出された。人間というのは都合のいい生き物だ。後ろ向きな感傷はいつま でたってもおさまらなかった。僕は両腕を広げて文字どおり大の字になった。大きな声を 上げて泣き出したい衝動に駆られた。あの夜の女の子のように、僕は声を上げて泣きたか った。でも太陽は僕のわずかな涙すら奪った。涙は流れない。流してはいけないのだと僕 は思った。ただ悲しむだけではいけない。アキラを知らなければだめだ。そうは思っても、 一度溢れ出し、たがが外れた僕の心は空白を涙で水没させるのかと思うほどに果てしない。 もうすぐ、夏休みが始まる。一九九九年の夏休みだ。 暑い。太陽は相変わらず白かった。白く強烈だった。 石狩湾に浮かんだ積雲を遠く見ながら、今年は海へは行きたくないとそのとき思った。   二、春香 高校二年の一学期は無意味に長い校長の談話と数人の貧血者、男子生徒のブーイングと コバヤシの叱責で幕を下ろした。七月二六日月曜日。八月二三日まで、二七日間の夏休み が始まった。生徒達はみな明るく、夏休みをむかえることのない級友がいたことなど、誰 も気に掛ける様子はなかった。アキラとの別れで泣いていた女子生徒も笑顔を漏らしてい た。しかし僕は傍観者の気分でそんな光景を眺めていた。彼らの間に僕の居場所はなかっ た。そう思えた。春香とはしゃいだ三日前のことは遠い昔のできごとのように感じた。 今日も暑い。終業式を済ませた窓際の僕の机は触れないくらい熱くなっていた。LHR を終え、藤田と鉢合わせにならないように僕はさっさと教室を出た。ホールは僕にはまぶ しすぎた。だからそのまま昇降口を出、学校の裏手に回った。 轟音に空を見上げる。一三〇〇〇フィートの雷鳴。ジェット戦闘機が二機、低いエンジ ン音を轟かせて石狩湾の方向へと飛び去っていく。 緑の木々が風にざわめき、ふっと暑さが和らぐ。二脚設置されているベンチに僕は腰掛 けた。セミがうるさいくらい鳴いている。学校の喧燥は森の大合唱に完全に負けている。 風が吹くたび木漏れ日が揺れた。斑な影を真下に落とし、葉のざわめきが涼しい。空には まだ戦闘機の余韻が残っていた。 「おい」 空を仰いで目を閉じたとき、鋼のようによくとおる声が僕を呼んだ。 「こんな所にいたのか」  杉本だった。 彼は早足に芝生を踏んでやってくる。表情はいつも通り。笑っているような怒っている ような、杉本の表情は読みづらい。 「なんだい」 ベンチに深く腰掛けながら僕は訊いた。 「安藤さんが探してる」 「安藤が?」 僕は姿勢をただした。 「ああ、『コニファー』にいるってさ。一時半までなら待ってるって」 僕は腕時計を一瞥した。まだ一時に少し前だ。 「待たせちゃ悪いだろう。早く行けよ」 杉本が言う。口調は乱暴だが声色は低く穏やかだ。僕はうなずき、立ち上がった。頭が くらりとする。勢いよく立ち上がったせいだろうか。後頭部を押え、二、三回頭を振った。 唇が乾いていた。カラカラの唇を舐め、再度空を仰ぐ。 「どうした?」 僕の様子を見た杉本が不思議がる。 「んん、別に、何でもないさ」 一言々々を噛み締めながら僕は言う。 「じゃあ、行くよ」 僕は一歩踏み出す。 「おい、公弘!」 杉本の脇を過ぎ、道路へ向かっていた僕は呼び止められた。僕はいったん立ち止まり、 ゆっくりと振り向いた。 「……しっかりしろよ」 杉本の声は頼もしく、僕の心に突き通るようだった。 春香が待っているという『コニファー』は水源池通り沿いにある喫茶店で、学校からは 歩いて十五分ほどの店だ。外壁は淡いレモン色で切妻の屋根は紺色。小ぢんまりとしてい てかわいらしい外観で、何より春香がいたく『コニファー』を気に入っているのだった。 水源池通りは逃げ水が走り、行き交う車は熱風を浴びせつけて走り去っていく。歩いてい るだけでじわじわと汗が浮かんでくる。 『コニファー』の見かけよりも軽いドアを開けると、クーラーが効いていた。店内はボ ックスシートが四つ、カウンターが八席ほど。あまり広くはない店内には二、三人の客が すでにいた。昼休みを利用した会社員などもここを訪れ、顔だけは見たことがある客しか いなかった。僕らが座る席は決まっていた。窓側の奥から二番目、シーリング・ファンが 回る下だった。春香はそこにいた。後ろ姿だったが彼女のトレードマークの栗色のポニー テールが見える。手元にはトマトジュースのグラスがあった。右手で頬杖をついている。 左手はストローの空き袋をもてあそび、いつも元気一杯の彼女の後ろ姿は今日はちょっと もの憂げだった。 僕は黙って彼女の向かい側に座った。 「やあ」 席についてワンテンポ遅れて僕は声を発した。僕が座ったとき彼女はぼんやりと外を眺 めていた。後ろ姿からうかがった表情は間違っておらず、心なしか沈んだ瞳をしていた。 「……暑そうねぇ、外」 春香は僕をちらっと向くと口元だけに微笑みを浮かべて、抑揚のない声で呟いた。 「うん、暑い。相変わらず、暑いよ」 そうね、と春香は目線をテーブルに落として口の中で呟いた。 アルバイトっぽいウェイトレスがオーダーを取りに来た。僕はレモンスカッシュを頼ん だ。 「こないだは、ちょっと筋肉痛になっちゃったよ、あたし」 姿勢も目線も変らない。微笑み、うつむいたまま。 「俺もきつかったよ。……現役にはかなわないね」 「ふふ」 春香はトマトジュースを一口。 会話は止まった。二人の間には金曜とは違った空気が流れている。見えない壁が、いや 壁というよりは透明な幕のようなものがうっすらと存在している。東を向いている窓から はほとんど日差しは差し込んでこないが、アスファルトの照り返しが真っ白い。 「成績、どう?」 春香が顔を上げ訊いた。 「成績?」 「そ、成績表もらったでしょ」 成績か。藤田と朝倉の顔が蘇った。春香はあのときの会話を知らないから、それに絡め て成績のことを訊いたわけではないのだろうが。 「成績表は、受験には関係ないだろう」 意識しないうちに口調がきつくなったことに僕は悔いた。 「……、ごめん、変なこと訊いた?」 「いや、ごめん」 ふたたび会話が途切れてしまった。ちょうどウェイトレスがレモンスカッシュを運んで きてくれた。一口ストローから口に含むとまだ癒えない傷に沁みた。 「そこそこだよ」 「えっ、何が?」 「成績表」 僕が言うと春香は思い出したように声を上げた。 「そこそこって、どれくらい?」 グラスの氷をかき回しながら春香が尋ねた。 「んん、悪くもなく、特別よいっていうわけでもなく、まあ、そんなとこかな」 他に言いようがなかった。そのとおりだったからだ。僕から見れば特別よい成績でもな かったし、補修を食らうほどの教科もない。それは春香だって似たような成績のはずだ。 彼女は英語と世界史が得意なのだ。 「評定平均どのくらい?」 春香は何が言いたいのだろう。 「さあ、……計算してないけど。四.一か二くらいじゃないかな」 「ウワオ、すっごい。推薦入学オッケーじゃない」 「推薦入学ったって、俺、センター試験志望だよ」 「あ、そっか。そうなんだ」 春香は何かおかしい。普段成績の話などしたこともないのに。 「安藤だって、センター試験受けるんじゃなかったっけ?」 沁みる傷を我慢してストローをすすった。 「そうね、教育大ね」 「教育大、か」 春香は、小学校の先生になりたいといつか漏らしたことがあった。 「私立も受けるけどね」 「私立、か。東京行くの?」 春香のレベルなら受けられる大学はいくらだってあるはずだ。 「ううん、受けない。あたし札幌からは出る気ないもん」 春香は即答した。トマトジュースが少しだけ減っていく。 「じゃあ、北海、北星?」 「北海は受けないよ。行きたい学部ないもん」 「ふうん」 痛みをこらえつつ、僕は一気にレモンスカッシュを飲み干した。喉が渇いていた。 「永井君は、どこ受けるの? 北大?」 僕は頬をさすりながら、考えた。大学受験は一年半も先のことだ。今はまだ考えたくな いのに、春香は矢継ぎ早に質問を繰り返す。それもあまり愉快でもない話を。 「センターの結果次第。それから考えるよ」 「行きたい学部とか、なりたいものとか、永井君、何かないの?」 行きたい学部、なりたいもの。……、なりたいものは特になかった。 「……行動科学科、かな、行きたい学部は」 「え、どこ?」 「北大文学部、さ。心理学だよ」 そう言うと春香はくすっと笑った。何がおかしいのか、僕にははかりかねた。 「永井君らしい、文学部なんて」 「ふん、どういう意味さ」 笑いをこらえるようにしゃべる春香につられて、僕までおかしくなってくる。 「就職に有利なような学部を選んだりする人多いのにさ、文学部って、すっごく永井君ら しいんだもん」 笑うといつもは真ん丸の目が細くなる春香の瞳。彼女の瞳は、栗色の髪に反して、紺色 に近いほどの濃い茶色だった。 「文学部の、何が悪いんだよ」 僕も何だか馬鹿にされたような気がしてむきになってしまった。 「そうね、ごめんごめん、悪くないわ、文学部。頑張って心理学者になって」 「はん、どうしてそう短絡的に。心理学者になんかならないよ」 「なれるよ永井君なら。変ってるもん永井君」 「変わり者が心理学者になれるんなら、町中心理学者だらけだろう」 「そんなことないよ、永井君はすっごおおく変わり者だもんね」 しごくまじめな顔をして春香は言う。 「そうかい」 いつしか僕と春香の間に漂っていた居心地の悪い空気は、その密度を薄くしていた。そ うなれば、なぜ春香があれほど憂いに満ちた表情をしていたのかが分からなかった。杉本 の口調では、春香は何か僕に用事があって探しているような感じだったのだが。 「変人さん」 茶目っ気たっぷりの笑顔で春香は言う。 「何だよ」 「何か食べない? あたしお腹減っちゃった」  僕は右手で「ご自由に」というサインを出した。 「永井君は食べないの?」 そう言う春香は、もうウェイトレスを呼ぼうとしている。 「お任せします」 春香がここで食べるものはいつも同じだ。時間的にランチタイムサービスぎりぎりだか ら、おそらくチキンライスとサラダのミルク付きセットに違いない。チキンライスは春香 の好物の一つだ。 「ランチタイム、まだ大丈夫ですよね」 すまし顔のウェイトレスは小さな声で「はい」とだけ答えた。 「二つ、お願いします」 こういうときの春香の顔は大人びて見えた。すらすらとはっきりした声で早口気味でオ ーダーを伝えるのだ。かしこまりましたと内股歩きのウェイレスはカウンターに伝える。 格子柄のボタンダウンを着た鷲鼻のマスターは無表情だ。僕はもう一年近くここへ足を運 んでいるが、彼と口を利いたことはなかった。カウンターの常連客と思しきくたびれたY シャツの会社員風も、一人煙草をふかしている。この店のマスターは常連客ともほとんど 言葉を交わさない。店内にはありがちな有線放送は流されておらず、穏やかで涼やかなイ ンストゥルメンタルが流されていた。マスターの趣味なのか分からないが、春香がここを 気に入った訳は十分すぎるほど分かる。 「ここのチキンライス、美味しいのよね」 楽しそうに春香が言う。春香は食いしん坊だ。学校で食べる弁当も他の女の子よりも確 か大目で、自分で気に入ったおかずをわざわざ調理して持って来ているはずだ。どこかへ 出かけても彼女は美味しい店をよく知っていて、しかもよく食べた。ひょっとすると僕以 上に食べるのではないだろうか。裏を返せば毎日きっとそれだけ身体を動かしているから だ。いくら食べても彼女は太らない。 「美味しいんだけど、量が多くて」 僕は率直な感想を述べた。 「男の子のくせに、胃袋が小さいなんて。永井君、痩せ過ぎじゃないかなぁ」 春香は品定めをするような目で見る。 「標準体重よりはあるんだよ」 「そうは見えないけど」 「体脂肪率が低いのさ、俺はさ」 「あたしへのあてつけ?」 わざとらしく春香は頬を膨らませた。今時こんな表情とは彼女も子供っぽい。 「あたしも、筋肉質なの。食べたものはみんな血と骨と肉になってるんだから」 半袖のブラウスから覗く春香の腕は確かに筋肉質に見える。彼女の身体は華奢だが、ス ポーツに必要な要所々々はたくましい。彼女は体格のわりには重いはずだ。 「筋肉質なのはよく分かる」 僕がにやりとすると、春香もにやりと返してきた。 店内にケチャップの匂いが立ち込めはじめていた。二人分のチキンライスとサラダを例 の内股ウェイトレスが運んできたのは、ちょうどランチタイムサービスが終わった時間だ った。 「うふふ」 プレートに盛られたチキンライスは僕にとっては十分すぎる量なのだが、春香はスプー ンにいっぱいをさほど大きくもない口へと運ぶ。そして本当に美味しそうに食べるのだ。 だから彼女は食事中にあまりおしゃべりをしない。ひたすら目の前にあるものを食べつづ ける。ただし春香は何でもよく噛んで食べるために、食事には時間がかかる。米は八十八 回噛んで食べるという古い教えを、忠実に守っているかのような食事なのだ。 春香はほとんど口を利かずにチキンライスとサラダ、そして食後にタイミングよく運ば れてくる冷たいミルクを片付けてしまった。終始にこやかではあったが、最初の憂いを考 えると何かの反動なのではないかと僕は訝っていた。 「永井君」 僕のサラダの皿からトマトをつまんで、春香は話し掛けてきた。 「なに」 「あたし、嫌な女でしょ」 何を言われたのか分からなかった。 「だから、……あたしって嫌な女だよね」 「何が、どうして」 それしか言えない。 「水谷君のこと、永井君すっごく、その」 僕は黙っている。 「気にしてるのに」 さっきまでの春香の笑顔はどこかへ行ってしまっていた。 「あたしのこと、怒ってるでしょ、永井君」 すぐには答えられなかった。春香の真意がなんとなく分かったからだ。 「こないだも、あたし馬鹿みたいにさ、まるではしゃいじゃって」 金曜日のこと。 「こいつ、何考えてるんだ? って思ったでしょ」 思ってない。逆に僕は嬉しかった。 「永井君の気も知らないで、あたし」 君が僕のことを思ってしてくれたってことは分かってるよ。 「嫌な女だよね」 違うさ、そこまで気を遣わせている僕が駄目なんだよ。 「あたし、でも、あたしも辛いの」 春香はうつむいていた。 「辛くないわけないよ。……藤田と喧嘩したのだって、水谷君のことでしょ」 教室では、もう例の乱闘事件の原因は公然の秘密になっていた。 「誰も、水谷君のこと気にしてないから」 そうだ。 「でもね、ミサキちゃんとか、ユーカとかも気にしてない訳じゃないのよ」 桜庭、浅田。春香の友人たち。 「あの子たち、水谷君とはほとんど交流なかったけど、クラスから一人いなくなったら、 誰だって、気にするよ。友達が死んじゃって悲しくない人間なんか、いないよ」 春香は消え入りそうな声で、しかし口調ははっきりとしていた。 「初めてだった。あたし」 春香の目は僕をしっかりと見据えていた。 「友達のお葬式なんて」 僕も、初めてだった。だからリアリティを感じなかった。 「信じられなかった」 信じられなかった。 「友達って、あたし言ってもいいよね」 アキラと、春香。二人が友達じゃなかったら、いったい僕とアキラは何だ。 「友達だよ、当然だよ」 声がかすれてしまった。 「水谷君も、そう思ってくれてたのかな」 「思ってたよ。どうして」 「あんまり、あたし、水谷君とは話できなかったから」 そんなことはない。春香は話好きの女の子だ。春香があまり話ができていなかったのな ら、僕は一体どうなのだ。 「水谷君て、あたしなんとなく接するのが恐くって」 初めて聞いた。 「だから、あんまり」 「接するのが」 「うん。何となく、話づらかったっていうのかな、水谷君ね、どことなく冷めていたって いうのかな、いっつもあたしたちのことは一歩引いて見ていたような、そんなふうにあた し思ってたから」 冷めていた。一歩引いていた。アキラが。 「そんなあたしが話しかけたら、水谷君迷惑なんじゃないのかなって、思ってたから」 「そう見えたの?」 「あたしには、そう見えただけなの。あ、でも別にね、あたしたちのことを避けてるよう には見えなかった。だからなおさら、話しなかったのが、あたし辛いの」 春香はまたうつむいてしまった。 僕はアキラのことを友達だと思っていた。今のところ、クラスメイトで一番気が合って いたのはアキラだと、僕は思っていた。確かにアキラは冷めたところがある人間だった。 でもそんな奴にありがちな人を小馬鹿にしたような態度もないし、シニカルな部分もなか った。 「諦め……だったのかな」 「?」 「アキラは、なんていうのかな、諦めていたような」 「諦め?」 僕の言葉に春香は問い返す。 「何に、諦めて」 「いや、ただ何となく思ったんだ。あいつの顔を思い出していて。  そうだ、冷めてるっていうんじゃなくって、何かに諦めているっていうのか、そんな感 じだったような気がする」 アキラは時折寂しそうな笑いを浮かべて僕の横に立っていた。僕は彼のそんな表情に疎 外感を感じるときすらあった。僕とアキラでは世界が違うのではないだろうか、そこまで の疑問符すら浮かぶほど彼の笑みは寂しげだった。時にアキラと僕の間には薄く透明に遮 る幕のようなものがあった。境界の不透明な、透明の幕だ。そのとき彼と僕の距離は星よ りも遠くなる。僕はあの瞬間がたまらなく不思議で嫌いだった。わざとそれに気づかない ふりをして無視していた。思えばそれはアキラの一部だったのかもしれない。しかしだと するならば、アキラはいったい何に諦めていたのか。なぜ自分を(僕や僕たちではなく) 疎外していたのか。それはまさしく自らを疎外するような目だった。僕は気づいていなが ら追求しなかった。まったく、それではただ上っ面だけの友人ではないか。僕は唇を噛ん だ。 「分かるよ、安藤」 「え」 「引いて見ていたっていうのが」 そう僕が言うと、春香は今にも泣き出しそうな顔になった。 「ね、永井君、あたし、ねぇ、水谷君に、ひどいことしちゃったよ。あたし、どうすれば いいの? 永井君」 春香の目はみるみる潤んでいく。紺色に近い彼女の瞳がこぼれ出す。 「あたしって、ひどい女だよ、うう。水谷君にあたし、ひどいことしちゃった」 僕は土曜にさんざん流した涙とは別な味の涙を、密かに感じていた。それはおそらく今 春香が流しているものと同じような気がした。 俺の方が、ひどい奴だった。アキラの友達のふりをしていて、何一つ理解していない。 彼は僕たちに絶望していたのだろうか。僕はアキラが何に諦め、なぜ悲しげな寂しげな顔 をしていたのか、知らなければならないと思った。 僕らが『コニファー』を出た頃、西の空は真っ赤な雲が流れ湿った風が生ぬるく頬を撫 で回した。 明日は、雨かもしれない。 僕は夢を見ていた。いや、見ていたというのは正しくないのかもしれない。誰しも夢を 夢だと認識している場合などは少ないだろうし、そもそも夢というものは破天荒で、目覚 めて考えてみれば文法は崩れており、憶えていたとしても断片的なものだろう。だが僕は 夢を見ていた。それだけははっきりしている。誰しも夢を見ている間はそれが現実だ。脳 は夢を夢と認識せず、もう一つの現実世界として認識している。僕もそうだ。楽しい夢や、 悲しい夢だってある。そして僕が今見ている夢は紛れもなく悪夢だ。目覚めれば平和な世 界が広がっている安心感とは無縁の、悪夢だ。解放などは見えない。なぜならこの夢は覚 めないからだ。現実という名の悪夢はそこにあった。アキラがいなくなった日から、僕は ずっと悪夢の世界に住んでいる。古典的描写に見られる典型的悪夢とはちがって、魔物も 闇もそこにはない。ひたすら眩いばかりの真っ白い太陽に照らされ、世界は真っ黒い影を 足もとに落とし僕は所在もなく立ちすくむ。自分自身が存在する意味みたいなものが、理 由が、ここ数日で音を立てて崩れようとしていた。強烈な光は僕の思考に何かを焼き付け る。自分の存在意義なんかどうでもよくなる。ただ一つ、僕は知りたかった。 なぜ、死んだ。 今や僕は闇夜の方が心地よかった。 学校が夏休みに入った翌日、僕は夜明け前に目が覚めた。街路灯がブラインドを通して 壁に細かな線を引いていた。スポットライトを点けない部屋は、すべてがシルエット。微 かに窓辺が明るいのは、日の出が近いのだろう。そして目覚めてずっと、僕の耳はノイズ を拾っていた。決して耳障りではないノイズだ。意識がはっきりしてくるにつれ、久しぶ りに聞く音を僕は感じていた。 雨が降っていた。 外はどしゃ降りに近いほどの雨だった。十日ぶり、いやそれよりもっと久々の雨だった。 細く開けた窓からは雨の日の匂いがした。アスファルトや土が濡れる、あの匂いだ。 僕は布団を抱きしめるように寝返りを打った。布団は僕自身の汗でしっとりと湿ってい た。現実の悪夢と、非現実の悪夢。目覚める前に僕が身を置いていた世界はどのような世 界だったのだろうか、もう思い出すことができなかった。が、目覚めた瞬間のたまらない 空虚な心境は、きっと見ていたかもしれない夢が決して楽しいものではなかったのだろう と、教えてくれる。いや、楽しい夢など、現実とのギャップがはげしすぎて僕には辛い。 抜け道も逃げ道も、安易な解決法も、ない。 吐き出した呼気は僕の口元で淀みつつ、何だか不快な臭気すら漂っている。胃が痛い。 胃袋を大きな掌で絞られているような、そうでなければかき回されているような。酢酸を 一気に飲んだのかと錯覚しかねないほどの痛みが僕を責め立てた。 何の脈略もなく、僕は春香を抱きたいと思った。誰かにすがりたかった。死ぬほど寂し い、「空気」が痛い。世界に僕一人だけとり残されたかのような虚脱感と孤独。春香の愛ら しい笑顔がよぎる。ここ数日では見られなかった、何の屈託もない笑顔。今の彼女は無理 をして笑っているのに過ぎないのだ、多分。なおも再生は続く。低いけれどもかわいらし い鼻梁、栗色のポニーテール、すらりとした脚、襟足からのぞく滑らかなうなじ、そして。 小ぶりだけれどかたちのよい胸。 春香を想って抱きしめた布団は、僕の匂いしか感じられなかった。あの子の柔らかさと は全く異質の感触と、意志を持たない綿の塊。どこが頭なのか、どこが胸なのか。鼻腔を 擽るような甘い香りは一体どこだ。いくら抱きしめても反応などは返ってこないし、全身 が痺れるような悦楽は彼方で、交わす会話は一人芝居だ。安堵とも快感とも程遠い。それ でも僕は一人、湧き起こった不純な欲望を解放するため、悶えるしかなかった。 次に目覚めたとき、家中人の気配はなく、ただ雨音だけが絶えないカーテンコールの拍 手のように響き渡っていた。もう十時を回っていた。目が覚めても身体に内在している不 快感はまだそこにあった。例えようもない孤独感は幾分落ち着いてはいたが、薄暗い居間 の景色は僕を落胆させるに充分すぎた。誰もいない、団欒の部屋だ。住人はベンジャミン とクンシラン、能面のようにのっぺりとした三二インチのTVだけだ。奥の台所で冷蔵庫 がぶるぶると震えていた。カーテンの向こうはタマネギ畑。重苦しい空の下、軽快な走行 音を奏でつつディーゼルカーが過ぎて行く。 体中から汗の臭いがしていた。脇の下がべたべたする。洗面所で鏡を見ると、唇が薄く 冷たい目をした男がそこにいた。眉は薄くはないが細く、尖がったような鼻はどこか作り 物のよう。いびつに飛び出た喉仏が上下する。幅の狭いあご。脱色した訳でもないのに茶 色い針金のような髪。僕は自分自身の顔が嫌いだった。何よりも姉そっくりのこの顔が。 誰かと似た顔をしていることを、僕は小さな頃からいつだって嫌悪していた。顔だけでな く、誰かと性格が似ていることも許せない。その他大勢に埋没することだけは避けたいし、 誰かが僕に似ていても嫌だ。僕は僕一人だ。誰でもなく、僕だ。 杉本は僕の姉のことを美人だかわいいと誉めちぎっていた。春香は姉と僕を見比べ、そ っくりね、と笑った。アキラは、……何て言っていたのだろう。いや彼は人の顔を品定め したことはなかった。別に杉本を悪く言っているわけではない。アキラという人間は、他 人をとやかく言ったりはしなかっただけのことなのだ。あるいはひょっとすとすると、彼 は他人にも、そして自分自身にも興味がなかったのかもしれない。 寝間着代わりのTシャツを洗濯機に放り、よれよれのトランクスを蹴飛ばす。寝起きの まだ暖気が不十分な硬い体を折り曲げつつ、僕はシャワーを浴びた。熱めのお湯は心地よ く、僕は身体に付着した「汚れ」をすべて洗い流そうとお湯を浴びつづけた。浴室に雨音 とシャワー、両方の音が絡み合い響きあっていた。窓からは淡く白いやわらかな日の光が 射しこみ、飛散する水滴がちらちらときらめいて、僕はノズルを窓に向けてみたりただお 湯を流すだけ流し、それを眺めたりしていた。湯気が煙る浴室は狭い。鏡はすっかり曇っ ていて自分の姿を確認することはできなかった。僕は自分のやせた体を見下ろし、流れ落 ちる水流の感触をじっと感じていた。締った体だと自分でも思った。筋肉が隆々とする腿 を、水流はいくつも枝別れして流れていく。熱い。 アキラはこんなに狭い部屋で自らの命を絶ったのか。 彼が手首を切ったのは、両親が寝静まったあとだったという。リスト・カットは成功率 の低い自殺方法だとどこかで読んだことがある。アキラが首吊りでもなく、飛び降りでも なく、リスト・カットを選んだのはなぜなのだろうか。血液が止めど無く流れる様を、そ して自分の生命が徐々に失われていくて行く過程を、アキラはじっと眺めていたのだろう か。だとするならば、あまりにも常軌を逸している。あまりにも悲しすぎる。要は覚悟し ていたのだ。自分の命を「絶ってしまう」ことに。 キュッ、という軋みと共にお湯は止まってしまう。僕が蛇口を閉めたからだ。沈黙した シャワー、湯気が立ちこめ拡散する太陽に充ちた部屋で、僕はただ無表情な自分を感じる だけだった。 朝食兼昼食、ブランチと呼べば格好だけはいいが、実態は冷えたサケの切り身と、釜に 残っていた堅いご飯だけだ。冷蔵庫を物色してもろくな物がないことくらいは知っている。 がらんとした冷蔵庫は湿った空気を冷やしつづけ、時折身を震わす彼の心臓は一〇〇ボル トのへその緒さえ引き抜けば動きを止める。僕は味気ない飯を食べつづけていた。生乾き の前髪が邪魔臭い。冷えた焼き魚ほど味気ないものはないだろう。油はすっかり固化して しまって、ひねた匂いが鼻につく。 居間の壁に掛けられた時計が一度鐘を鳴らす。十一時三〇分。雨は一向にやむ気配を見 せず、それどころか雨脚は強くなるばかりだ。列車があいの里へ向けて走って行く。いや、 どこへ向けて走って行くのかは分からない。レールを右へ向かえば札幌、左へ向かえばあ いの里というだけで、あいの里の向こうは当別、月形、僕が一度も行ったことのない町が 続く。列車がどこへ向かっているのかは分からない。 今日はまるで予定がない。することがない。八月に入れば模試があるのだけれど、大し て勉強する気もなかった。実際僕はまじめに勉強している訳ではない。大して勉強などし なくてもそこそこの成績が出せたからだ。勉強しなければ何をすればいい? 趣味と呼べ るものなど持っていないし、唯一好きだったバスケットボールはくだらない意地を張って しまったばかりに辞めてしまった。 ソファに身を投げ出した。 テーブルの上の朝刊を手に取ったが、何となく見出しが「重く」てそのまま捨てた。 テレビが点いていない居間は静かだった。バックグラウンド・ノイズとでも言おうか、 雨音と冷蔵庫のうなりと、走って行く列車の音。この部屋は静かだ。この家は静かだ。 ぼんやりと外を眺めていると、突然の強い閃光に目が眩んだ。間髪を入れず耳をつんざ くような轟音が響いた。家が揺れたような気がした。雷だ。それもかなり近い。冷蔵庫の うなりがぴたりと止み、ビデオデッキの表示窓はなにも表示していない。停電したらしい。 僕の心の奥底で騒ぎ立てるものがあった。また閃光。今度はゆっくりと三つ数えてから雷 鳴が轟いた。どこに落雷があったのだろう。近所には高いビルはない。送電塔にでも落ち たのだろうか。ビデオデッキも冷蔵庫もまだ沈黙を守っている。電力回復までどのくらい かかるのか、僕にはまったく見当もつかなかった。 稲妻は自由気ままに、僕が知り得ない何らかの必然が偶然を呼んで、勝手な場所に鉄槌 を振り下ろす。ライトニング・パーティ。そんな言葉が浮かぶくらい、またはあたかもT Vで見る記者会見の会場かと思うほどの雷はそれから一時間ほども続き、電気が戻ったの は停電から一時間はたっぷりとかかった。長い停電だった。稲妻がどこかへ去るると、ド ラマの中のポンプで撒き散らしていたような強烈な雨は、霧吹きみたいな小雨になった。 僕はずっと外をぼんやりと眺めていた。白濁の雨粒が路面を畑を叩き付ける様を、一週間 の渇きを癒していく街の風景を。窓から入ってくる空気はひんやりとしていて、昨日の暑 さはカケラもない。 一時を過ぎた頃、電話が鳴った。 杉本だった。 あの日のような切羽詰まった声ではない、低く通る穏やかな声色。 「暇だろ、出てこないか?」 渇きを帯びた口調だった。遠くから聞こえているような、本当は耳元で聞こえている杉 本の声は、遥か別な世界からの電話にも感じられた。いつもの杉本の声に似ていたが、そ れは決していつも通りの彼ではなかった。春香も杉本も、無理をしている。 「ああ、べつにいいよ」 僕は何気ない風でそう答えた。 「ギターの弦、切れちまってさ、ピックも欲しいし、な」 受話器の向こうの杉本の声はくぐもっていて、電気的信号が変換されているのだけれど、 暖かい音だった。 「ああ、俺も暇だからね」 「分かってるよ。じゃあ、いつごろ出て来られる?」 僕は「あー」と壁に張られた時刻表を眺めつつ答えを探す。 「ちょうどね、もうすぐ列車が来るから……、そうだなぁ、一時半に西改札でいいかな?」 「一時半、札幌駅の西改札」 「杉本は」 「ああ、一時半でいいよ」 杉本の家は学校からさほど遠くない、札幌大学の近所だった。地下鉄に乗れば都心まで はあっという間だ。 「ほんじゃ、一時半に」 「はいはい」 彼との電話はいつも必要最小限だ。何かと話好きでいつも長電話になってしまう春香と は対照的だ。でも杉本から電話がかかってきて、しかも誘ってくるのはそれほどしばしば あることではない。 雨は止むか止まないか、降っているのか降っていないのか、もうそれくらいの小降りに なっていた。受話器を置き、奇妙な静寂に包まれた僕の聴覚を、丘珠へ着陸体勢に入った らしい飛行機のエンジン音が揺さぶった。 ラッシュアワーを外れたダイヤは二両編成のディーゼルカーを走らせる。滴を纏った雑 草は、道端で鮮やかな緑の肌を風に揺らしていた。僕はいつもの線路沿いを、五分後にや ってくる列車に乗ろうと百合が原の駅へ向かう。念のため傘を片手に。半袖のTシャツで は震えすら感じた。街は微妙に煙っていて、離陸するプロペラ機の翼端からはヴェイパー がなびいていた。ホームに人はまばらだったが、乗り込んだ車内には僕の席はなかった。 杉本との待ち合わせには充分すぎるほどの時間を持ち、僕は混み合う札幌駅の雑踏を歩い ていく。夏休みが始まり、大きなカバンを下げた団体や、リュックを背負った子供たち、 休暇を楽しもうとする人々の顔、顔。 札幌駅の改札は、一年前に自動改札になった。札幌圏だけでなく、北海道の主要駅は人 件費節減のために駅員のいない機械式の改札が増えたという。無機質なリズムを奏でる金 属製の駅員の口に、僕は八月頭まで期限の残った定期券を突っ込む。西改札を出たとき、 待ち合わせにはまだ十分近くあった。 コンコースも人ごみだった。平日だというのにこの混み合いかたは暑苦しい。僕は雑踏 が嫌いだ。右へ左へ、ペースを乱す女子高生、のろのろとうっとおしいおばさんたち。ち ょろちょろと踏み潰しそうな子供。炎天下でも手をつなぐカップルの脳みそは僕には理解 不能だ。不意に春香の冷たい手の感触が戻ったが、今朝方の不純な妄想が再生され、僕は わずかな自己嫌悪が込み上げるのを制御しなければならなかった。 杉本はほとんど時間ぴったりにやってきた。僕は北海道旅行をPRするポップのそばに 突っ立っていた。日に焼けた杉本の表情は柔和で、僕は無意味にほっとした。 「よぉ」 控えめな笑みとトレードマークの白い歯がのぞく。挙げた右手は太く、日に焼けた肌は 逞しい。左手に持った傘は、彼の体躯に大してあまりにも華奢だ。 「お前寒くねえか?」 僕の格好を見るなり杉本は言う。 「ちょっとしくったね、寒いよ、やっぱり」 苦笑する僕。杉本はデニム地の半袖シャツと、ジーンズだ。いくら半袖でも僕のTシャ ツよりはまともな格好だった。 「じゃ、行くか」 「どこ行くの?」 「まあ、どこでもいんだけど、大通まで出ようぜ、とりあえず」 「わかった」 人いきれで蒸していたコンコースを抜け、駅前通の空気はひんやりとしていた。都心部 でも雨はもう降っていない。ただ、あちこちに点在する大きな水溜まりが、ここも雷雨が 通過したらしいことをしめしていた。駅前通を歩きつつ、僕らはとりとめもない話をした。 もうすぐ杉本たちのバンドがライヴをすること。バンドの名前は、たしか『ハイレイト・ クライム』だったか。由来は知らないが、「急上昇」するボルテージは彼らにふさわしいと 僕は思う。バンドからサイドギター担当がいなくなり、杉本はただ一人のギタリストにな った。でもそのことは何も言わない。 北一条通で信号に捕まった。交差点を過ぎる車の列は細かなしぶきを撒き散らしていく。 水溜まりには煙草の吸い殻がいくつか浮いていた。信号が変り、歩き出した僕らは地下街 に入った。湿っぽい空気と人の波は札幌駅よりもすさまじい。肌寒い外を歩くよりはマシ だったが、これで人通りが少なければもっといい。通路に座り込む僕らと同年代くらいの 少年たちは、さも生きていることがだるいと主張しているかのような表情で群れている。 酔客たちが嘔吐するのは、決まって通路の端や柱の根元なのだが、彼らはそれを知ってい るのだろうか。杉本が同じことを考えたらしく小声で毒づいた。 地下鉄の改札を横目にポールタウンへ。杉本が目指しているのは狸小路のレコードショ ップだ。ここまで来るのならば大通駅で待ち合わせてもよかったはずだか、それは杉本の 気遣いなのだろうか。狸小路は薄暗いアーケードだ。天井からの照明は、普段はもっと明 るかったと思ったが、僕の気のせいだろうか。レコードショップで杉本は弦とピックを三 つも買い、エフェクターやスコアを眺めた。僕は楽器がほとんど弾けないし、大体楽譜が 読めなかったから、ここではまるで手持ちぶさたになった。音楽は聴く方は嫌いではない が、かといって欠かさずアルバムを購入するようなひいきのアーティストもいない。ヒッ トチャートに顔を出すタイトルは、どれも同じように聞こえるからだ。 その後ゲームセンターに寄り、杉本はレースゲームを二回やり、僕は横で彼の腕前を見 ていた。下手の横好きとでもいうのだろうか、杉本はお世辞にもゲームが上手ではなかっ たが、何かと言ってはハンドルを握った。杉本は「一緒にやろう」と誘ってくれたのだが、 どうもその気にはならなかった。結局彼は制限時間以内にゴールすることができず、白い 歯を見せて悔しがっていた。 「これからどうする?」 ゲームセンターを出、杉本が尋ねてきた。 「なんか行きたいところあるかい?」 「……、別に、ないなぁ」 せっかく誘い出してくれたのは嬉しかったが、本音が出てしまった。杉本と二人、映画 を観てファストフードで食事をするというのも馬鹿らしい。 「定期まだあんだろ?」 「ああ」 「家に来いよ、弦も早く換えたいし」 杉本が自宅へ僕を招待するとは、これはかなり珍しいことだった。普段、学校帰りに寄 ったりしたことはあったが、休日に彼の家へ、しかも彼の誘いで行ったことはおそらくこ れまでにない。 「どうしたのよ」 ちょっと僕は驚いていたのだ。杉本は怪訝そうな顔をしたが、すぐに笑顔に戻り再度僕 を誘った。 「わかった、行くよ行くよ。部屋、片付いているかい?」 杉本の部屋は陸地が少ないのだ。足の踏み場もない部屋、その形容は杉本のためにある 言葉だ。 「散らかってるよ、悪かったな」 「危険地帯はないだろうね」 「ああ、ヤバイのは先週捨てたよ」 以前、確か一ヶ月ほど前に彼の部屋に行ったとき、どこかで確実に何かか腐っていたの を思い出したのだ。 「まぁ、大丈夫さ。来いよ」 杉本に先導され、僕はまた地下街から改札へ、地下鉄のホームへと歩き出す。定期券は まだ充分期限までは日数がある。パスケースを持たない僕は、財布の中で擦り切れ文字の 消えかけた定期券を自動改札に突っ込む。十五分後に僕らはおなじみの澄川駅の改札を出 ていた。西の空はずっと重苦しく雲が垂れ込めていて、手稲山も藻岩山も山頂は見えない。 駅を出たときには雨は降っていなかったのだが、五分もたった頃から滴が水溜まりに波紋 を描き出していた。時刻は三時をとっくに回っていたが、太陽がどこにあるのかは分から なかった。 杉本の家は澄川駅から二十分もかからない。降りしきる雨とクルマの泥はねに気を付け ながら彼の家に着いたのは、あとちょっとで四時になるという時刻だった。通りを一本入 った角地。傾斜した土地ゆえ、階段を上ると玄関だ。十年ほど前にリフォームした杉本邸 はそこそこに大きな家で、今から十五年前、新興住宅街に新築した僕の家とは広さが違っ た。階段を上ってから玄関までは五メートルはあるのだ。教室を一回り狭くしたくらいの 庭では、赤く熟したトマトがいくつか雨に打たれていた。玄関には鍵はかかっていない。 父親が働き、母親は家を守っているのが杉本家だ。帰宅して母親が在宅していることが滅 多にない我が家とは空気が違う。共働きが悪いとは言わないし、両親は十分に優しいのだ から、僕は不満はない。でも、帰宅すると誰かが自分を待っていてくれる家庭を、僕はど こかで羨望しているのも確かだった。 杉本は居間に向かって帰宅を告げると、二階へ通ずる階段を上って行く。階段を上った 向かって右側に彼の部屋はある。六畳の僕の部屋よりもはるかに広い十畳ものスペースは、 積み上げられた音楽雑誌やスコア、ギターアンプにエフェクター、コミックスの数々、そ してわけの分からない物体たちに占拠され、「陸地」はわずかに二畳あるかないかだ。スコ アや雑誌に紛れて宮澤賢治の全集があるのは、杉本の中では意外な側面。彼の部屋のギタ ーやアンプは、月数回、部活の合間を縫って行っている引越しのアルバイトで稼ぎ出した ものだ。テニスと音楽、二つをきちんと両立させて、そのどちらもが上級者レベルの腕前 なのは驚嘆する以外に僕が感じることはない。 「適当にどけて座ってくれよ」 散らかった部屋の主が決まって発するセリフに、僕は雑誌の山を崩さぬように隙間を作 る。よく見るとこの部屋は、理路整然と散らかっている。杉本はこの部屋のどこに何があ るかすべて把握しているらしい。時折腐敗した食べ物が出てくるのは愛敬だ。彼は食べ物 や飲み物を一気にとらず、三分の一くらいを残すくせがあるからだ。 杉本は早速弦交換を始めた。トレモロユニットに布を挟み込み、ロッキング・ナットを 六角レンチで緩めてゆく。ペグを緩めてテンションを下げていき、ニッパーで六本の弦を 切断する。黒く変色した弦は、いくら手入れをしていてもついてしまう鍛練の証だろうか。 新しい弦はすべすべしていて鋭い金属質の光を放っていた。僕は弦交換の様子を横で眺め るのだ。アキラが弦交換をしているときもそうだったように。慣れた手つきで弦を張り終 え、チューナーも使わずに一度調律すると、ロッキング・ナットを締める。再度音を確か めた杉本は、満足そうにコードを押さえ、じゃらんと一度和音を奏でる。その瞬間もうそ れは音楽になっているのだ。僕をちらりと上目遣いで一瞥すると、かなりハイ・テンポで ハンマリングとプリング・オフを繰り返した。その間ほとんど右手はピッキングを行わな い。たいした腕だ、僕はあきれるほど驚いてみせる。ラケットを握っている杉本とギター をかき鳴らしている杉本。道具は違うが、ポテンシャルを引き出すという点ではもはや双 方ハイ・アマの域に達しているのは間違いないだろう。ギターの技法に関する講義は散々 聞かされ、どれをチョーキングと呼ぶのか、どこがブリッジと呼ばれる部位なのか、初歩 的な用語は無理矢理彼に憶えさせられてしまった。 杉本はギターをアンプにつなぐことはせず、スタンドにそのまま置いてしまった。 「もう止めるのかい?」 「ん、あぁ。隣、兄貴帰って来てるしな、アンプにはつなげねぇんだ、今日」 杉本の兄。僕と僕の姉が似ているように、杉本と彼の兄も似ている。顔の作りは二人、 ほとんど似ていないのだけれど、声音と、何より漂う香りは二人が同一の遺伝子を含んで いることを無言のうちにあらわしていた。 「兄さん、何してるんだっけ?」 「警察官」  にやりともせずに杉本は言った。 「ふえぇ、そうだっけ」 「ああ、知らんかった?」 「いや、聞いたかな」 曲がったことが嫌いな杉本、その兄が警察官とは違和感がない。 「刑事?」 「ただのお巡りさんだよ、巡査部長だって言ってたか」 「ふうん」 聞けば杉本の兄は月に一度は帰ってきているらしい。普段は独身寮で暮らしているのだ そうだ。千歳かどこかの派出所だという。 「今度、八月の十日過ぎかな、ライヴやるから見に来いよ」 唐突もなく杉本は呟いた。 「え、ああ、そのときは連絡くれよ」 「お前にだったらチケット二枚用意してやるから、安藤さんと一緒に来い」 「そうそう、安藤さ、部活辞めたいとかって言っているんだよ。……本気じゃないと思う けどね」 筋肉痛と、塩さえ浮いてきそうなほど汗をかいたあの日。そしてもの憂げだった春香の 瞳。 「バレーボール?」 「ンん」 「まあ、そうだなあ、あの子がね」 杉本は多少驚いたような声を出したが、表情はさほど変化しない。 「何となく、分かる……かな」 「……」 「うちのバレー部ってさ、お前も知ってると思うけど、結構強いだろう。時々弱音も吐く だろうさ。俺らみたいな弱小テニス部とは違うから」 目線を下に向け、スコアをぱらぱらとやりながら杉本は笑う。 「安藤さんはそんなに背も小さくないし、たいしたもんだと思うぜ」  杉本はそう言うと口元を歪める。 「お前とは違うよな」 うるさいよ。僕も苦笑混じりに言い返す。だが杉本は僕のことをよく分かっている。そ れ以上は何も言わない。僕がやはりバスケットを辞めると言いだしたときも、「考え直せ よ」。杉本はたった一度、真剣な顔をして僕に忠告しただけで、他には何も言わなかったの だ。 「安藤さんのことはさ、お前が励ましてやらなきゃ駄目さ。どの道、お前が励まされてん だろうけどな」 そのへんもよく分かっていらっしゃる。 「そうだね、あの子には励まされてる。ありがたいよ」 正直な気持ちだった。痛々しいほど春香は僕を気にしてくれている。自分だって辛いの だろうけど、僕を気に掛けてくれている。 「本当に、あの子はいい子だぜ。大切にしてあげろよ」 「わかってる」 春香は、なぜ僕のような人間を構ってくれるのか。いつも僕はあの子の世話になりっぱ なしだ。 「でもな、その前に、お前がしっかりしないと駄目だ」 うつむき、杉本から発せられたセリフは低く鋭く、強い口調だ。 「こないだも言ったよな、みんなつらいんだって。 お前ばかりが辛いんじゃない。バンドの連中だって、スエチンだって、ちょっと考えれ ば分かるだろう」 『コニファー』で春香が言っていたこと、それが反芻される。 「ショックなのは誰だって同じだったことだけど、……、お前の言いたいことは分かるん だ。あいつが自殺するとは思わなかった、なんでだ、ってことだろう」 「いくら考えたってわからない。それだけは、どうしても」 「……厭世的ってわけではなかったよな、あいつはさ」 「厭世的?」 「生きていくのがいやんなっていた、世の中のことなんかどうでもよくなっていたってこ とはなかったよなってことさ」 杉本はいつの間にか僕の目を見て話していた。 「そうは見えなかった」 「俺も、そう思ってる。ありがちな登校拒否とか、苛めがあったなんて話も聞かないしな」 「うん」 薄暗くなってきた部屋に稲妻のストロボが焚かれた。 「また雨かよ……」 杉本はうんざりといった顔色だ。テニス部の彼としては、この時季の雨は相当恨めしい のだろう。 「苛めでもない、厭世的だったわでもない、……、誰かに殺されたわけでももちろんない」 「ああ」 「……お前はさ、ちょっと嫌な訊き方だけど、何でアキラが死んだんだと思ってるんだ?」 真正面に僕を見つめ、杉本は訊いた。 僕は沈黙した。雨が屋根を叩きはじめていた。 「分からない。前の日、アキラはいつもと変らないように見えたし、それまでだって、あ いつの口から『死にたい』なんて一度も聞いたことなんかなかったし」 無言で相づちをうつ杉本。 「わかんないんだ」 再び閃光、そして雷鳴。朝方の光景がふっと浮かび、消える。 「突発的、っていうのか」 杉本が言う。低音の効いた太い声だ。 「最初、うちに電話が来たんだよ、柴野から。あいつ、アキラとは中学のとき一緒だった らしくて、家も近所だろう。アキラんとこへCD借りに行ったっつったかな、したら、そ う知らされたって」 柴野か。一組のお調子者。年中笑っているような顔をした男だ。僕は直接の面識はなか ったが、選挙管理委員会で一緒だったから顔だけは知っていた。 「俺、正直お前に電話して、何を言ったのか憶えてないんだ」 今の落ち着き払った杉本とはまったく異質の、上ずって意味不明な言葉を並べたててい たあの午後。 「柴野から聞いたとき、俺は何のことか分からなくて、何度も聞き返したさ。お前と同じ。 理解できない。今もできてないさ。お前がいらつく理由だって、分かる。  お前から見れば、俺は随分と冷たい奴に思えるかも知れんけど、……なんて言っていい のか、俺はでも、アキラが死んだ理由なんて今は知りたいとは思わないんだよ。それが分 かったからって、奴が生き返るわけでもないし、とにかく今は、本当のこと言っちゃうと、 どうでもいいんだ。忘れたいんだよ。うん、忘れたいっていうのはょっと違うな。アキラ はいなくなったんだ、俺はそう思ってるんだ、今はさ。ただ、いなくなったって。そうと しか思えない。少しの間だけ姿を消しているような、……死んだとは思えないんだよ」 杉本がこれほどしゃべるのはあまり見たことがなかった。一気に、一息にしゃべるとい うのはこういうことか。杉本は終始表情はかたい。 「俺は、」 僕の声は振り絞るような音になってしまった。 「知りたいんだよ。……なんで死んだのか、どうして自殺するようなことがあるのか。昨 日まで一緒にいた人間が突然いなくなって、それがしかも自殺っていうのは、どうしても 俺は納得できないし。 とにかく理由が知りたい。どうしてあいつは自殺なんかしたのか」 雨は窓を叩きはじめていた。帰りは辛い。 「それで納得できるんなら、そうした方がいい。お前のしたいようにするのが、いらいら を抑える唯一の手段なんだろうさ」 消え入りそうなほど小さい声なのだが、呟いているのではない。杉本の声は不思議と小 さい声でもよくとおった。 「アキラって、変った奴だな」 杉本は口の端をつりあげるような笑みを浮かべ、そう言った。過去形ではなく、現在形 で。そうだ、おそらく僕らの中ではまだ、アキラは死んでなどはいないのだろう。だから これほどまでに僕らは困惑しているのだ。自らが抱く現実と、それを取り巻いている本当 の現実のギャップはまだ大きく、それに僕らはきっと振り回されているのだろう。現実は 一つではなかった。でも僕はそのギャップを埋めなければならない。 「飯、どうする?」 唐突に、杉本が訊いた。気がつくと、階下からは夕食のいい香りが立ち上ってきていた。 僕は夕食をご馳走になった。 杉本の家からの帰路、ずっと雨だった。秋口に降るような大粒で激しい雨だ。Tシャツ では鳥肌が立ち、通過していく車からは細かな水飛沫が漂って僕の顔を、身体を徐々に濡 らしていった。杉本の夕食は旨く、春香に小食だといわれた僕も、ついつい食べる量は多 かったように思えた。何よりもサラダが美味しかった。 澄川駅では、駅員が何やら拡声器で叫んでいた。運行状況を示す掲示板にはただ「平岸 〜中の島間で人身事故」とだけ記されていた。電車は不通だ。 誰かが線路へ飛び込んだのか。 どこからか話し声が聞こえる。利己的な響きを持ち、他者には無関心を決め込んだ野次 馬の冷たい一言。杉本の家で夕食をご馳走され、澄川駅に着いたのは午後七時過ぎ。事故 は僕が駅に着く数分前に発生したらしい。駅員はレコーダーさながら同じ文面を繰り返し、 改札口の人だかりからは痺れを切らした幾人かが地下鉄を諦めて駅を出ていった。僕は地 下鉄以外に交通手段がない。三十分かかるのか、それ以上かかるのか。開け放たれたドア からは雨の匂いがコンコースいっぱいに広がり、人間が放つ雑多な匂いと一緒になって僕 は不快だった。 運行が再開されたのは七時四十分過ぎだった。平岸駅のプラットホームから、滑り込ん でくる真駒内行きの電車に飛び込んだ人間がいたのだという。中年の男性客だと次の日の 朝刊で僕は知った。帰りの電車から平岸駅のプラットホームを見た。真駒内行きのホーム は普段と変らず、一体どこで「彼」が飛び込んだのかは分からなかった。 (自殺じさつジサツ……ジサツ、カ) 帰りの学園都市線、デッキから車内の様子を横目で眺めつつ、声にならない呟きが無意 識にこぼれていた。なぜそう死に急いでしまうのだろう。 否定はしないけれど、僕には想像もできなかった。 翌日も雨だった。低気圧は石狩湾から動こうとしなかった。夏の到来はすでに告げられ ていたが、彼はそれに水を差したつもりらしい。まるで夏らしくない涼しい朝が札幌を包 んでいた。 今日はアキラの家を訪れようと思っていた。 取りたて何かがあるとは考えてはいない。はたして家に入れてくれるのか、それ以前、 彼の家を訪れてもよいのかは分からない。だが、行ってみようと思った。 北二四条の駅を出ると、店の軒先で果物の甘い香りが嫌に鼻についた。雨は昨日ほど強 くはなく、傘を叩く滴もハイテンポではない。アキラの家までは十分と掛からなかった。 チャイムを鳴らすとアキラの母が出た。彼同様痩身で聡明な印象があったのだが、今日 はいつになく弱々しく細く見えたのは当然か。一体何と言えばいいのか、しかしアキラの 母は黙って家に入れてくれた。香の匂いが漂い、部屋は薄暗い。アキラには三つくらい歳 の離れた妹がいたが、今日は姿がなかった。あの子の泣きはらした瞳が蘇る。 アキラの部屋は時が止まっていた。 僕はいつもの通りにベッドに腰掛け、首だけ向けて窓の外を、いるべき人間がいない部 屋を見渡すのだった。今にも彼が戻ってきそうだった。トイレにでも行っているのか、た またま家を留守にしていて僕はその帰りを待っているだけなのか。 アキラは几帳面な男だった。杉本のような激しい自己主張はなかったが、曲がったこと は決してしなかった。だからなのだろうか、部屋はきちんと整理されている。杉本の部屋 のような洗練された雑然さなどではなく、あるべき物はその場所にあった。壁際には青い ボディーのエレキ・ギターが鎮座している。ロック・ギタリストのアーティスト・モデル。 ストラトの形をしたそれを、アキラはいともたやすく歌わせていた。杉本のギターはまる で捻じ伏せるような力強さがある。アキラのプレイはむせぶような切ない鳴りだった気が する。二人とも、そこまで歌わせるほどの技術があった。ボディーに幾筋かついた傷は勲 章で、ふと見るとシールドはアンプにつながったままだった。その光景はやはり、アキラ はまだここにいるような錯覚を起こさせるのだ。 本棚には一分の隙間もなく彼が好んだ本が並び、壁には「1999」と何やら暗号めいた数字 が並んだカレンダー。七月十八日の空気はまだここにあって、僕はきっと時間旅行者だ。 彼がいない時代から来たのだ。もうすぐ学校祭だろう、ギター、ちゃんと練習しないとな。 スポット・ライトは小首をかしげ、命の通わないフィラメントは沈黙していた。ミニコ ンポには薄ら埃が積もり、部屋の湿度はちょっとだけ高い。机の上には教科書と英和と和 英辞書。一本だけシャープペンが転がっていた。 ……。 プログレッシブ。 英和辞書に何かが挟まっていた。一目で写真だと分かった。立ち上がるとベッドのスプ リングが軋む。見ていいものか、僕は一瞬ではあったが躊躇した。躊躇したが指はもう印 画紙をつまんでいた。 夏の風景だ。鮮やかな緑、パレットにといてすぐに塗ったような青空、真っ白な雲とそ して、僕が会ったことのない女の子が笑っていた。真っ黒なショート・ヘアできらきらと した艶が輝き、きめの細かそうな頬と華奢な首、笑顔。彼女は長袖のブラウスの袖を捲っ ているから、きっとまだ初夏だ。 どこだろう。背景には海が写っていた。夏の海、風にそよいでいるのか、背の高い草が 一方向に踊っている。少女は(春香と比べると明らかにあどけなかった)、レンズに向かっ て微笑みかけていた。誰がこの写真を撮ったのか、僕は了解していた。本棚には古びた一 眼レフが載っている。きっと少女はアキラに向かって微笑んでいるのだ。少女が構図の真 ん中にいないことはアキラのこだわりなのだろうか。これは一つのアキラの作品なのか。 だがそこには計り知れない充足とある種の感情が存在している。 急峻な山と、航跡を引くフェリー。 小樽だ……。そう言えば、アキラは小樽に住んでいたことがあったと聞かされていた。 僕はいつしか自分が笑みを漏らしていることに気づいた。写真の中の少女に誘発された か、夏の風景と女の子は絵に描いたように爽快だった。この子は誰だろう。単純な、しか しどこかに重大な意味を持った疑問が浮かぶ。 僕はそっと写真を置いた。机の上にも埃は容赦なく積もっていた。たった一週間だ。ア キラがこの部屋からいなくなったのはたった一週間とちょっと前だ。僕は机の上に置いた 写真をまだ眺めていた。できすぎた構図と屈託ない光景。日付も何も入っていない印画紙。 推測はできたが結論は決して姿を見せなかった。行ってみたい、僕はただそう思った。 視線を逸らす、そして僕はもう一つの「彼」を見つけた。 ブックエンドに一枚、葉書が挟まっていた。英和辞書とブックエンドに挟まれた葉書は、 宛名を見せている。ベッドの上からは見えなかった。 水谷明様。 今度は躊躇がなかった。アキラへの罪悪感はもちろんあったが、胸の中で謝罪の言葉を 呟いて、僕は葉書を手に取った。 細かいけれどもかわいらしい字体だった。僕はその葉書が写真の少女からであるのだと 直感した。こんにちは明君。 『こんにちは明君。こないだはありがとう、写真届きました。  学校祭見に行きたいけど、ちょうど私の学校も学校祭なのね。去年もそうだったっけね。 私のクラスはへんてこなパビリオンなのよー(この前話したよね)。私はなぜか添乗員役で す。何が「世界の旅」なのか、私はちっともわかんない。たぶん見に来てくれれば分かるん だろうけど。』 小さな文字が耳元で囁くようだった。読みづらくはなかった。 『この前明君元気なかったよね。昔からそんな人だったけど、ちょっと私は不安になっち ゃったよ。今、明君は充実していて、満足なわけよね。だったらそれでいいと思うし、こ れからも楽しいんだと思うから、あんまり気にしちゃダメよー。 わー、びんせんにすればよかった。もう書ききれないから、続きはまた今度会ったら話 そうね。八月は私はずーっと暇です(誕生日、忘れないでね)。遊びに行くかもしれないけ ど、明君もこっちにおいでよ、待ってるよー。 まなつ』 書ききれないほどの思いか。文章はそこで終わっていた。終わりに近づけば近づくほど に文字は小さく、間隔は詰まっていった。最後はきっとこの子の名前。差出人の名前は、「結 城真夏」とあった。 アキラに親しい女の子がいたとは僕はまったく知らなかった。もともと自分のことはあ まり話さない男だったが、……意外だった。 結城真夏。 僕は何度も葉書を読み返した。彼女と思しき少女の写真から漂う感情と、葉書からにじ み出てくる感情は同一だった。 写真と、葉書。僕がいる空間とは無限の隔たりがある。作り物のアキラの部屋で、別な 現実を僕はのぞいている、そんなおかしな感覚だった。 僕は写真と葉書をポケットにしまい込んだ。悪いとは思った。でもそれを元の場所に戻 すことはしなかった。 ポケットが、重かった。いろいろな感情が渦巻いていて、僕のポケットは重かった。   三、海辺の真夏 小樽行きの快速電車『マリンライナー』は定刻より一分遅れて、札幌駅を発車した。ア キラの部屋を訪れてから二日が過ぎ、考えに考え、僕はこうして小樽行きの電車に乗って いる。彼の足跡をたどる、そんなかっこいいことは言うまい。ただただ、彼が住んでいた 街の風景を感じたかっただけだった。葉書の少女、真夏にももちろん会ってはみたかった。 しかし分かっているのは住所だけだったし、顔すら写真と同一人物なのかは定かではない のだから、時間があれば訪ねようと思う程度だ。 雨は昨夜上がった。今日は再び灼熱の太陽が顔を出している。クーラーの効いた車内は 快適だったが、どこからか漂うカビ臭さが気になった。 街は炎天下輝いていた。車内は混雑していたが、早めに列に並んでいた僕の座席はきち んとあった。聞きなれないイントネーションは、関西からの観光客らしい。北海道の暑さ に驚いている様子だ。湿度は高くないがそれでも軽く三〇度は超えている。この季節、本 州の人たちにとって北海道は、本当に避暑地であるのだろうか。 電車は桑園、琴似といくつかの駅を通過し、住宅街を駆けて行く。手稲駅で乗降客の移 動があり、銭函を過ぎたあたりから車窓は水平線にとってかわる。僕はここからの景色が 好きだ。日本海も真夏は青いのだ。スネアドラムに似た走行音。反対側の窓は緑が流れ、 僕は弛緩した身体をシートに委ね、水平線をひたすら眺めた。どうして夏の海の色はここ まで僕の心を和ませるのだろうか。渚で砕ける波頭に勢いはなく、あくまでも穏やかだ。 午後の日差しは強いのだが、クーラーの効いた車内では全身が殺菌されていくようで、僕 は更なる強さを太陽に求める。 ポケットには写真と葉書が入っている。相変わらず重かった。折れたりしないよう、僕 は細心の注意を払っていた。 関西弁はけたたましいくらい札幌の夜をまくしたて、デッキに立った高校生風のカップ ルは終始握った手を放さない。僕のとなりは小学生くらいの男の子で、札幌駅での発車待 ちからずっと、ゲームボーイに興じていた。嵌め殺しの大きな窓の外は、海だ。海岸線ぎ りぎりを線路は走り、波はあくまでも穏やかな様子。知り合いなどは誰もいない車内で、 僕はどうにか居場所を確保していた。 春香を誘おうか迷った。迷ったが、やめた。 これは僕自身の問題。一人で決着をつけなければならないはずなのだ。実際小樽へ行っ たからといって解決するはずもなかったが、行かなければ何もないこともまた確かだと僕 は感じていたのだ。それも一人で行かなければ。 小樽は何度も行ったことがある。両親と。学校行事で。一昨年は、よく分からない目的 で寄港したアメリカの空母を見に友人と。今年の冬には春香とも訪れた。嫌いな街ではな い。立体的で、観光客にあふれていて、春香は案の定夕暮れの運河を気に入って、僕はそ こではじめて彼女と手をつないで歩いた。真冬の夕方、春香のぬくもりは僕が考えていた 以上に心地よかった。何だ、よくよく考えればデッキでいちゃつくカップルと僕たちは、 どこにも違いなどないではないか。でもよかった。春香と手をつなぐことは、僕にとって は苦でもなんでもなく、それが自然だったのだ、あの時は。 電車はいくつものカーブを過ぎ、やがてトンネルをくぐる。小樽築港、南小樽と停車す れば、もう次は終点だ。 駅前は賑やかだった。札幌とは色合いの異なった活気。斜陽の街だと小樽が言われて久 しい。人口は横ばいか減少を続け、札幌に住民を吸い取られていることは知っている。駅 前の人通りを見る限り、僕はそうは思えなかった。海の匂いがかすかに僕を取り巻き、か つてニシン漁で栄えた街の記憶すら呼び起こす。国道五号線を渡ろうとしたとき、僕はは たと気がついた。一体どこへ向かっているのか、どこへ行けばいいのか何も分からない。 見切り発車とでも形容するのか、これでは観光に小樽へ来たのと変らない。だいたい、僕 はアキラが昔どこに住んでいたのかを知らなかった。 自分の無計画さに苦笑がもれる。ポケットから葉書を取り出した。こうなれば写真の少 女を訪ねるほかないだろう。結局僕は自らを仕向ける形になった。この少女に会うために、 適当な理由をでっち上げたような格好となったことを、僕は少しだけ悔いた。 小樽市緑。結城真夏という女の子の住所は、小樽商大が近い。地図を見ると小樽駅から は距離があった。駅からは歩いて二〇分くらいだろうか。電話を入れてもおそらくは会っ てくれることはなさそうに思えた。会う理由が思い当たらなかった。面識など全くなく、 アキラとの関係すら実際のところ分からないからだ。無計画なら無計画で、初志貫徹すべ きだと、僕は妙な開き直りとともに炎天下の道を歩みはじめるのだった。 歩くだけで汗が流れてきた。五分も歩かないうちに、首筋が炙られているように熱くな る。一昨年の夏が思い出される。友達と数人、どういうわけか興味もない空母を見るため、 僕は炎天下の小樽市街を歩いた。あの時は南小樽の駅から空母が接岸した勝納埠頭まで、 わずか一キロ弱程度の距離だったが、待ち時間が東京ディズニーランドの比ではなかった。 たった三日間で、小樽市の三倍近い見物客が押し寄せたのだと言う。寄港理由は誰もがど うでもよく、戦争を前提に建造された巨艦はアトラクションと化していた。飛行甲板に並 んだ艦載機は遠目に見ると作り物のようで、灰色の楼閣はけっして船になどは見えなかっ た。電車の混雑は札幌のラッシュアワーよりもひどく、埠頭に近いどこのコンビニエンス・ ストアでも、品物という品物が棚から姿を消していた。インディペンデンス。独立という 名の巨艦を前に、独立とは程遠い野次馬が取り囲み、ハンガーデッキから見物客を眺める 若い水兵の冷めた表情がただ、狂乱の夏の日で冷静だった。 セミがうるさい。斜面にへばりつくような小樽の街並みは徒歩では辛い。アスファルト の照り返しはますます白く、僕は途中の自動販売機でコーラを買った。滅多に缶ジュース などは買わないのだが、喉を通るコーラは言葉にならないほど旨かった。目指す番地はも う間もなくだ。 角を曲がって出くわした家はえらく古びていた。いまだにこんな家が現存していたのか と驚くほど、葉書の住所と一致したその場所に建っている家は時間を感じさせてくれた。 木造の二階建てで、ところどころが歪んでいる。風雪に耐えてきたのか壁は黒くくすんで いて、煙突は台風でも来れば根元からぽっきりと折れそうだった。軒下にはこれまた年季 の入ったスーパーカブが壁に寄り沿っている。絵に描いて額縁に入れたような「木造家屋」 だった。白熱灯がよく似合いそうな玄関先ではひまわりが大輪を誇っていた。表札には「結 城」とある。ここだ。 さて、いったいどうやって彼女に会おうか。本人が出てくればまだ簡単だが、両親か兄 弟でも出てきたら、僕は誰を名乗ればいいのだろうか。僕は動物園のシロクマの如く、路 地をうろうろ。円を描くようにうろうろだ。定常円旋回を六回もしただろうか、自分の姿 がまるでクラスメイトの家の前で告白の決心をつけられずにいる中学生のように思えてき て、あっと思ったときにはもう吹き出していた。馬鹿だ、俺は。小樽まで来て何している んだい? 背後で自転車の走る音が聞こえた。僕が今曲がってきた角を、ほとんど惰性で走ってく る、そんな音だった。自転車はその後ブレーキを掛けた。油が足りないのか、ブレーキは 背後で金切声を上げる。僕は、自分が原因で自転車は減速したのだと思い、後ろも見ずに 結城家の玄関へ二歩踏み出した。すると背後のブレーキ音ははたと止み、自転車は一度だ けベルを鳴らした。 僕は振り向いた。アスファルトの照り返し、あふれ返る光の中で赤い自転車が止まって いた。赤い自転車に乗っているのは、アスファルトの照り返しよりもさらに眩しい、真っ 白のセーラー服を着た少女だった。そしてその顔は写真で見た通りの目鼻立ちだ。 この子だ。この女の子が結城真夏だ。 僕は少女を一途に見つめていた。対して少女は、怪訝そうな表情を露にしていた。左足 で路面をとらえ、右足はペダルに乗せている。両手はブレーキレバーを握り、身長は思っ た以上に低そうだ。 「何かご用?」 少女は怪訝さを消すことなく、そう訊いてきた。顔から想像される声とは違い、きちん と筋の通った、若干低めの声だった。僕はもっと「アニメ声」を想像していた。 「あ、ああ……」 「私のうちに、何かご用ですか?」 風が吹く。気のせいか潮の香りが鼻腔に漂う。セーラー服の柔らかそうな大きな襟が、 少女の耳元で舞っていた。紺色のセーラータイが彼女の胸元をくすぐっているようだ。 「結城、真夏さん?」 僕はもう恐る恐る名前を訊いた。何をおどおどしているのか、自分でも分からない。 「はあ」 目線だけこっちを向けて、少女はうなずいた。 「ええっと、何つったらいいのかな。……」 僕の目は泳いでしまう。 「水谷明、知ってるよね?」 「はあ」 先ほどと同じように少女はうなずき、自転車を降りた。スタンドをかけるしぐさは丁寧 で、自転車を降りた彼女はかなり背が低かった。一五〇センチちょっとだろうか。写真よ りも髪が心持ち長く見える。 「明君の、知り合い……なの?」 「まあ、そう」 僕が答えると妙な間が開いた。思い出したようにセミがけたたましく鳴きはじめる。値 踏みするような目で僕をじろりと見つめると、真夏はふうんと返事をし、再度自転車のス タンドを解除すると僕の前を横切り、スーパーカブの隣に押して行った。 「で、何の用なの?」 施錠しながら、僕に訊く。 「あああ」 ひょっとすると、真夏はアキラが自殺したことを知らないのではないだろうか。だとす るならいきなり告げるのは気が引けた。 「ちょっと、訊きたいことがあって、ね」 努めて平然を装うことにした。 「ふうん……。明君、元気?」 肩に掛けたドラム・バッグが重そうだ。真夏は日陰から日向に歩み出す。小さな顔にシ ョート・ヘアは似合いすぎるほどだ。 「ああ、えと、まあまあ、かな」 どう言えばいいのだ。真夏と視線を合わせられない。 「立ち話もなんだから、入る?」 ぶっきらぼうに玄関を指差す。真夏の方も居心地が悪そうだ。だが、初対面の相手の部 屋に上がるのも気が引けた。真夏は場の空気を察知したらしく、 「ちょっと待っててくれる? 着替えてくるから」 最後に微笑み、真夏は引き戸を開けた。僕は彼女について玄関に入る。外の暑さは別世 界みたいに結城家の玄関は涼しい。 五分程度で真夏は着替えてきた。キュロットに半袖のブラウス、麦藁帽子を被って虫捕 り網でも持たせれば、その姿はまるっきり夏休みの少年のようだった。 「永井、公弘君、ね」  路地を歩きながら真夏は言う。僕たちは小樽公園に向かっていた。 「アキラとは、いつごろから?」 「小学校の、二年生のときかな。同じクラスで」 すでに僕がアキラとクラスメイトで、まあまあ仲がいい友達だとは話していた。 「明君、そのあと五年生のときだったかな、札幌へ引っ越しちゃったの」 「家は、近所だったの」 「うん、私の家から五分くらいかな、あとで行ってみる?」 「ふうん」 「そっかあ、学校祭、明君ギター弾いたんだ。カッコよかった?」 「あ、うん。よかった」 「ずいぶん練習してたみたいだったからね」 真夏の歩幅は背の割に広く、結構な早足だった。 「私も明君たちのライヴ、見たいなぁって思ってるんだけど、さすがになかなか札幌まで 行く時間がね。部活もあるし、絶妙なタイミングで大会が入ったりして」 僕は無言で相づちを打つ。 「永井君は、何回くらい見に行ったことあるの?」 「アキラのライヴ?」 「うん、そう」 「ええとね、二、三回じゃないかな。でもあいつら、まだそれくらいしかライヴはやって ないよ」 二月ほど前に見たステージが思い浮かぶ。薄暗いライヴハウスと、メンバーとほとんど 距離のない観客。テニス野郎の一面も持つ杉本の集客能力はさほどではないが、彼らのバ ンドのベーシストは顔が広く、緑陵高校だけでなく、市内の仲間を伝って結構な客を呼ん でいた。きっとそのうち、宣伝なしでも客が入るようになるだろうと僕は思っている。 「今度いつなの?」 「え、ああ、いや、まだ聞いてないんだ」 「今度こそは行きたいんだぁ」  アキラのことをしゃべる真夏は楽しそうで、彼女の彼に対する素直な感情がうかがえた。 「で、永井君、だっけ。永井君は、何しに来たの。……話って何?」 真夏はとびきりの笑顔を作ってくれた。警戒心も多少は薄れてくれたのか。しかし、僕 が彼女から話を聞くには、どうしてもアキラの現在を話さなければならなかった。あの写 真と、あの葉書。二人が単なる友達ではなさそうなことは、アキラが札幌へ引っ越した以 降も交流が続いていることから推測できていた。それにアキラのことを話す真夏を見、僕 はやはり彼の死を伝えることはよした方がいいのではとためらった。どう考えても僕は真 夏の笑顔を消し去ることになるのだ。 小樽公園は市役所から程近く、市民会館と石川啄木の歌碑が建っていた。公園内を歩く 僕らは立ち止まりそうなほどゆっくりだ。ついさっき僕はとうとう、アキラが自殺したこ とを真夏に告げた。告げなければ僕がここへ来た意味がないからだ。それに、自己弁護す るならば、いつか彼女も事実を知ることになったのだろうから。 僕がアキラが自殺したのだと話すと、真夏は立ち止まり、「冗談でしょう」と真に受けよ うとしなかった。僕はもういちど事実だけを告げる。「嘘だ」。真夏は絶句し、立ち尽くし た。きっとあの日の僕と同じ、受け入れられない現実。僕と真夏の間では時間の概念は意 味を成さなかった。僕は時が止まった真夏がこちら側へ意識を戻すまで、じっと黙ってい た。僕の私見を挟むつもりもなく、彼女に掛ける言葉は見当たらない。太陽が雲に隠れ、 そしてまた日差しが戻るまで、僕らはずっとその場に立ち尽くしていた。どれほどの時間 が掛かったのかは分からないが、真夏はうつむいたまま、ゆっくりと歩きはじめたのだっ た。 「永井君、わざわざ札幌から、私をからかいに来たの? 明君がそうしろって言ったの?」 ベンチに腰掛け、真夏は抑揚のない呟きを漏らした。 「信じられるわけないでしょ、どうして明君が自殺なんかしなくちゃいけないのよ。…… 冗談にも程があるわ。 ねぇ嘘でしょう?」 真夏は両方の手をひざの上で堅く握り締めていた。小さな身体は微動だにせず、木漏れ 日が場違いだ。 「信じられないよ」 僕は何も言葉が見つからない。 「ねえ永井君、本当は明君、一緒に来てるんじゃないの? 二人で私のこと、からかって るんじゃないの?」 ゼロの可能性はどうしてもゼロのまま。散歩の少年と犬が過ぎて行く。 「ねえッ!」 真夏は僕を睨み付けるように顔を上げた。頬は上気し、今にもあふれそうな涙が瞳を潤 ませている。 「どこにいるのよ、明君!」 ヒステリックに真夏は叫んだ。そばにいた中年夫婦が驚いて顔を見合わせた。 「ねぇ嘘でしょう、悪い冗談、言わないで。……本当のこと言ってよ」  真夏はすがるような目だ。そして長い沈黙。 「ごめんなさい、永井君。……今日は帰って」 ベンチでうな垂れ、真夏はか細くそう言った。 「お願い、今日は、帰って」 鳴咽が混じっている。とてつもない罪悪感が僕の中で増長していく。 「ごめん、……。言わない方がよかったね。……俺自分のことしか考えていなかった」 真夏は涙を拭う。拭っても拭っても、大粒の涙が零れていく。『コニファー』での春香が ダブる。 「ううん、いつかは分かったことだもん、永井君は悪くないよ」 彼女の肩が震えていた。 「でも、……知りたくなかったよ」 彼女の口元は気丈に振る舞おうとしていたが、僕がえぐった真夏の心は、彼女の表情を 悲壮に歪めた。 「ごめんなさい永井君、……訊きたいことがあったんだよね。でも、それはまた今度にし て。……、今は、私、普通じゃないから」 こんな時、どんな言葉があると言うのだ。僕は自分の利己主義におののいた。何が無計 画だ。彼女を悲しませるために僕はこの街へ来たのか。訊きたい知りたい、僕は真夏の心 情を完璧に無視していた。この罪は重い。 「もう少し落ち着いたら、また、来てよ。だからお願い、今日は帰って」 そう言うと真夏は両手で顔を覆ってしまった。僕はもうこれ以上彼女のそばにはいられ ない、いるべきではない。簡単な挨拶を告げ、僕の住所と電話番号のメモを渡し、小樽公 園をあとにした。 僕はまるで死の宣告者だった。 暦は八月に入っていた。 僕の精神状態はひどい状態だった。あの日僕が小樽で真夏にしたことは、帰り道ずっと 俗に良心と呼ばれるものを責めつづけた。真夏の涙が焼きついて、目を閉じても離れなか った。夢を見た。真っ白い夢だ。真冬の新雪が降った朝のような眩い世界に僕はいて、だ が空気は熱く、異様なほどの虚脱感と孤独感に締めつけられるのだ。強すぎる光の向こう には誰かが立っている。歩み寄っていくのだが顔が見えず、そいつは後ずさりしているの か突っ立ったままなのか、それともこちらへ歩み寄ってきているのかも分からず、走ろう とすると僕の足は自分のものではないかと思うほどに重い。どちらを向いても白いだけ。 首筋がひりひりと痛み、人影は影すら落としていないのだ。どうしようもなくなって振り 向くと、髪の短い少女がしゃがみこんでいた。その姿は小樽で僕がアキラの死を告げた時 の真夏そのもので、鳴咽は頭に直接流れ込んでくる。真っ白い地面、対照的なのは青い空 だ。乱反射を微塵も感じないほどの真っ青な空だ。太陽がどこにあるのかは見えなかった。 アクリル版でもはめ込んだような空は、僕を押しつぶそうと徐々に高度を下げていく。気 づけば人影は溶けていき、真夏の姿はすでにない。僕は途方に暮れたところで目が覚める のだ。 真夏の葉書を読み返す。 『こんにちは明君。こないだはありがとう、写真届きました。 学校祭見に行きたいけど、ちょうど私の学校も学校祭なのね。去年もそうだったっけね。 私のクラスはへんてこなパビリオンなのよー(この前話したよね)。私はなぜか添乗員役で す。何が「世界の旅」なのか、私はちっともわかんない。たぶん見に来てくれれば分かるん だろうけど。 この前明君元気なかったよね。昔からそんな人だったけど、ちょっと私は不安になっち ゃったよ。今、明君は充実していて、満足なわけよね。だったらそれでいいと思うし、こ れからも楽しいんだと思うから、あんまり気にしちゃダメよー。 わー、びんせんにすればよかった。もう書ききれないから、続きはまた今度会ったら話 そうね。八月は私はずーっと暇です(誕生日、忘れないでね)。遊びに行くかもしれないけ ど、明君もこっちにおいでよ、待ってるよー。 まなつ』 アキラの現在を伝える前、彼女がまさに目を輝かすようにして僕に話してくれたアキラ の印象が、僕には今とても辛かった。アキラに向けられていたのであろうあの笑顔が、僕 に向けられた悲愴に暮れる涙が対照的で、辛かった。 僕が死んだら、春香は悲しむのだろうか。……くだらない妄想はよせ。 八月に入っても、晴天は続いた。暑い夏になった。 小樽から帰った僕は、三日ほど家から一歩も出なかった。部屋で布団に包まり、ずっと ぼんやりとしていた。春香から一度電話があったらしいが、僕は眠っていたのか記憶にな い。翌朝留守番電話に彼女のメッセージが吹き込まれていただけだった。「安藤です。元 気? また電話するね」。真夏の葉書が思い起こされた。そういえば春香とは、『コニファ ー』以来会っていない。冬休みも春休みも、お互い一週間以上会わなかったことはなかっ たのに。春香の愛らしい顔を思い起こせば合いたい気持ちは高まった。会いたくなるたび に真夏の顔も同時に浮かんだ。大粒の涙をこぼした真夏の顔が。だから僕は春香に電話す ることも、会おうとするのもこらえていた。それが真夏に対する贖罪だと考えた。 僕はようやく気づいていた。僕たちはようやく分かってきているのだ。アキラが死んだ ということ、最初あまりにリアリティを持たなかった現実は、内と外とでギャップが徐々 に埋まり、そうして僕たちは気づいたのだろう、彼が死んでしまったという事実に。ずっ と僕たちは演技を続けていたようなものだった。気づかないふりを、あたかも腫れの引か ない怪我に触らないようにすることと同じく、僕たちはアキラがいない事実をかたくなに 認めようとしていなかった。外面は認めていても、どこかで避けていた。でも僕の中で、 アキラが確実にもういないのだということを、真夏の涙を見て悟った。 釈然としない夏だった。 八月第一週の木曜日、学校で模擬試験が予定されていた。ろくな勉強などできるはずも なかった。よほど欠席しようかとも思った。定期こそはまだ期限はあったが、しかし行く 気がしなかった。アキラのことだけではない、ため込んだ憂鬱がここに来て爆発の臨界点 に近かった。しかもその爆発は外側へは向いていかない。内へ内へと極限まで高められた 圧力は、いつかきっと僕の心の中の特異点へ、あたかもブラックホールの中心のように収 縮していくに違いない。時間も空間も何も、無すら存在しない世界は必ず僕も内包してい る。そこにあるのだ、闇が。 夏休み中の通勤列車は学生の姿が少ない。いつもは心地よいはずのクーラーは、体の芯 をまるで十二月の夜みたいに冷却してくれた。体調まで狂ってきた。札幌駅で地下鉄に乗 り換えて、澄川からはバスに乗る。僕はずっと半分眠っていた。まぶたを閉じてもちらち らと、夏の日差しは僕に囁きかけてくる。ほっといてくれよ、僕はここにはいないんだよ。 夏期休業中の学校は、なぜかいつもよりもやる気に充ちていた。仕方なくここへ来る生 徒より、部活のため、意志を持って通う生徒が多いからなのだろうか。ただ今日の模擬試 験は、二年生中四割くらいの生徒しか受験しないようだった。教室に入っても、ぱらぱら、 そんな程度しか生徒がいない。まだ大学受験を遠い先の話だと思っている人間はここへは 来ていないのか。杉本は最初から模試などに興味もないようで、部の強化合宿とやらで札 幌市内にもいないらしい。教室に春香の姿を探したが、受験しているはずの彼女の姿は見 られなかった。僕と同じくセンター試験を受けるつもりでいるのなら、今日ここにいない はずはなかった。だが、試験が始まっても、昼休みになっても、春香は一向に姿をあらわ さなかった。どうしたのだろう。急に気でも変ったのだろうか、最初から受験していなか ったのだろうか。 すべての科目が終わり帰路に就こうと教室を出たところで、ミサキ……桜庭美咲に声を 掛けられた。春香の中学時代からの友人だ。軽く脱色した髪はシャギーが入っていて、キ ツメの瞳と合わさって鋭い雰囲気を醸し出している彼女だが、実は結構性格はよかった。 僕から見ると不自然なくらいボディに密着したTシャツとチノパンツという組み合わせ。 だが身長があるから結構まともに見えてしまう。こちらから春香の近況を聞こうと思った が、ミサキは僕を自習室へ引っ張り込んだ。「アナ、ちょっと来て」。ミサキは去年の十月 から僕をこう呼んでいた。『(緑陵の)アナーキスト』が短縮されて、『アナ』だ。未だに クラスメイトの三分の一は僕をこう呼んでいる。僕のことを公弘と名前で呼ぶのは、杉本 となぜか藤田一味、そして数えるほどだった。春香は僕をずっと「永井君」と呼んでいる。 「何」 「アナさ、春香と付き合ってんでしょ」 雑木林を向いた自習室は昼間でも薄暗い。誰もいない教室、僕を壁に追いつめるような 体勢でミサキは言った。ミサキの身長は春香より少し高い程度。僕を見上げるような体勢 だけれども、僕は見下ろされているような気分だ。 「まあ、多分」 「多分って、……まあいいわ」 おかしな前振りだ。 「今日春香、来なかったでしょ?」 「ああ」 「春香も、模試受けてたはずなのよ」 「ああ」 「来なかったの、なんでだと思う?」 まるで脅すような目つき。これがミサキの普通なのだが、初対面だとかなり気後れする ような態度の持ち主だ。 「さあ……風邪でも引いたのかね」 「何言ってるのよ、気づいてないの?」 何に、と言いそうになったがミサキの迫力で飲み込んだ。僕が口ごもるのを見るや、ミ サキは僕の足元に目を落とし、一つ息をついた。 「あの子、最近ヘンなのよ」 僕と目をあわすことなく、独り言のように呟いた。 「ウチがどっか行こうって電話しても、生返事でさぁ。上の空っていうの? ウチとあの 子、部活一緒でしょ。前はもう、部活休んだことなんてなかったのに、昨日も来なかった し、部会には出てくるんだけど、なんかかんか理由つけて、練習も来なくなってきたのよ。 ごめん、ちょっと用事ができちゃって。ごめん、ちょっと熱っぽいんだぁって。 ぶっちゃけた話するとね、まずいのよ。三年が引退してさ、次の部長っていうと、実力 からすると、そうね、春香か、わかんないと思うから名前は言わないけど、もう一人なの ね。で、その部長候補がさ、練習はサボる、来てもなぁんか張り合いはない、って、アナ もバスケットやってたんだから分かるでしょ。上級生がさ、率先して部活来ないっていう のは、一年が見てどう思うと思う?」 まったくよくしゃべる。軽い身振りを加えて、ミサキの力説は圧倒的だ。それにしても 春香が部活に出ていないのは知らなかった。本気で辞めようとしているのか。 「そりゃ、まあ、いいことじゃないわな」  当たり障りのないように僕は答える。 「当たり前でしょ。春香にもそう言ったのよ。言ったっけさ、黙っちゃうのよ。……なん か悩み事でもあるの? とかって、ウチの性格からして訊けないからサ、なんで元気ない のかはわかんないけど、とにかく、あの子、今とってもまっずぅい立場なわけなのね」 乱暴な口調だけれども、友達思いな一面がうかがえる。 「ここ、あっついわねっ」 ぶつぶつ言いながら、ミサキは窓を全開にした。カーテンがそよぐ。セミの大合唱がや かましい。 「あの子、結構技術あるから、今からでもきちんと部活に出てくれれば、誰も文句なんて 言わないんだけど、したら、部活はおろか模試にも来ないでしょ? んで、こう、アナに 訊いてるわけよ」 「何を?」 「だあかあらッ、春香、なんか最近ヘンだけど、どうしたのかな、なんか知らないのって」 もどかしさを露呈するミサキ。足踏みするようなしぐさが加わる。 「じゃあ、ミサキちゃんも安藤には会ってないってことかい」 「ここ一週間くらいかな、会ってないのは。部活はほとんど毎日あるんだけど」 それでは僕がミサキに春香の近況を訊いても意味がない。 「アナ、しょっちゅう会ってんじゃないの?」 「いや、夏休みに入ってからは会ってない」 「はあああっ、つっかえないなあ。何だ全然会ってないの。……ふうん」 最後の、感心するような「ふうん」は意味ありげだった。 「いっやァな訊き方するけどさ、アナと春香ってさ、うまく行ってないの?」 皮肉っぽ言い方ではなかった。ストレートな物言いだが相手に痛みを感じさせない態度 はミサキの持ち味だった。 「どういう意味」 「付き合いはじめたのって、去年の秋頃からだよね」 「どういうのが付き合うっていうのかは分からんけど、そう見えたんなら、そうでしょ」 我ながらいやらしい言い方になってしまった。 「そう見えた。で、ウチが見る限り、あんたたちは仲がよさそうに見えたわけ。学祭のと きなんか、ずっと一緒だったでしょ?」 「そうだっけ」 「そうです。うらやましいくらいベッタベタでしたぁ。でさ、最近はどうなのよ」 「だからさ、夏休み始まってからは会ってないし、喧嘩したってわけでもないって」 事実だろう? 「あ、そう。てっきり、喧嘩でもしたんだと思ってたんだけどね。……、あの子、ここだ けの話、アナにはもう、一筋ィってカンジだったからね。だから春香、元気なくしてんだ と思ってた」 にやりとミサキは不敵な笑みを浮かべる。脚色はオーバーだとしても、春香は僕にはい つも優しかったから、そのミサキの言う今の春香は気になった。 「……、俺が原因なのかな」 ちょっと考え込み、僕が吐き出した言葉は自分でも聞き取れないほどだった。僕の呟き はしかしきちんとミサキには届いていたようだ。それを聞いたミサキはとんがった髪を撫 でながら黙り込んでしまった。 「アナも最近ヘンだもネ。……気持ちは分かるわ、ウチもね」 どうやら例の乱闘事件のことを言っているらしい。 「アナと水谷、仲よかったもネ。荒れる気持ち、わかんないでもないワ」 彼女の背後の机にもたれるように、ミサキはぽつりとそう言った。 「こないだの騒ぎね、まあ先に手ェ出したのはアナの方だから、あれはアナが悪いことも あるんだけど、でもね。でも、結構クラスの連中、っていうか、ウチの周りの子たちなん かは、アナの気持ちは分かるって言ってるから」 僕は黙っていた。 「藤田、バカなのよ。あんたより。見りゃわかるでしょ?」 僕よりも? 俺もバカの仲間って言うことかい? 「だいたい、やっぱさ、何てェのかなっ。そりゃねェ、気になんないほうが無神経なのよ。 だいたいアナさ、怒んないで欲しいんだけど、例えば、『わあ、あの子が死んじゃったよ、 悲しいよ悲しいよぉ』なんて騒ぐ奴っていると思う? いないよね。その方が、『なにこい つ』みたいな感じになると思わない? みんな気になってんの。でも言わないの。お祭りじゃないんだから、自分が悲しいとか、 なんで死んじゃったの、とかって毎日言いふらしている奴がいたら、そいつって全然悲し んでないんだと思うのよ。 アナ、ウチが言ってること分かる?」 「わかる」 「だから、ウチが言いたいのは、あの時藤田が、まあ、水谷のことどうのこうの言ったっ ていうのは、藤田がバカだからで、……アナが気にしてもしょうがないっていうか。バカ はバカなんだって、もう放っとけばいいのよ。っていうかさ、藤田たちなんてしょせんは ウチのクラスの『バカ軍団』なんだからさぁ。うゥんと、ほら、あいつら脳ミソたんない から、ああいう風にアナに突っかかって来ンのよ。それをいちいち気にしてたら、ねぇ」 ミサキは自分の言いたいことがきちんと明文化できない様子だった。でも言いたいこと は分かった。 「あぁ、もう。ごちゃごちゃしてきちゃった。ウチも水谷のことは悲しいし、……ヤメタ ッ!」 頭をかきむしるようにして最後にミサキは僕を睨んだ。 「こういう話苦手なのよ、ごめんねアナ」 「いや別に」 「とにかくねェ、友達として言っちゃうと、春香を何とかしたいわけなの。で、ウチがど うのこうの言うより、『カレシ』のアナが言った方がいいのね、絶対。 というわけだから、今晩にでも電話してやってよ。頼むね。ついでに遊びにでも誘って やってよ。元気付けてやって。ううんと優しくしてあげるのよ、もう死ぬほど優しくして あげて。ただし人が見てないところでネ」 ミサキは杉本とは違う強さでバンバンと僕の肩を叩いて、そして言うだけ言って自習室 を出て行った。春を呼んでくる一陣の風のような、強いんだけれども暖かい、ミサキはそ んな女の子だった。みんな傷も闇も心の奥底に持っている。ミサキに色々言われたが僕は ほっとしたようなおかしな気分だった。 上空は雷鳴が轟いていた。もちろん積雲などは漂ってはいない。おなじみの一三〇〇〇 フィートの雷鳴という奴だ。湿度が低いからか、気温が高いからか、ここしばらく僕は飛 行機雲というものにお目にかかっていない。米粒よりも小さく、空を飛ぶ戦闘機は、やが て僕の視力では捕捉できない距離へ遠ざかっていった。まだ日の高い夕刻、僕は自室で開 け放った窓からの風を感じ、中空を見つめていた。どこに焦点が合っているわけでもなく、 何かを眺めているわけでもなく。ごくまれに、たった一点にピントの合った僕の視野に、 蝿などが飛び込んでくるだけだ。両足は机の上で、両手はラッコのように腹の上。僕は自 身の体重と支点となった椅子の脚との微妙なバランスを楽しんでいた。バランスを崩さぬ よう、引き出しの中から写真を取り出す。一枚は春香、もう一枚は真夏。春と、夏。北海 道ではほとんどいっぺんにやってくる二つの季節、僕はその両方が好きだ。秋や冬が嫌い なわけではなかったが、どちらかというと僕は前者が好きなのだ。春香も真夏も、名前に 負けない明るい笑顔だ。春香の写真は僕が撮り、真夏の写真は(おそらく)アキラが撮っ た。春香は丸い目を細め、ピースサインをぐいっとこちらにむけていた。真夏の写真はア キラが「作品」として撮ったものに違いない。できすぎた構図だったが、嫌味ではなかっ た。僕はある友人がしているように、「彼女」(春香を僕の「彼女」と呼んでいいのかはま ったくもって分からない)の写真を飾るような趣味はなかった。写真はただの一瞬を印画 紙に焼きつけただけのもので、厳密にいうならそれは「本物」ではないからだ。写真が絵 画と同じく芸術性を含んでいるなら、否定的に考えれば対象は既に素の表情を失っている に違いない。肯定的に考えれば、対象を芸術という高みまで昇華させられるのも写真の魔 力だが。理由をああだこうだ付けてはみたが、結局のところ僕が春香の写真を飾ったりし ないのは、恥ずかしい、ただそれが理由なのだろう。僕はたった一枚だけ春香の写真を持 っていて、それはいつも机の引き出しに大切に保管してある。それがこの写真で、半年く らい前に学校で撮った写真だ。春香が「撮りっきりコニカ」を何の目的か学校に持ってき て、はしゃぐ彼女は「撮ってよ」と僕にぽんとそのレンズ付きフィルムをよこしたのだ。 僕は爪先でいつ崩れそうなバランスを調節し、絶妙な揺れを感じている。その感覚は、 どこかで幼い日のブランコと通じている。僕は二枚の写真を交互に見、そして二人の雰囲 気が似通っているような気がしていた。顔の作りも体型も、声も性格もきっと全然違うの だろうけど、それだけではない第六感が、二人の位置を近づけていた。物理的な位置では なくて、内面的な何か。 ぶらぶらふらふら。 椅子の脚が軋んでいた。丘珠へアプローチしていくプロペラ機のエンジン音が街中にこ だました。太陽は手稲山へと姿を消そうとしていた。この家には僕以外の人間はいなかっ た。三両編成の列車が走っていく。ふと鼻をラーメンの匂いが抜けていく。近所にあるラ ーメン屋は餃子が旨い。どうでもいい、とりとめなき思考は止まるところを知らない。僕 は逃げていたのだ。ミサキに言われたように、僕は春香に電話をしなくてはならない。彼 女の様子は気になった。大好きな部活に出てこない。教育大学を目指しているのに模擬試 験を欠席した。話好きの彼女が、ミサキの電話には上の空だ。『コニファー』で涙を流して いた春香が浮かんだ。こんな時に浮かぶ彼女の顔は泣き顔で、なぜいつもの屈託ない笑顔 が浮かばないのだろう。僕は二枚の写真を机の上に放り、首の後ろで手を組んだ。重心が 変化し、バランスを取りつづけるのはますます困難になった。少しでも机を蹴る僕の爪先 の力が強すぎれば、ひっくり返った亀のような無様な姿をさらすことになる。まだ大丈夫、 僕は前よりも強く、でも優しく爪先に力を加えた。すると拮抗はいともたやすく崩れ、僕 を乗せた椅子は後方へと倒れはじめた。椅子の上の僕はなす術もない。両腕を風車みたく 振り回しても後の祭りで、僕はあっけなく床の上に転がった。腰を打ち、天井が僕を嘲笑 っていた。そしてその瞬間、僕の無意味な抵抗は終結した。 電話は居間だ。 階段を降りても、人気はない。どうにも僕の家族はここをただのねぐらにしか考えてい ない節があるようだ。時刻は午後六時を過ぎていた。 春香は部活にも行かず、定期のアルバイトをしているとは聞いていない。予備校にも通 っていないはずだから、この時間はほぼ確実に自宅にいるはずだ。ミサキが最後に僕に言 った言葉が腹の底でむずむずしたのは不快なようで快感にも近い。しかしそれを上回って いるのは二週間近く彼女に会っていないことへの不安だ。気づかない変貌が彼女に訪れて いたら、僕は一体どんな言葉を用意していればいいのだろう。僕の指は春香の自宅の電話 番号を憶えてはいたが、なぜか躊躇いがやはり存在していた。下手な時間の経過は不可思 議な感情を発芽させたのだ。今度は僕が励まさなければならないのだろうか。いや、そう すべきなのだろう。これまでは僕が励まされていたのだから。受話器を取り、人差し指が 一つ目の番号をプッシュしようとした瞬間、真夏のフラッシュバックが僕に問い掛ける。 無遠慮な言葉を春香にかけてはいけない。二つ目の番号をプッシュすると、あとは自分で もどうして躊躇ったのかが分からないくらいスムーズに、全部で七桁の電話番号をプッシ ュし終わっていた。リングバック・トーンが一回、二回、三回と春香を呼んだ。誰もいな い部屋にジェット戦闘機と思しき轟音が空気に伝う。六回目のコールでつながった。 「もし、もし。安藤です」 もしもしにわずかな間隔が開いた。彼女の癖だ、春香が受話器を取ったのだ。 「あ、永井です」 確信はあったが、春香には三つ歳のはなれた妹がいる。しかもよく似た声の。だから僕 は必ず名乗ることにしていた。 「あ、永井君?」 問い返す声に、僕はほっとした。本人だ。そうして僕の耳に届いた彼女の声音に、ミサ キの危惧を僕は感じなかった。しかし、最初の声はどこかくぐもっていて、それは電話を 通しているからだけではなさそうだった。 「ひさしぶり」 眠そうな声だった。うん、いや、眠気を帯びた声とは少しちがう。誤解を恐れず表現す るなら、ダウン系のドラッグをヤっているジャンキーのような、そうでなければ睡眠薬を 常用している精神障害者のような。 「ひさしぶり」 僕は努めて明るく言った。君の声が聞きたかったんだよ、そんなきざったらしいセリフ は、僕の習性、一生口から出ることはないだろう。でもそれを匂わせるようにして。でも 僕は、ほかでは得られないような何物にもかえがたい安堵を同時に味わってもいた。 「元気してた?」 相変わらずの眠そうな声だった。 「まあ、元気だよ。ひょっとして寝てた?」 「まさかぁ、起きてたよぉ。……こんな早くから寝るわけないでしょう?」 語尾が間延びした春香の口調は、僕が記憶する限りでは初めて聞いた。なるほどちょっ と春香はおかしい。 「あの、最近どうしてた?」 僕は訊ねた。 「最近はねぇ、ううううん、とくに何もないなぁ、何にもしてなかった」 ただでさえ型落ちで性能の悪い家の受話器だ。消え入りそうな春香の声は、このままで はきっとじきに聞こえなくなってしまう。 「そう」 僕が答えにならない答えを返すと、春香は力なく笑った。「ははっ」と。 「今日、どうした?」 音量、口調、それらに気を配る。 「今日、……ううん」 くぐもった音の向こう、彼女の心がノイズに紛れそうだ。 「誰か、何か言ってたの?」 ともすると何気ないような彼女の言葉はすべてを見抜いていた。 「ん、いや」 「ミサキちゃん、でしょ? あの子に言われたんでしょ。電話してやれって」 なぜこんな時の彼女は、勘が鋭いのか。無表情な声はかえって僕には畏怖すら感じた。 僕を気遣ってくれた不器用な言葉とは、まったく性質が違っていた。 「ミサキちゃん、優しいのよ。いっつも乱暴なこと言ってるけどもね、優しい子なのよね。 かわいいしさぁ」 どうも変だ。春香は本当に薬でラリっているようなしゃべり方だ。 「……まあ今日はさ、ただの模試だから。俺だってよっぽど行きたくなかったさ」 「なんのかんの言っても、永井君はまじめだから」 春香はストレートな物言いを続けた。 「よくも悪くもマイペースだもんね。どう? 今日はできた?」 「さあ、どうかな、たいして勉強だってしなかったし、あんまりよくないんじゃないかな」 「ふふっ」 ふと思った。今の春香はまるで用意されたセリフを読んでいるような、それも初めて手 渡された脚本を読む演劇部員のような、芝居がかった言い方に聞こえた。 また沈黙だ。彼女の家の午後七時が僕の耳に紛れ込む。誰かがナイター中継を見ている らしい。実況アナウンサーの甲高い声と対照的な解説者、そして私設応援団。春香の家の 電話機は居間に近い廊下に置いてあったと記憶している。不便な場所に電話が設置されて いたことだけは確かだ。 「永井君、どうしたの、何か用事でもあった?」 努めて明るい声、でも含まれていておかしくない感情は確認できない。 「んん、ミサキちゃんがさ、なんか安藤の様子が変だから、電話してやれって。俺も気に なったし」 僕はただそう言った。何気ない言葉だった。本当に、ただ僕の口から出た言葉はそれだ けだった。春香はそれに返事をしなかった。 「もしもし?」 すっかり蒼く日の暮れた窓の向こうは寒々しい水銀灯の光が道路を照らしていて、しか し気温は僕の背を額を、汗で湿らすくらいに高い。 「ミサキちゃんが、言ったから、なの。……ふうん」 僕には周りの状況を考えて言葉を選ぶ能力が決定的に欠けているのではないかと、それ に気づくのはもう少し後になる。だから僕は春香がすぐに返事をよこさなかったことと、 そして彼女の心情はまったくといっていいほど分からなかった。春香は二週間のうちに何 らかの変革を迎えていた。一過性のものなのか、二次関数の曲線のように突発的に訪れた 変化か。僕はそのことが分からなかった。唐突に切れてしまった春香との回線を、呆然と 握り締めた受話器に自身の汗がぬるりとした感触を生み出すときまで分からなかった。何 気ない中には気づいていた。気づいてはいたが、変革が訪れていたことは分からなかった。 分かるのと気づくのでは違う。 ごめんね、また電話するね。 春香はそう言うと、僕の返答も待たないで電話を切ってしまったのだった。 夏休みはいつのまにか約半分を消化していた。僕は当たり前だと思っているが、北海道 の夏休みは内地のそれと比べてずいぶんと短いようだ。全国ネットのニュースが今日から 夏休みだと告げる頃、僕たちは学校祭の余韻に浸っているのだろうし、いよいよ明日で夏 休みも終わりますねと、愛想笑いのアナウンサーが視聴者に伝えるとき、北海道では二週 間近く前に学校は始まっているのだ。冬休みもそれに似ている。東京では二週間足らずの 冬休みは、北海道なら夏休みと同じくらい、つまりは二五日間は確保されているのだ。い わば全国ニュースは僕が思うに「東京ローカルニュース」と同義だ。五六〇万の北海道と 三〇〇〇万人近い人口の首都圏では扱いが変ってくるのは理解できたが、それでも「全国」 と銘打つならばそれ相応のニュースがあっても当然だと思った。で、猛暑、熱帯夜だ、お 決まりの水不足だと全国ニュースが騒いでいる頃、給水制限の経験すらない僕はもう慢性 的な抑鬱状態だ。春香からは一向に連絡がない。タイミングが悪いのか僕が電話をすると、 春香は家にはいなかった。あの子が居留守を使うはずはなかった。本当に留守なのだと思 うのだが、無性に気になった。身勝手だが、僕はもう三週間近く春香に会っていないのだ。 正直、声が聴きたかったし、取り止めもない話をしたかった。普段は意識をしてはいない が、あんなにかわいい女の子を僕は知らないし、あれほど優しい女の子も僕は知らない。 でもそれを彼女に伝えることはできなかった。当たり障りのない関係が、よく言えば一線 を超えないような関係が僕にとっては望ましいのだ。束縛しない代わりに束縛されない。 何でもそうだった。 聴くわけでもなく点けているFMからはジョージ・ウィンストンが流れていた。アレン ジが加えられてはいるが紛れもないパッヘルベルの『カノン』だ。真夏に聴く曲じゃない な、机に突っ伏しながらぼんやりと、透明感あふれるピアノの旋律が部屋に流れているを 感じていた。たった一台ですべてを兼ねる魔法の楽器は、常人離れしたプレイヤーの手に よって本領を発揮していた。音楽にはうとかったが、僕は知りうる限りの楽器の中ではピ アノが一番好きだ。 ジョージ・ウィンストンの向こうに昨夜見た光景が浮かび上がった。 場所は……特定しない。僕自身どこかは分からない。学校の教室だったのかもしれない し(だとしたらきっと学校祭期間中だ。空気は微妙な熱と、若干のダルさを兼ね備えてい た)、真冬の帰路かもしれない。ひょっとしたらドリーム・ビーチだったのかもしれないし、 何のことはない僕の部屋だったのかもしれない。いや実は、すべてがそうだったのだろう。 つまりは、僕の知っている世界。それらすべての景色は昨夜見た光景と同一化される。オ ムニバスのドラマのような、それぞれのストーリーはつながってはいないのだけれども、 その実どこかで共通のテーマを抱いているのだ。共通だったのは、僕がいて、杉本やスエ チン……末広という名の友人だ……や春香、要するに僕の友人たち、そしてアキラがいる ということだった。僕は何人かで群れて行動するのは本当はあまり好きではなかったのだ が、まわりには必ず気の置けない友人たちがいた。僕が昨夜見た光景、とりとめもない夢 にもそうした連中が出演していて、僕や彼らは例によって夢を夢だとは分かっていなかっ た。覚醒後の僕には、ストーリーもセリフも思い出すことはできなかったが、ただ一つだ け、刹那的とも言えるほど目まぐるしいカット割で迎えたドラマには、何かしら裏打ちと いうものが存在していなかった。決定的だったのは、世界が白々しかったのことだ。夢は 思考が勝手に作り出した幻影なので、途方もないフィクションだったり、実際の体験をア レンジして再生されたものだったり、そうでなければ意図しない願望であるのだけれど、 昨夜の夢は必要以上に芝居がかっていた。目覚めてみれば、たとえ僕の部屋を舞台だった としても微妙なずれがそこにはあったのだ。うまくは表現できないが、世界全体、僕が現 実だと意識している世界と夢でのそれとは、まるでセットを台車に乗せて移動させるよう に、そっくり数センチ世界はずれているのだ。だから違和感を感じた。 夢の中のアキラは、現実のアキラの印象と何らかわりはなかった。それは僕が抱くアキ ラの印象が統一されていて、すでに確定済みのイメージだからなのだろう。ただしこれま でのアキラと違うのは、彼は僕の夢の中で、それが夢なのだときちんと意識して演技をし ていたことだった。杉本や春香が『杉本孝弘』と『安藤春香』になりきって、その役を演 じているのに、アキラは自分はほかに人格があって、今は『芝居』をしているのだと分か った顔をしていた。ここは夢の世界だと、彼は知っていた。でもあからさまにそれを叫ん だりはしないのだ。観客のいない寸劇を、明るく健康過ぎるほどにその夢を彼は楽しんで いた。僕が作り出したアキラはそうして、夢を夢だと分かっているとは微塵も出さず、み んなとオムニバスを楽しんでいた。 奇妙だった。僕がそんな夢を見たのが不思議だった。昨夜のアキラではない本当の彼が、 やはり現実を別世界だと認識し、しかしそれを分かっていながら表に出していなかったと いうなら? 考え過ぎだ。分裂気味の僕の思考はその日二本立てだった夢のもう一本を再上映する。 フィルムは傷だらで、ドルビーサラウンドも真っ青だった一回目上映と比べたら、今上映 されているのは、トリミングされくだらない解説者のだべりが加わり、しかもそれを家庭 のくたびれたモノラルTVで見ているようなものだった。おまけにそれはさらにおんぼろ VTRで録画されたものなのだ。 僕は腕の中に少女を抱いていた。場所はおぞましくも自室のベッドの中で、どういうわ けなのか真っ昼間で、彼女も僕も汗だくだ。夏休み直前、春香と澄川まで走ったあの時の ように、僕も腕の中の少女も汗みずくだ。苦痛に顔を歪めているような彼女には見覚えが あり、乱れたポニーテールは甘い香りがした。香りとか、暑さとか、そんな感覚はあった のに、ほかの感覚はまるでなかった。まつげの数を数えられるほど僕たちは寄りそってい るのに、やはり匂いや暑さ以外の感覚はなかったのだ。彼女が発しているのだろう声も、 吐き出されている呼気も感じなかった。当然その行為によって生み出される快感なんてあ りもしない。僕は夢の中、ひたすら少女を抱きしめ、「動いて」いた。その二本目の夢には ストーリーはない。あったのかもしれないが憶えていない。目覚めた僕はすさまじい不快 感と罪悪感に襲われ、一人布団の中で呼吸を整えた。僕が夢の中で抱いていたのはまぎれ もない、春香だったのだ。 いつしかジョージ・ウィンストンはDJの葉書を読む優しい響きに変っていた。遠距離 恋愛中の彼とうまく行っていないとか何とかいうリスナーの葉書は、どうにもこうにも陳 腐な言葉で彩られていた。そして僕はその純粋な悩み相談を小馬鹿にする自分の達観ぶり に嫌悪するのだった。 自己嫌悪の相乗効果だ。ひどい夢だった。そう、それはまさに、『悪夢』だった。 今年の夏二回目の小樽はこの間と同じく晴れわたり、相変わらず車内も駅前も観光客で 賑わっていた。 真夏から電話があったのは例の夢を見た翌々日で、暦はもうすぐ盆に入ろうとしている 頃だった。電話越しに彼女は謝っていた。こないだはごめんなさい、私、取り乱しちゃっ てて。僕はこちらの非礼をひたすら詫びた。 彼女からの電話は、近々もういちど会おう、自分から札幌へ(つまりは僕の家へ)行き たいのだが、札幌の地理はまるっきり分からないので教えて欲しい、私の方からも色々と 話したいことがあるから、とのことだったのだが、だったら僕の方から出向いた方がいい だろう、と。そして僕はふたたび快速列車に乗り込み、真夏の住む真夏の小樽へと訪れた わけなのだ。真夏は面会場所を指定してきた。自宅でもいいんだけれど、私の家って見た でしょ、すっごいあばら屋だから、近場にいいお店があるからそこにしましょう。 真夏が道順を教えてくれた店は『リバプール』という名前の喫茶店で、真夏の自宅から は五分と離れていないのだという。そこはアキラが小樽を訪れた際にほとんど毎回コーヒ ーを飲んでいった思い出の店なのだそうだ。僕は小樽に『リバプール』とはミスマッチだ と思いつつ、教えられた住所へと炎天下の街を歩いた。 真夏が伝えた通りの場所で、『リバプール』はあっさりと見つかった。何のこともない、 真夏の自宅とは目と鼻の先だった。彼女がここを指定した理由の真偽は分からなかったが、 ここが彼女にとって話しをしやすい場所なのだろう。ログハウス風で、リバプールという よりはヘルシンキとかストックホルムといった趣の外観で、どこか『コニファー』に似た 香りがした。既視感か、根拠のない予感か。待ち合わせの時間まで十五分ほどを残しつつ、 僕はウィンドチャイムが風を奏でる軒先を横目に、木目の目立つくすんだドアを開けた。 店内はがらんとしていた。客はカウンターに二人、テーブルに一組。なるほどここは真 夏やこの辺りの人たちの『コニファー』なのだ。天井では傾いだシーリングファンが回っ ていたがエアコンは程よく効いていた。壁にはドライフラワーの束がいくつかと、写真、 ひょっとすると杉本がよだれを垂らすかもしれない年代もののストラトキャスターが掛か っていた。額縁に入れられた六つ切りサイズの写真はどれも色褪せてはいたが、写ってい るのはみんな日本人だった。スピーカーから流れるのは、お馴染みリバプール出身のアー ティストの曲の数々。店の中はちぐはぐだった。何でリバプールなのにログハウスなのか。 どうしてドライフラワーなどがミュージシャンの写真に紛れているのか。そして店のオー ナーらしきカウンターの男は、どう見てもかつて騒音と揶揄された音楽に熱狂したように は見えなかった。でも僕には、ギブソン・レスポールではなくストラトキャスターが飾ら れているこの店の雰囲気が、じわりと心地よく感じはじめていた。ちぐはぐな雰囲気は所 在なげな客たちによって統一されていた。アキラがここを気に入って当然だと思った。 僕は『コニファー』でそうするように窓際のボックスシートに席を取る。程よい冷気と マージー・ビートは心地よすぎるほど。きっとここは客を選ぶに違いない。そしてアキラ はここを選び、選ばれたのだろう。オーナー自ら運んで来た冷水を口に含み、僕は真夏を 待つことにした。オーダーは今しばらく待ってもらうことにした。 真夏は待ち合わせ時間二分前に現れた。奇しくもこの前と同じ「夏休みの小学生」とい う出たちだ。僕に向けられた笑顔は明るく、あの日取り乱していた面影はもう見られなか った。 「何かもう頼んだ?」 席につくなり彼女はそう言った。いやまただと僕が答えると、 「永井君、コーヒー大丈夫よね?」 「大丈夫」 「オッケー、ここはね、夏でもアイスコーヒー頼んじゃ駄目なのよ。いいよね?」 僕がうなずくと、真夏はオーナーにホットなコーヒーをお願いしますと伝えた。 「それにしても」 と真夏はそれまでとは違う声色でしゃべりはじめた。 「偶然なのかな。この席はね、明君とここに来るとき、必ず座ってた席なのよ」 僕はたいして驚かなかった。そんな気がしていたからだ。できすぎているだろうか。で も僕はそれを偶然だと思わない。 「変った店でしょう?」 「そうだね」 真夏は一度店内をぐるりと見渡す。僕も彼女について店内を見渡す。 「私はあんまり音楽とか詳しくなかったんだけど、明君とここに来るようになってから、 何だか興味が出てきちゃってね。結構聴くようになったのよ。それまではヒットチャート の音楽しか聴いてなかったんだけど。何で世界中の人たちがすごいって言ってたのか、う うん、分かる気がしてきたんだなぁ」 この店は特にブリティッシュ・ロックばかりをかけているわけではなさそうだ。でも大 概はプログレと呼ばれる音楽がかかっている。僕もアキラや杉本に無理矢理聴かされるま で、『レット・イット・ビー』とかせいぜいその程度だった音楽の知識だったが、彼らは日 本のロックよりもイギリスやアメリカを好んでいたせいかそれなりに基本的な楽曲は分か るようになった。アキラはイーグルスの『ホテル・カリフォルニア』が好きで、杉本はぐ っと嗜好をかえてブライアン・アダムスがお気に入りだ。 「本当にこないだはごめんなさい」 真夏は軽く頭を下げる。 「いや、俺の方こそ悪かったんだよ。突然わざわざね、あんなこと言いに来なくてもよか ったんだよ」 「ううん、いつかは知ることだったんだし、教えてくれてよかった。知らなかったことの 方が、きっとよけいに辛かったと思うから」 真夏は顔を上げ、僕に視線を向けた。 「明君が、そんなこと、するなんて……」 幾度も幾度も自分自身に投げかけた疑問は、真夏も同じなのだろう。 「でも、いつかは明君、どっかへ行っちゃうんじゃないかなって、私は思ってた」 「えっ」 僕は思わず声を上げていた。 「どうして」 「だって、明君、変った人だったでしょう? ううん、カッコよく言っちゃうとさ、いっ つも何だか遠くを見ているような、そんなカンジだったし」 一歩引いて僕らを見ていたのではないかと、いつかの春香の言葉を僕は思い出した。 「アキラって、結城さんから見て、どんな感じだったの?」 運ばれてきたコーヒーは熱すぎず温くもなく、おいしかった。 「ううん、やっぱり、変わり者、かな」 途切れ途切れの言葉。真夏はコーヒーに砂糖を二杯入れ、一口。 「小学校のときから、変ってたなぁ。うまく言えないけど、普通っぽくはなかったよ。ほ ら、遠足とか、修学旅行とか、学校行事っていったらさ、たいていははしゃぐじゃない。 嫌がる子もいるけど、やっぱ普通は楽しいでしょう。小学生だったらなおさら、いつも以 上にはしゃぎまくって、結局帰りなんかは疲れちゃって、ねぇ。 明君も、楽しそうな顔していたし、ちゃんとみんなの輪に入ったり、はしゃいだりする んだけど、ううん。時々ふっとね、すっごく寂しそうな顔をすることがあって。そう、な んて言うのかな、何の前触れもなく、ほら、私たちもさ、こうみんなと遊んでいるときに 『あっ、宿題やってなかったな』とか、『明日から学校だぁ』って急に寂しくなったりうん ざりしたりするじゃない。あんな感じで、ホント、ふぅぅっと寂しそうな顔してたりする のね、明君て。私がそのことに気づいたのは、いつだったかなぁ、もう思い出せないけど、 中学校のときだったかなぁ。小学生のときなんて、私周りが見えない女の子だったから、 あ、今もかな……、明君のそんな顔って、そういえばそうだったなぁ、て感じではあるん だけどね。 私、明君の寂しそうな表情が、今はすっごく気になるんだよね」 真夏はコーヒーの二口目。僕のカップには半分くらいのコーヒーが残されている。 「永井君は、どうだったの。どうだったのっていうか、永井君たちの前では、どんな感じ だったの?」 「んんん、俺はね、俺も周りをきちんと見えてないから、今にして思うとアキラが、どん な奴だったかってさ、ちゃんと答えられる自信はあんまりないんだけど、うん、確かに変 った奴ではあったと思う。でも、俺がアキラと知り合ったのって、たった一年とちょっと 前だし、俺は親友のつもりでいたけれど、アキラはひょっとしたら俺のことをよく思って はいなかったのかもしれない。そう言っちゃうときりがないのかもしれないけど。 結城さんが言ってた、んん、寂しそうな表情ってね、正直俺はわかんないんだ。憶えて ないし、……でもさ、あの、別な友達がね、言ってたんだ。アキラは何だかみんなを一歩 引いて見ていたようだったって。それ聞いてさ、あ、確かにアキラってそんなところもあ ったかもなって思ったんだ。わざと、自分を輪の外に置いていたっていうか、積極的に輪 に入っていくような、そんなとこはあんまりなかったようには思う」 今度は真夏がコーヒーを半分くらいの量に減らしていた。 「俺ね。とにかく今は、どうして自殺なんかしたのか、知りたいんだ。わかんないんだ、 なぜ自殺する必要があるんだってね」 僕がそう言うと、真夏は考え込むように黙ってしまった。僕は自分の言葉に、『自殺』と いう単語の重さを、ずっしりと感じていた。重い。支えきれない。すると偶然だろうか、 店内の音楽はイーグルスの『ホテル・カリフォルニア』に変っていた。真夏は「あっ」と 小さく声を上げ、口元には微笑みが浮かんだ。彼女もこの曲をアキラが気に入っていたの を知っているのだろう。 「ひょっとしたら明君、耐えられなかったんじゃないのかな」 微笑みを口元に残したまま、真夏はポツリと呟いた。僕は彼女の言葉の真意がつかめな かった。 「ねぇ永井君。……明君、バンドやってたでしょう。明君たちのバンドって、なんて言っ たっけ」 「ハイレイト・クライム」 「そうそう、でさ、明君たちのバンドって、コピーばっかりやってたわけじゃないんだよ ね」 そうだ。彼らは自分たちの曲を披露したりしていた。曲は主にキーボーディストか杉本 が書いていたようだ。 「これ、知ってる?」 真夏はかたわらに置いた肩掛けカバンから、一枚の便箋を取り出した。 「七月のいつだったかな、六月だったかな。明君小樽に来たのね、で、写真撮ってくれて、 あとでそれを手紙と一緒に送ってくれたの。その中に、これが一緒に入ってたのね。今度 できる曲の歌詞にするんだよって、そう書いてた」 僕は手渡された一枚の便箋を、読む。 便箋には彼の字でこんな詩がつづられていた。 『AZURE 1999 空蒼い 夏の日に 僕は 君と 立っていた ここに立っている 理由はない 僕らが ここにいる 理由もない 草の波 夏の日に 僕は ずっと 感じてた 感じるのは いったい何 僕は 感じる 不思議な 幸せ 蒼い蒼い 夏の空 白い白い 夏の日 僕は 刹那 走り出す  何もかもが 消えてゆく なぜ こんなに 不安になるんだ なぜ こんなに 幸せなんだ なぜ こんなに 君が好き? なぜ こんなに なぜ こんなに 空蒼い 夏の日に 僕は 別れを 告げるだろう もう十分だと 思うから  僕は ここには いられない 蒼い蒼い 僕の心 白い白い 君の心 君も 何か 感じてる 僕は もう 耐えられない なぜ こんなに 明るいんだ なぜ こんなに キレイなんだ なぜ こんなに 辛いんだ なぜ こんなに なぜ こんなに どうしようもないくらい 僕は 幸せ過ぎた 向こうには 何も 見えない 君とは 世界が違うと 知っていた 別れるしかない 消えるしかない 辛すぎて 辛すぎて 蒼い蒼い 僕の心 白い白い 君の心 君も 何か 感じてる 僕は もう 耐えられない さよなら アオゾラ さよなら 1999 幸せ過ぎるから 幸せ過ぎたから』 読み終えた僕は、何も言えなかった。それはあまりにも強烈なメッセージに感じたから だ。これが確かにアキラが書いたものだとしたら、これは彼の思いなのか。 便箋から顔を上げると、真夏から表情が消えていた。じっと僕の目を、彼女の鳶色の瞳 はじっと見つめていた。『ホテル・カリフォルニア』はとうに終わっていて、僕の知らない 曲が真夏との間に流れていた。 「これ……」 便箋を真夏へと返し、僕は彼女の目から視線を逸らすことができないでいた。 「私は何も言えないわ。永井君にこの詩の感想を言うつもりもないし、言わない方がいい と思うし。だから永井君も、この詩を読んでどう思ったのかは分からないけれど、絶対に どう感じたかは言わないで」 真夏も僕も、いや真夏はこれを読み、きっと表現しようもない感情を抱いたにちがいな い。僕はすさまじい充足と希望と絶望が渦巻く彼のスケッチを、それを受け止めるのに必 死で言葉を失っていた。真夏にとってはそれが僕の返事だと捕らえたようだ。すぐに便箋 はカバンの中にしまってしまった。 あまりにも深く、あまりにも強烈な言葉が散りばめられていた。一見、これは真夏へ向 けられた詩のようでもあったのだけれど、そう考えると陳腐だったし、だとするならばア キラは真夏に別れを告げようとしていたことになる。しかしアキラは真夏にではなく、僕 らや自分が存在している世界そのものに別れを告げてしまった。彼が書いたこの詩は、き っと個人へ向けて書いたものではない。深い意味が隠れているような気がして、エアコン のせいではなく僕の腕には鳥肌が立っていた。 沈黙は続き、僕はコーヒーを飲み干した。冷めてもここのコーヒーは不味くはなかった。 真夏は僕が詩を読んでいるうちにカップを空にしていた。 真夏の手首から電子音が時刻を知らせた。華奢な腕に不似合いなほどのごつい、Gショ ックがそこにははられていた。プレミアものではなく、随分とオーソドックスな古いタイ プのGショックだったけれど、真夏のスタイルに統一されていてちゃんと似合っているの だった。 午後四時。店内からは音楽が消えていた。すると真夏はクロスフェードするように固ま った表情を柔和に変化させた。 『リバプール』のスピーカーは、打って変わって霧の朝のような、流れる清流のような 音楽を流しはじめていた。アイルランド出身、女神のような容姿を備えた女性ア―ティス トの、ファースト・アルバムからの曲だった。 To go beyond。 確かこの曲のタイトルはこれだ。アキラの部屋で時々かかっていたのを僕は思い出した。 「おかしな店でしょ? この曲がかかったら、ディナータイム・サービスっていうのかな、 カッコよく言っちゃうと。  この曲がかっている間は、メニューの品は半額です」 真夏はいたずらっぽく微笑んだ。僕は真夏に言われるままに、スパゲッティ・ボロネー ズ(ブリティッシュ・カフェなのにお勧めはパスタなのだそうだ)をオーダーした。どこ かちぐはぐで、でも居心地がよく、『リバプール』は僕も気に入った。僕は真夏に、『コニ ファー』を教えたい、そう思った。   四、ハーヴェスト 八月もまだ半分も残っているというのに、まるで初秋のような朝だった。いや、それは 五月の朝にも似ていた。暖かくなりそうな予感めいた空気は漂っているのだが、街は夏に は珍しく濃い霧に包まれていた。時刻は午前五時、夜明けとほぼ同時に目覚めてしまった 僕は手持ちぶさたで、窓から霧に濁った街を、その細かな水滴が流れていくのが分かるく らい長い間眺めていた。窓を開けると確かに冷気が部屋に流れてくる。まだ季節が夏なの は間違いない。いくら北海道の夏が短いとはいえ、九月も中旬を過ぎなければ秋という季 節はやっては来ない。けれど今年の夏はどうも気まぐれだった。太陽照りつける灼熱の午 後も幾日あったか分からないが、今朝みたいな涼しい朝もまた何日かあった。僕は暑い夏 が好きだし、涼しい秋が好きだ。凍えるような冬だって嫌いじゃないし、暖かい風が心地 よい春を不愉快に思うはずもない。嫌いな季節などはなかった。そう感じてはいたが声高 にそれを叫ぶつもりはないし、すべての季節と移ろう光景が息を呑むくらいに美しいこと に、実は僕は本当の意味では気づいてはいないのだった。毎日が怠惰に、目的もなく、誰 もがそうであるように、そして誰もが語りつづけるよう無意味な時間を過ごしている僕に、 そのことに気づけというのは無理な話だったからだ。 霧が流れていた。始発列車はまだ来ない。まだ『夏』という季節の中に僕は存在してい るのだが、確実に日は短くなり、季節は冬へと向かっているのだろう。僕は着替え、そし て湿った空気を胸いっぱいに吸いこんだ。湿気は霧のせいではなく、僕自身が吐き出した 呼気であると気づき、ふと気分が悪くなった。階下からは物音一つ聞こえない。両親は昨 夜遅くに帰宅して、朝も遅くにならないと布団から出てこないだろう。建物に不似合いな 玄関ドアはそろそろ注油が必要なのかと思えるようなうめきをあげ、外の空気は予想以上 に気持ちがいい。車庫から狭い庭へ通ずる細い通路で、自転車はまだ眠りについていた。 U字ロックとワイヤーロックをはずし、しっとりとしたハンドルは冷たい。腕時計を忘れ たことに気づいたが、百合が原公園へとペダルを踏み出したときにはもう気にならなかっ た。列車の来る気配のない踏切を渡ると、ラブラドルレトリーバーに連れられ、白髪が霧 に溶け込みそうな老人が腰を反らせるように走っていた。街灯はまだ点灯していて、水銀 灯はいつも以上に緑色かがって見えた。時刻はおそらくまだ五時半を過ぎていないはずだ った。それでも公園には霞の中に幾人かの影を見ることができた。八月の札幌でこんなに 濃い霧が出たのは僕はあまり記憶にない。周回道路をゆっくりと走る。もういつかのよう に狂ったようにペダルをこぐ必要もなかった。僕の心はこの風景にふさわしいほど落ち着 いていて、水流のように滑らかな風を感じつつ、滑空するような気分で自転車を走らせた。 太陽がどこにあるのかは分からなかった。いやぐるりと三六〇度見渡すと、繭のような、 タンポポの綿毛のようなぼんやりとした光源は東の方向にあった。いつもと違う、優しく て柔らかい、まだ寝ぼけているような強烈さのカケラもない日の光だった。僕はいつだっ たか仰向けに鳴咽をこらえきれなかった芝生で自転車を止めた。芝生は手入れされていて、 ゴミ一つ落ちていなかった。公園中心部の緑のセンター、温室のガラスのドームは薄らと 煙っていて、周囲の木々はどこかくすんでいた。そこには六月のような鮮烈で瑞々しかっ た葉の輝きはなかった。もうみんな落ちついて、踊りつづけていた夏の日差しとは対照的 な、大人びた雰囲気を纏っているのだ。 周回道路の端に、小柄な人影があった。測量技師のように三脚を立て、彼女……髪は短 かったが間違いなく女性だ……はこちらに背を向けて、雲台の上に載せられたカメラをじ っと見下ろしていた。ファインダーをのぞくわけでもなく、切り取るべき構図を思案して いるかのような表情だった。一瞬僕は真夏がここに来たのかと錯覚した。後ろ姿はそれく らい似ていた。ショート・ヘアは襟足にうなじをのぞかせ、デニムのシャツとブルーのジ ーンズにバッシューといういでたちは少年のようだった。真夏のはずはなかったし、第一 その女性はずいぶんと落ち着いた風情があった。背の高さも春香と同じかそれよりもある ようだ。年齢は、大学生といったところだろうか。ふと見えた横顔には僕のクラスメイト のようなあどけなさもあったのだが、しかし年上だということは疑うべくもない風貌だっ た。彼女はしゃがみこみ、足元のバッグからレンズを取り出し、カメラの正面をのぞき込 むようにして交換する。僕は近寄るわけでも遠ざかるわけでもなく、しばし彼女とカメラ と三脚を眺めた。何を撮ろうとしているのか、僕には見当もつかなかった。 霧の向こうから浮かんでは消えて行く早朝を楽しむ人たち、そして小気味よい音が僕の 耳まで届く。彼女がシャッターを切ったのだ。フィルムの巻き上げは自動ではないらしく、 「シャコン」と、これもまた気持ちのいい音が聞こえた。女性は二度、三度と首をかしげ る。声には出さないが自分のイメージがそこにはまだ固定されていないのだろうか。レン ズが見つめるのは霧の朝の光景、散歩する人たちと、フィルムには記録できない音と風。 「カシャン」。シャッターは切られる。「シャコン」、フィルムを巻き上げる。一連の動作 はすばやく、彼女の慣れがうかがえた。僕も自分のレンズと自分のフィルムでこの光景を 焼きつける。写真のようで、僕のそれは映画のようだ。スチールだけれども動画でもあり、 無声なんだけれども聞こえてくるものがある。ただ僕のレンズは年々性能が低下している ようだ。本物のレンズがかびたりがたつくのとは違う、視力の低下だけでは説明できない 何か。 見ると彼女は芝生に腰を下ろしてしまっていた。時刻はいったい何時だろう。列車が走 る音はまだ聞こえない。ここの上空を通過するプロペラ機はまだ来ない。一瞬目が合って しまった彼女は、まったく表情を変えなかった。気難しそうだけれども優しそうな、神経 質そうだけれどもその分感受性が強そうな、僕が知っている誰とも似ていない理知的な顔 をしていた。僕は意識しないのに目をそらす。彼女の感性はきっと僕の心を見透かすだろ うと、根拠のない考えがそうさせた。一秒もこちらを向いていなかったであろう彼女は、 もとの方向に向き直る前、笑ったのだと分からないくらいの表情で、僕に向かって微笑ん だ。気のせいだったのかもしれないが、僕にはそう見えた。今一瞬をフィルムに焼きつけ、 何でもない風景を彼女自身の感性で切り取る目、その目は僕をどうとらえたのだろう。同 じ目をアキラは持っていたのだろうか。だとしたら彼は僕を、僕らをどう見ていたのだろ う。屈折した感情は毛ほども見られなかったアキラの写真。彼が撮った写真はキレイで、 スタイリッシュな構図で、決して厭世的でなかったことは容易に分かるのだ。僕は最近、 明文化などはまったくできないレベルだったが彼がいったい何を思い、どうして自殺とい う手段で自分を消し去ってしまったのかが分かりかけてきていた。それを説明することは できない。だが感覚的に、僕はアキラの心情が分かりかけているのだ。彼が残したもの。 たとえば写真やあの詩、彼の印象、僕が抱くそれと春香や杉本、真夏が抱いているそれ。 そんなカケラたちは僕の中では、一つ一つが重要な意味を持ち、徐々に明確たる輪郭を形 作りはじめていたのだ。ジグソーパズルのたった一ピースが欠けてもパズルは完成しない ように、すべてのカケラは一つたりとも捨て去ることなどできず、そしてピースはもうす ぐすべてが揃うのだという予感があった。 アキラは絶望などしていなかったのだろう。そんな簡単な理由で人は死なない。でも彼 は確かに絶望していたのも間違いない。そこにはとんでもない矛盾があった。僕はこの矛 盾がまだ解けない。だからまだ彼がいなくなった理由を説明できないのだ。 ふと顔を上げると、例の女性……女の子と呼んでもいい容姿だったが、僕はそれがため らわれた……は再びファインダーをのぞいていた。シャッター音は霧の中でくっきりとし ている。霧の向こうから再び人影が浮かんでくる。すらりと背の高い、足取りのしっかり した影は次第に彼女のすぐ横で歩みを止めた。細いフレームの眼鏡は彼にはよく似合って いるようで、彼女はそこで初めてはっきりそれとわかる笑顔を浮かべた。聞き取れなかっ たが二人は言葉を交わしていた。彼は身体を折り曲げ、ファインダーをのぞく。そしてま た彼女と一言二言交わした。僕はそこで彼女の世界はいったん休止したように思え、自転 車にまたがりペダルを踏み込んだ。起伏のない朝だったが、僕にとっては久しぶりに穏や かな、ニュートラルな朝だった。例の二人は僕の後ろで霧に紛れ、ふと春香のことが思い 出された。どうしているだろう、春香……。今日もう一度電話してみよう。 公園を出ると、踏切が警報機を鳴らしていた。霧はもう晴れてくるようだった。真っ白 いカーテンが静寂と同居する早朝は、ゆっくりと透明度を増しはじめていた。 霧はすっかり晴れ、今日もまた暑くなりそうな空気だ。にぎやかなのだけれども、僕の 精神はさしずめマイナス属性のニュートラルとでもいったらいいのか、今朝そうやって感 じていた静寂はまだ僕と共にあった。マイナス属性といってもそれは「鬱」やそんな感情 ではなく、また落ち込んでいるのでもないマイナス的思考だった。投げ遣りなプラス思考 とは無縁の、確実な心だ。 喧燥を木陰からサイダー片手に眺めているような午後、僕を日常の観客から登場人物へ と呼び込んだのは玄関のチャイムだった。何かの勧誘か、訪問販売か、新聞の支払いは僕 の管轄ではないし、宗教だったら僕はドアは開けないだろう。だがその時僕はドアを開け ざるを得ない、いや自らドアを開けなければならないのではないかという予感を感じてい た。僕は傍観者から当事者へと立場がかわるのだと、階段を下りながら意識していた。 ドアを開けるとすうっと空気が吹き込んできた。 春香だった。 何で? 僕は口から出掛かった言葉を飲み込み、不意打ちの笑顔をかわりに浮かべる。そうなの だ、玄関口で片足浮かせてドアを開けた僕は、予期せぬ春香に自然と笑顔が浮かんだのだ った。 会いたかった! 僕の口はその言葉を発することはなかった。口は動いたが声は出なかったのだ。 どうしてここに? いつかの電話を思い出していた。まるで薬物中毒患者のようだった春香の、力なく脈略 のない二人の会話。随分と遠い昔のような、懐かしいモノが、ずっ、と込み上げてきた。 「こんにちは」 照れ笑いだろうか、春香は小首をかしげてそう言った。ポニーテールが揺れていた。 「こんちは」 少女マンガっぽいシチュエイション。マンガならここで登場人物の僕は頭を掻いたりす るだろう。僕はなんともなしに首筋を掻いていた。なぜ僕らは陳腐なワンシーンを演じて いるのだろう。ほぼ三週間、お互いずっと顔を見ていなかった。会わないきっかけを作っ てしまうと、会う理由がなくなった。ひょっとするとそんな危うさを僕ら二人は抱えてい たのだろうか。おそらく僕らはミサキちゃんが言っていたようなべたべたな関係ではない はずなのだ。僕はそう思っていたし、望んでいた。 「入んなよ」 片足浮かせの姿勢は辛くなってきた。僕は左手で彼女をまねいた。 「いい……?」 上目遣いに春香が言う。芝居かがった台詞回しはまだ続いているようだ。 「いいよ、誰もいないけど」 「お邪魔します」 軽く一礼。靴を脱いで、爪先を揃える仕種は彼女らしく軽快だ。僕は黙って階段を上が る。彼女が家を訪れるのは何回目だろうか、頭の中で考えながら一段、二段。五回目くら いかな、彼女が来るときは不思議と誰かが家にいるのだが、今日は僕だけだ。不可解な胸 の高鳴りが今日の僕にはあった。四段目で階段は方向を百八十度転換する。春香を向くと うつむき加減に口元が微笑んでいた。彼女は少し内股気味に足を進めていた。僕は春香が 内股気味だったか、思い起こしていた。『コニファー』のウェイトレスほどの内股ではなか ったはずだ。いや彼女は内股で歩いたりしていたか? 頂上まで上り切ると、家中の熱気 が二階の天井に向かって収縮していくような、不快な湿気を肌に感じた。第二ボタンまで 開けたシャツを指先で引っかけて、胸元に空気を送り込んだ。春香はちゃんと僕の後ろを ついてきている。彼女の視点から僕はどう見えているのだろう。 「暑いね、今日」 春香の声が後ろから問い掛けるよう。 「ウチん中はそうでもないけど」 「そう? 外の方が涼しいかも」  部屋の戸を開けると風が吹いていた。開け放った窓からの風だった。ほんの少しガソリ ンの匂いがした。 「ましだろう?」 「そうね、風が吹いてればね」 部屋に入った春香はベッドに腰を下ろした。いつも通りだ。僕の部屋の来訪者は大抵ベ ッドに腰を下ろす。僕は半分開いている窓を全開にした。 「どうしたの、今日」 椅子に座り、頬に風を感じながら僕は訊ねた。 「んん、何となくね、来てみよっかなぁ、なんてね」 両足を揃え、伸びをするように彼女は言った。今気づいたが今日の春香は珍しくスカー トをはいていた。 「電話してくれれば、駅まで行ったのに」 「いいの。何となく、だから」 そう言うと春香は顔をこちらに向け、目を細めた。 「ええと、なんか飲む? 水か麦茶しかないけど」 「いいよ、別に」 「ちょっと待ってて、とってくるよ」 今の僕は春香と二人きりで間を持たす自信がなかった。体勢を立て直すつもりで部屋を 出ようとした。 「永井君」 出ようとしたところで呼び止められた。 「今日は、あたし、永井君に会いに来たの。だから永井君、お話しよ?」 「あ……うん」 どうもいつもと違う春香の横顔に、僕は従った。  風は心地よかったが、部屋の空気は熱い。車の音や列車の走る音、丘珠空港のプロペラ 機。意識すればここは騒々しい。加えてどこからか漂うタマネギの臭気。僕はタマネギの 匂いがちょっと苦手だった。 「どうしてた?」 僕はふたたび椅子に腰掛け、訊ねたのだがぎこちなかった。 「部活は?」 「ミサキちゃんから電話もらって、それからは行くようにしてるわ」 「どう?」 「何が?」 「調子さ、部活」 「んん、悪くないよ。  でもね、一年の子たち、上手いのよ。中学でもバレーやってた子がほとんどで、教える ことってもう全然ないの。あたしたちなんかお株奪われっぱなしよ」 春香は冗談めかした吐息を笑みとともに漏らす。 「永井君は」 「ん?」 「永井君はどうしていたの?」 ひざの上で春香は指を組んで、腕を伸ばす。 「俺、ね。んんん。とくに何もしてなかったんだけどね。ただ……、あのね、俺、小樽に 行ってきたんだ」 「小樽?」 「そう、知らないかな、アキラって昔小樽に住んでたって」 「水谷君」 「うん。 ねぇ安藤さ、アキラに彼女っていうか、親しい女の子がいたの知ってた?」 僕の言葉に春香はちらりと目線を床に向けた。 「……ううん、知らないわ」 「その子に偶然、でもないか、その子に会ってね。アキラのこと、ちょっと聞いてきたん だ。ほらいつか安藤言ってたろう、アキラってどこか引いて物事を見ていたようだったっ てさ。その子もね、アキラにはそんなところがあったって、言ってたんだ。たとえば、な んか行事があっても、輪の中心にいるような奴ではなかったって。輪の中にいても、ふっ と時々寂しそうな顔をしていたって」 「そう」 春香の返事は意外にそっけなかった。 「その子、水谷君と仲よかったのかな」 「ああ、結城真夏っていう子なんだけど、どうだろう、結構時々は会ってたみたいなんだ。 仲はよかったんだと思うよ」 「……辛いね」 「えっ」 「あたしも考えてた。ひとの気持ちって、ひとは絶対にわかんないよね」 彼女の視線はまだ床のどこか一点を見詰めている。 「あたしが今何を本当に考えているのか、きっと永井君は絶対にわかんないと思うし、あ たしだって永井君の気持ち、わかってない。あたしが怪我をしたら永井君は心配してくれ るよね」 僕はうなずく。 「でも永井君はあたしがどれくらいの痛みを感じているのかはわかんないでしょ。……こ んなこと考えたことあるの。永井君、『赤』ってどんな色か、あたしに説明してくれない?」 その言葉を口にすると、春香はまっすぐ僕の目を向いた。 「『赤』、ええと、熟したリンゴの色、とかトマトの色とかかな」 「リンゴの色って、どんな色なの?」 「ええと、ううん、『赤』は『赤』だよ。他には、可視光線では一番波長が長いとか」 「説明になってないよ。……あたしが思ったのは、永井君が見ている色と、あたしが見て いる色、水谷君が見た色って、共通の言葉では『赤』かもしれないけれど、ひょっとして あたしが見えている『赤』っていうのは、永井君にしてみたら『青』かもしれないし、『緑』 なのかもしれないし。あたしが言いたいのは、なんて言ったらいいのかな、他人の感覚っ て、絶対にわかんないよねっていうことなの」 僕は一つ「うん」とだけ返事をした。春香の真意がわかりそうでわからなかった。 「ごめんね、変なこと言って。どうしてこんなこと言ったのかな。忘れてよ」 春香は両手で耳を覆うようにするとまっすぐ僕を向いていた目線をそらした。すると春 香はふたたび寡黙になってしまった。 二人の間を持たせようとするかのように、プロペラ機のエンジン音がけたたましい。 「永井君」 「?」 思えば一分も黙っていた時間はなかったのだろうが、春香が僕の名を呼んだのはもう何 分もあとのように思えた。 「ここに座ってよ」 春香は自分の隣を示す。 「何」 「いいから」 春香の声音は少しの熱と、いくらかの不安めいたモノが混じっていた。 「ここに来て。そこじゃ遠い」 ぽんぽんとベッドを平手で叩く。宙に舞う埃が傾きかけた太陽にちらついた。 言われるように僕は春香の隣に移動した。僕がベッドに腰を下ろすとスプリングは沈み 込み、春香の身体は傾いた。少し勢いよく腰を下ろしてしまったようで、春香はバランス を崩したように僕に寄りかかった。でもその動きは少し大げさだった。 「安藤?」 僕が呼びかけると、春香の顔はすぐそばにあった。まつげの数すら数えられるくらい。 「安藤?」 僕が呼びかけると、春香は僕の腕に自分の腕を絡ませた。二人とも半袖だったから、互 いの体温がうっとおしいくらい熱かった。 「安藤?」 僕が呼びかけると、春香は頭を僕の肩にのせてきた。(やばいんじゃないか)と、僕の背 をぞくっとしたものが駆け抜けていく。 「どうしたの?」 「永井君、あたし、駄目なの」 息遣いを今僕は首筋で感じていた。 「何か、すっごく、寂しいのよ。……永井君、あたしのこと、どう思ってる? 嫌な女だ って、思ってるでしょ? こないだだって、電話してきてくれたのにいきなりあたし切っ ちゃうし。でも、あたしね、最近自分が何やっているのか、わかんないのよ」 春香はしがみつくように僕の腕を放さない。 「怖いのよ」 「安藤?」 「水谷君がなんで死んじゃったのか、あたし全然考えてないわけじゃないの。でも考えれ ば考えるほど、人間って、考えるだけで死んじゃえるのかって思って、じゃあ考えるだけ で死んじゃう人間て何なのって思ったりして。怖くなっちゃって……、何回も永井君にこ の話ししようと思った。でもいつも永井君いなくって。そのうち永井君、電話してくれる かなって思っていたんだけど、それもなくって。部活に行ったら、一年生がいっぱいいて、 まわりはみんなあたしのこと期待してくれてるけど、そんなにあたしがんばれないし、… …。あたし、周りからどう思われているのか、気になるの。正直言っちゃうとね。だから 答えて、永井君、あたしのことどう思っているの?」 「どうって。そんな」 「嫌な女だって思っているでしょ」  『コニファー』で彼女は同じことを僕に訊ねていたが、今日はとつとつとした口調で、 涙はなかった。 「思ってないよ」 「本当かな」 「どうして」 「永井君、あたしのこと、どうでもよく思ってない?」 「なんで」 「……、何となく」 腕にかかる力は強くなっても弱まることはなかった。 「永井君っ!」 春香はいきなり僕を倒し込んだ。胸元に彼女の頭があって、彼女の右手は僕の肩をつか んでいる。不謹慎にも僕は春香の胸を感じていた。 「ねぇ、あたしのこと嫌いじゃない?」 くぐもった声。息は僕の胸に熱い。 「嫌いじゃないよ」 「じゃあ、どうして電話してくれなかったの?」 「したじゃない」 「あれはミサキちゃんに言われたからでしょ。何でそのあとかけてくれなかったの?」 「……、小樽行ったりして、なかなかできなかったから」 「水谷君のこと、ね」 気がつくと、春香の左手は僕の背中に回っていた。 「自分だけで抱え込まないでよ。ねぇ」 春香の髪の匂いは甘く、午後の空気は暑さを残していたが、彼女の体温は不思議と不快 ではなくなっていた。僕は、そっと、両手で彼女の背中を抱いた。 「……安藤」 「なに」 「いや」 僕の中で、アキラを春香が駆逐しているのがわかった。そして思い出されたのはいつだ ったかの夢だった。 「ごめん」 僕は呟くように言う。ごめん。何に対して謝ったのか。 「永井君?」 「いや、何でも」 春香の変調は何が原因だったのか。推測は事実ではないし、断定してはいけない。でも 何となくわかった。推測だったが確信があり、答えはひどく僕を自己嫌悪におちいらせた。 僕はそんな大層な人間ではないだろう。安藤、僕にそんな期待をしても困るよ、君にとっ て僕は……? 「永井君」 春香が顔を上げた。大きくて円い目。一瞬目線が合って、また春香は僕の心拍を聞くよ うに伏せる。彼女は僕に言葉での答えを求めてはいないのだろうかと、また勝手な推測。 僕は春香を抱えるように体勢を変え、今度は僕が春香の上になる。視界の端で、短めのス カートから覗く春香の腿は、陶器でできているようなつやがあった。瞬間、僕は胸の奥底 に衝動を感じた。衝動は全身を駆け巡り、彼女がなぜスカートなのか、それよりなぜそん なに肌が白いのかなどと僕の思考回路はオーバーフロー寸前になっていた。どこかでブレ ーキがかかったように思えたが、無視した。ごめん、安藤。 「永井君?」 「……キス、しても、いい?」 僕は春香に訊いた。無粋で不自然なおかしな質問だと思ったが、それが彼女への礼儀だ と思ったからだ。 「いいよ」 春香は小声で答えた。 僕は春香にキスをした。長い時間、僕は彼女と唇を合わせた。鳩尾のあたりがわくわく とした。僕は彼女の口へ舌を差し込んだ。春香はまったく抵抗しなかった。互いが絡み合 いながら、意識は加速する。衣擦れの音。あの夢が明滅した。 いつかの夢とは違うのは、現実は文字どおり「リアル」だということだった。後戻りも 覚醒もなくて、とんでもない重圧と、確かな幸福はそこにある。義務を果たさなければ権 利が手に入らないのと一緒で、幸福には重圧がつきまとう。僕は春香を抱きつつ、それに 気づいた。一線を越える重圧と、全身を駆け巡る悦楽と安堵。アキラと真夏がふっとよぎ ったが、僕の掌が春香の胸に触れた途端に吹っ飛んで消えた。いつか、一度だけ僕は春香 にキスをして、そっと胸に触ったことがあった。掌が痺れる程彼女の胸は柔らかかった。 でもそのときはそれ以上の行為はなかった。僕は怖かったからだ。僕は春香とのキスの甘 さと、胸の柔らかさに耐えられなかった。一線を越えてしまうのは、二人の関係にとんで もなく巨大な責任が生じてしまいそうで、恐ろしかったのだ。僕はそれに耐えられる自信 がなかった。でも今は違った。僕は何度も、何度も何度も春香にキスをした。春香も僕に キスを返した。僕がブラウスのボタンを外しても、何の抵抗もしない。腕が痛いくらいに 僕は彼女を抱きしめ、春香も痛いくらいに僕に抱きついた。春香の唇も舌も胸も、甘った るい彼女の体臭も、何もかもが僕を狂わせようとする。狂ってもいいと思った。耳にかか る春香の吐息は僕をどんどん狂気へと誘わせていき、止まらない欲求はおぞましいほどの 快感を与えてくれた。僕は死ぬほど春香がかわいいと思ったし、愛しいと感じた。だから 抱いた。気がつけば、僕はずっと呼ぶことができはなかった彼女の名前を連呼していた。 「はるか、春香……」。心の奥底にあった彼女の名を呼ぶことへの照れや気恥ずかしさはど こかへ忘れてきた。春香を抱きながら、僕は熱にうなされたように彼女の名前を呼びつづ けた。 終わらない夏のようだった。しかし僕は終わりは来るのだと気づいた。始まった瞬間、 すべてはやがて終わるのだということ。僕はそれを知りながら気づいていなかった。僕は 春香を抱きしめ、ようやく気づいたのだった。すべて、終わりがあるのだと。幸福の向こ うにぽっかりと口をあけている茫とした寂しさに。 アキラはきっと、そのことにもうずっと前から気づいていたんだ。 部屋に明かりを点けるのを忘れていた。全開にした窓を閉めるのを忘れていた。僕も春 香も、息が上がっていた。春香と接している部分だけがまだ夏で、露出した身体はもう秋 の到来を予感している。春香が小刻みに震えていた。僕は腰のあたりにめくれ上がってい た布団を被る。気づけば彼女のトレードマーク、ポニーテールはほどかれていて、髪を下 ろした春香は大人びた顔をしていた。とうとう一線を越えてしまった関係に、僕は後悔は しなかった。彼女がどう思っているのかはわからないが、それを訊ねることもしない。結 局逃避でしかなかったのだろうか。僕は左半身で春香の体温を受け止めていた。 灯りのない部屋からはぼんやりと明るい札幌の空が見えた。この空の下には一八〇万人 の生活があり、そして一億三千万の息遣いすら今の僕には感じられ、六十億の世界はすぐ そこから始まっていた。一つ一つは意味を持ち、どこにも無駄はなく、誰もが責任を負っ ている。自分自身が幸せであると感じること、とりもなおさずそれが一番の幸せだ。誰も がそうありたいと思うのであろうし、しかし実は自分自身の幸福を感じていない人間は多 い。僕自身、それは意識せず毎日を暮らしていた。果して自分が幸福なのか、答えはイエ スだ。でもきっと、いつか幸福と呼ばれる時間は終結を迎えるだろう。アキラは僕にとっ てはかけがえのない友人だった。彼は幸福の絶頂とも呼べる日々を自ら断ち切ってしまっ た。永続的幸福が存在しないことを彼は知っていて、アキラはそれに耐えられなかったの だろうか。彼が残した詩にはそんな意図が見え隠れしていた。たとえそうであったとして も、アキラの死は納得がいかなかった。『勝ち逃げ』。そんな言葉がふっと浮かぶ。彼にと っての幸福感が、絶望にまで質的変化を遂げていたのか。幸福が絶望と同義語だったとで もいうのか。そこまで彼を追いつめたのが、充足と幸福だったのだとしたら、僕は彼を理 解することは不可能になる。春香を抱きしめ、僕は至上の幸福と安堵を感じていた。一線 を越えてしまったことへの後悔はなく、抱き合ったことで生じた責任は実際重いのだけれ ども、春香を全身で感じた僕は、そんな責任なら甘んじて負おうと、密かに決意した。 春香は眠そうな目で僕を見つめていた。不完全だった関係、春香が何に不満を持ってい たのか。 アキラが僕に与えたパズルは、もうすぐ完成しようとしていた。いくつか残ったピース は僕自身の手で作り上げよう。でも、まだ時間はかかるのだろう。 アキラは真夏と、一線を越えていたのだろうかと、不謹慎な疑問が浮かんで消えた。  窓から入る空気は冷たく、終わらない夏は終わりに近づいているのだと、僕らに語り掛 けているようだった。 夏休みもあと一週間ほどで終わろうとしている。杉本からはライヴの知らせが届いてい た。しばらく会っていないが情報は入ってきていた。部の試合で彼は二回戦で敗退したら しい。暑さと疲労は、杉本の脹脛の筋肉をつらせた。練習不足だったと杉本は一言呟いて コートをあとにしたという。僕はそれを聞き、杉本はカッコよすぎだとひそかに笑った。 彼らのバンド『ハイレイト・クライム』は中央区のライヴハウスで通算四回目のライヴを 開く。その場所は彼らが一回目彼らはライヴを開いている場所でもあり、決して広くない ステージは観客と一つになって昇りつめていく。 杉本からは電話で連絡があったのだが、久々の彼の声は明朗で、僕の精神状態のせいも あるのだろうが、心地よい声だとあらためて思った。電話であれほど落ち着いて応対した のは久しぶりだった。そう、春香との関係がひとつ進んだあの日から、僕の心は驚くほど ニュートラルな状態で続いていた。明確な答えなどは出ていないが、僕の中では何かが吹 っ切れたのだろう。気づけばアキラがいなくなってから、もう間もなくで一ヶ月になるの だ。彼がいない夏休みは空虚で、すっぽりと欠け落ちた風景は僕にとっては不可解で辛す ぎた。彼が命を絶った本当の理由は結局は分からない。死ぬ必要などなかったのかもしれ ないし、死ぬほかに道はなかったのかもしれない。彼が意図せずとも、アキラの自殺は僕 にとっては強烈なメッセージであった。彼の残した写真や詩は、通り一遍な遺書などより もはっきりとした「言葉」だったし、彼がいるべきだった場所が空席なのは、アキラ自身 がどれほどの存在だったかを気づかせる重要な因子だった。 春香とはあれから毎日電話で話し、彼女が予定のない日は毎回会っていた。春香は部活 に欠かさず出るようになっていたし、僕は物思いにふける時間が減っていた。あの日以後、 僕は春香と肌を合わすことはなかった。でもお互いそれで十分だった。信頼は増したが引 きずるものは何もない。あの時の経験は起こるべくして起こったのだろう。またいつか肌 を合わせたとしても、今のところ二人に欲求は湧かなかった。満たされたものが大きかっ たから、それを壊すことを望むはずもないのだ。気恥ずかしさは二人の間にはあるのだが、 それを上回る信頼が生まれていた。 毎日が暑い日々だ。秋が来る予感はあっても夏は居座りつづけ、短くなる一方の昼の時 間だけ、冬はやってくるのだと無言で囁く。映画がラストシーンに向けて収束していくよ うな、一抹の寂しさは僕の周辺で漂っていた。真っ白い照り返しも、いつしか柔らかい色 を帯びているのだ。 「よぉ公弘」 杉本がライヴハウスの入ったビルの入り口で僕らを待っていてくれた。彼らのバンドは メイクがない。派手な衣裳もない。「高校生」らしいバンドだったが、演奏は上手いのだ。 学校祭のときのキーボーディストは臨時のサポートで、フルメンバーは他校の人間も入っ て今は五人なのだそうだ。サイドギターは不在のまま。メンバー募集もまだかけられてい なかった。アキラの追悼などと湿っぽいライヴは彼らには似合わない。しかしサイドギタ ーは不在だった。 「これ、チケットだから。……せいぜい楽しんでってくれや」 杉本は僕らに二枚の紙切れを手渡し、仲間のもとへ一旦引っ込んだ。手作りチケットに は、急上昇するジェット戦闘機のイラストが描かれていた。 会場はむっとするほどの客がいた。どこから呼び込んだのか、それとも他のバンドを観 た連中がそのまま残っているだけなのか。僕は彼らが全員『ハイレイト・クライム』を目当 てで来ているのだと思うことにした。 彼らのライヴは始まった。始まったが、僕は杉本の背後に見覚えのあるギターが鎮座し ているのに気がついた。ブルーサンバースト。小ぶりなボディとライトにきらめく幾筋か の傷は、紛れもなくそのギターがアキラのMGであることを控えめではあったが主張して いたのだ。ちょっとできすぎの演出だとも思ったが、きっと『ハイレイト・クライム』なり のアキラへの追悼なのだろう。いったいここに来ている人間のどれくらいがアキラの死を 知っているのか僕は思った。アマチュアの、しかも高校生のバンドなどはメンバーの入れ 替わりなど当たり前だから、アキラを憶えている人間が少なくてもしかたない。でも僕は かつて在籍していたサイドギターのことを、彼らが一言でも触れてくれることに期待して いた。 二曲、三曲と彼らは熱気を発散しつづけていた。この日『ハイレイト・クライム』は六曲 の演奏を予定しているらしい。気取ったMCなどはなく、ひたすら杉本はギターをかき鳴 らし、ボーカルは声を嗄らす。少ない曲数だからこそ、余計に力は入るのか。四曲目が派 手なドラミングとともに始まった。『ハイレイト・クライム』の特徴は、コピーバンドでは ないということ。そのほとんどの曲は彼らのオリジナルだ。しかしアンプは借り物、マイ クもスピーカーもお粗末な代物だったが、ボルテージはオリジナリティを維持しつづけわ けのわからない上昇を続けていく。彼らの持ち味か、ステージと観客の距離は見た目以上 に縮まっていく。僕と春香は会場の真ん中のあたりに場所を確保していた。僕は会場の様 子をもう一度、白熱する観客たちを見渡そうとぐるりと見渡した。ふと、会場の端の方に 一人、じっと穏やかな表情の少女がいるのを見つけた。身体はリズムに乗っていた。視線 はステージを向いていた。僕は彼女の寂しさを一抹含んだあの視線を知っていた。真夏だ。 真夏がここに来ていた。僕が彼女を向いた一瞬、真夏と僕の目が合った。確かに向こうも こちらを確認し、そして目を細めるような微笑みが再会の挨拶だった。でも僕はそこにア キラの視線を見たような気がして、少し真夏が不安になった。彼女もどこかへ行ってしま うのではないか、ひどく悲観的な推測は、ほんの数秒間、一切の音を消し去った。僕が視 線を逸らし、そしてもう一度真夏を向くと、彼女はステージに向き直っていた。どうして も、視線の先にあるのはアキラのギターなのではないかと、僕は余計な気を回してしまう。 音が戻ったとき、もうライヴは最後の一曲のイントロを迎えていた。そしてそれは長い イントロだった。ギターのアルペジオ、音はクリーンで歪みはない。ミドルテンポよりも 若干速め。最後を締めくくるにはふさわしい曲に思え、そして杉本が弾くギターはアキラ のMGだった。ボーカルはおもむろにマイクに右手を添える。そして歌い出された歌詞は、 まさにアキラが残したあの詩だった。ギターの優しいアルペジオと、絶妙なコード進行、 それを支えるキーボード。字面だけではわからなかった。ただ読んだだけではアキラの心 情は知ることはできなかっただろう。ボーカルはまさにアキラの内面を、汲み取るように 歌うのだった。僕は思っていた。きっとアキラの心象はこんな具合だったのだろうと。杉 本のギターも、ストイックすぎるほどに無表情なキーボーディストも、口元に微笑みを残 したベーシストも、時々リズムが狂っていたドラマーも、すべてが歌詞に集約するように 一つとなっていた。そうか、アキラはこんなにも穏やかな絶望を感じていたのか、と。 視界がゆっくりとにじみはじめていた。意図しない涙はいつか読んだ本で表現されてい た『天気雨』だ。悲しくもあったし、計り知れない安堵もあった。しかし涙を流させてい るのは穏やかな絶望感だった。天気雨は降り止まず、ギターの青さがそのまま涙になって こぼれていくような気がした。隣の春香はどんな顔をしているのか、僕には見る余裕がな かった。だから僕はそっと彼女の手を握った。彼女の手は冷たく、力を入れれば潰れてし まいそうなくらい頼りないのだけれど、僕の手には自然と力が入っていた。握り返してく る春香の掌が、すべて彼女の気持ちを物語っているようにも思えた。きっと真夏も天気雨 を流しているのではないかと、僕には根拠のない確信があった。そのとき、真夏はここに とどまりつづけるのだろうな、と、これもまた根拠のない確信がそう言っていた。 『ハイレイト・クライム』はカッコよすぎた。僕はまた、熱にうなされたように拍手を贈 っていた。 ホールの床では、まだ夏は踊っていた。あふれかえる夏の光は天蓋から降り注ぎ、不純 なものを一切含んでいないような白さだ。二学期はあと二日で始まる。一ヶ月が過ぎ、教 室へ入るとアキラの机はもうなくなっていた。窓の向こうでざわめく葉のために、教室は うっすらと緑色に染まり、誰かが開けたのか窓が一個所開いていて、カーテンが風に舞っ ていた。模試以来、夏休み中の学校に来たのは今年は始めてだった。廊下に全員分あるロ ッカーからは、アキラのネームが外され、これでもう、彼がここにいた痕跡はもうほとん ど残されていないのだ。寂しさもあったが、転校を繰り返す友達がまた別な街へ行ってし まったような錯覚と、しかしやはり彼は死んでしまったのだと納得する自分が同居してい た。 ライヴがはねたあと杉本は、あの詩は学校祭のちょっと前にアキラが残していったのだ ということと、はたしてあの演奏が正しかったのだろうかと、照れ笑いを浮かべつつ僕ら に話した。春香は僕の目を見て笑った。僕の目は真っ赤に充血していたのだ。春香によれ ば、僕の目は焦点は定まらず、まったく熱病にかかった患者のようだったという。真夏は 僕に「また来てね」とだけ言い、春香に自己紹介をして帰っていった。二人が並ぶと雰囲 気はよく似ていた。真夏が雑踏に消えた後、春香は真夏の名前を口に出して何度か呟き、 「変った名前の子ね」とだけ僕に言った。夜になってもあの日の札幌は暑かった。何日か 続いた真夏日は、そのまま熱帯夜となったのだ。風が吹けば幾分涼しいが、身体中はべた べたとした。 僕は放課後のホールに突っ立っていた。雲が流れ、ホールは照明を弱めるようにふっと 暗くなる。床に蓄積された熱は、触れると人肌のような温もりだった。僕はレリーフの真 下までゆっくりと歩く。何が書いてあったのかすっかり忘れていたそのレリーフには、た だ英語だけが彫り込まれていた。学園創始者が座右の銘としていたのか、それともただ僕 らにあてられたメッセージなのか。 雲が去り、ふたたびホールは夏であふれかえった。授業はないのにチャイムが学校中に 時を告げていた。 夏休みは終わる。一九九九年、世界は消滅しなかった。 アキラがいない夏休みは、もう終わる。でも、この夏は終わらないのではないかと暑い 日差しを首筋まで感じながら僕は思った。 あまりにも強烈で真っ白い光は、僕を包み込んで熱気が腕を足を掴み取る。振り払うこ とはしないで、僕は黙って目を閉じる。目を閉じても、僕の視界は白さを保ちつづけてい た。それは意識に投影された白さなのだ。 白い夏は、終わらない。 アキラが感じた絶望に、きっと僕も身を置いている。彼にとっては幸福を感じることは すなわち絶望だったに違いない。 幸せだから、辛い。 何となくわかった。いつか終わってしまうから、辛いのだ。 彼は充足の中で自らの幸福を断ち切った。幸福を断ち切ることは絶望に別れを告げるこ とでもあったのだ。アキラは絶望と同居する幸福に耐えられなかったのか。一歩引いて見 ていたというアキラは、自分を幸福のまんなかに置くことを避けたからかもしれない。自 分の役割が終わった役者が、そっと舞台から降りるように、アキラは向こう側へと去って いった。絶望も幸福も不幸も希望も何もない世界へと。 僕は耐えていこうと思った。 幸福と絶望が同居しているなどと、僕は初めて気がついた。終わりが来るのだと、その ことにも気づいた。いつかは終わるのだと。すべて。 堂々巡りの問答はもうやめだ。僕はこれからもこんな世界に身を置きつづけるのだろう。 終わりが来るその時まで、僕自身が終わりを告げられるその日まで。 下駄箱を閉める金属質の響きが耳に届いた。振り返ると、僕はそこにアキラの後ろ姿を 見たような気がした。汗が額を伝って、眉に染み込む。瞬きをした間に、アキラはどこか へ消え去っていた。後ろ姿はリアルだったが、きっと彼ではない。僕の足元にはくっきり と影が落ちている。 意識が加速していく。白い夏の中、僕の意識は解けるように加速する。すると腕に感じ ていた熱気は、鼻腔に染み入るような冷気に変貌した。何もかもを焼き尽くしそうなほど 強烈だった日差しは、月の凍てつく白さと水の底のような蒼にとってかわった。 十二月の夕方。……放課後の学校。  僕は誰もいないホールのベンチで、バスの時間を待っていた。太陽はとうに沈み、校内 はうっすらと闇に包まれはじめていた。いつもなら部活の生徒たちの声も聞こえるのに、 今日は水を打ったように静まり返っている。期末処理で軒並み部活は休みで、授業が終わ るとみんな先を争って帰ってしまった。 ホールに立つ僕の息は心なしか白い。天蓋を見上げると、相変わらず星がいくつか瞬い ていた。星が瞬く夜はひときわ冷え込む。半袖の季節はもうとうに終わってしまった。で も首筋には夏の日差しはまだ残っていた。 床は青白くぼんやりと冷たい。ちらちらときらめくレリーフの真下に僕はいる。あの夏 の日、僕は忘れていたレリーフの文句をここでこうして心の中で読み上げた。何でもない 言葉だったのだけれど、アキラと別れ、それまでの自分自身と訣別を決意しかけていた僕 には、重い文句だった。 物音に振り返る。 誰かが靴を履き替え、青い海の底のような夕方へと出て行こうとしていた。靴を地に放 る音と、靴箱を閉める金属音。シルエットは膝まで丈のあるコートを纏っていた。 春香はもう帰ってしまった。一緒に帰ろう、春香は僕を誘ってくれたが、僕は丁重に断 った。図書室へ本を返さなければならなかったし、自分勝手だと思ったけれど、今日は一 人で帰りたいと思ったからだ。 僕は冷気を大きく吸い込んだ。肺だけでなく、身体中が濾過されるような気持ちのいい 空気だった。 一歩前へ踏み出すと、夏の日の僕の姿と重なる。見上げる動作も、あの日と同じに。 『SEIZE THE DAY』 レリーフにはただ、そう彫り込まれていた。                                    (終わり) 23 1