花が枯れるなら、最初から買わなければいい。
つまりはそういうことです。
ピーマンの苦みがいやなのなら食べなければいい。選択とはそういうことだよ。選択す
る権利はもちろん誰にだってある。でも、きっと、選ばなければならない、という義務も
またそこにはきちんと存在しているのです。
そんな話はどうでもいいのです。
単にきょうピーマン食べただけなので。
毎日お疲れ様です。
めまいがひどいのです。
めまいと謎の頭痛。
これは一大事だったらめでたいのですが、意外に自分の身体が猛烈にタフなので困った
ものですよ。とりわけ困り果てているわけでもないのですが。
星が見えるような夜は、とても冷え込みますね。翌朝は晴れるでしょう。結論すべき事
柄は、やはりわたしはわたしのみが理解しているということでしょう。
理解者が欲しいと人が思うのはなぜなのでしょう。
人が群れる生き物だからでしょうか。
人は太古から群れて生活してきた社会的動物なのでしょう。その記憶がそうさせるので
しょうね。群れるためには疎通していなければならないし、群れを維持するには異端を排
除しなければならない。きっとそうなのです。
だから、異端者は常に排除されてきたのです。
個性化だとか、他人の意思を尊重すると言っておきながら、まるで集団的無意識のごと
く、人は他人を一元化した価値観に縛ろうとするのです。
それが悪いとは言いません。
それに耐えられない人間もいるということです。
それは異端者なのです。
常識だとか、慣習だとか、とてもいやな言葉です。
あるべき一定のルールは必要です。
しかし、ルールは人間があってはじめて存在します。
ルールのために人間があるのではないでしょう。
著しい逸脱は避けるべきであって、しかし縛るのはよくない。
そう思いませんか?
案外「社会常識」というのは、どうでもよいことが多いのです。
もちろん、「なぜ人を殺してはいけないのですか」といった、質問する値のない問いもあ
るわけで、もしわたしがそう問われたなら、「殺されないためには殺してはいけないから
だ」と答えるかもしれません。あるいは、「一つの世界を第三者的意識のもとで破壊するこ
とは決して許されるべきではないからだ」と答えるかもしれません。
そういった、いわばどうでもよい常識は別として、世間には、「○○すべきである」とい
った、一種の脅迫観念的常識が多いのもまた事実でしょう。
おそらく、「○○すべきである」と思いこんでいる人自身が、あるはずのない幻想的、幻
影的規律に縛られているだけなのかもしれません。それは実につまらない、もったいない
ことだと思うわけです。
要するに、可能性を自分で限定していることに他ならないからです。
わたしはそう思います。
ひとても、この悲しみに満ちた世界にあって、自分の可能性を明らかに限定してしまう
ような勝手な思いこみはよくない。ますます不健康になっていくだけです。
世界はもちろんあなたやわたしのために存在しているわけもなく、だからといって私た
ちはここにいるのは事実だから、仕方なく呼吸を繰り返して、やがて訪れる終末の日を指
折り数えるしかないのだよ。
もうそれはただの永遠に引き延ばされたけだるい午後のような、どうしようもなく苦痛
に満ちた日々のことで、それから脱出するにはすべての感覚を否定するしかありませんね。
すべてを否定し、すると自分の世界すら否定することになります。
繰り返しますが、「世界=個々人の意識」であるとわたしは仮定しています。
わたしが認識できる外界の風景や意識それらが世界と呼ばれるものならば、わたしが消
滅した瞬間に、わたしを取り巻く世界が消滅するのですよ。
じつはそれを望んでいるのですが難しいですね。
誰が自分を望んでいるのだろう。
ある本を読みました。
自己顕示欲が強い人は、おそらくあらゆる意味で利己主義的なのでしょう。
自傷行為を繰り返すのもまた、自らをステージの上へと引き上げるための、ひとつのガ
ジェットなのかもしれませんよ。それを悪いとは言いません。なぜならぶった切るのは楽
しいからですよ。キャキャキャ!
デュルケムの論理を持ち出すまでもなく、わたしはこう思います。
この悲しみに満ちた世界から脱出する方法はある、と。
どんな方法かは、それぞれが考えるしかないのですよ。考えてください。わたしは考え
ました。
めぐる日々が、どれほど苦痛に満ちているか、ただ息を吸って吐いているこの日々がど
れほど無益で、止まっていると勘違いしている自分自身の存在が、たえまなく動き続けて
いるのだと気づくように、さっさとこの世界を終わらせるしかないようですよ。
それしかないのですよ。
なんかこう、毎日書いているんだけど、どんどん自分の話が抽象的になっていくようで
よくないですね。
読む人もつまらないでしょう。
自分で読んでもわけがわからないのですけどね。
それはいい。
もともと理解できる自分自身など存在しないのですよ。
もちろん「本当の自分」なんてあるはずもなく、それが幻想だと気づいたとき、人はブ
レイクスルーできるのです。
「自分探しの旅」なんて言葉が一時聞こえたりしましたが、それは間違いです。
「本当の自分」などあるはずもなく、たとえばわたしが誰かに「本当の自分を見つけた
い」と言われたとしますか? 言われたことなどありませんよ。ええ。そんな話をわたし
にしたらとんでもない大演説大会になってしまうから、誰もそんなことを言わないのです
けどね。んん。
要するに、「自分は自分」だと気づけばいいのです。
本当の自分があるなら、いまのあなたはニセモノか?
そう訊きたくなってしまうじゃないですか。
そんなはずもないわけです。
無駄な努力はやめましょう。
わたしはわたし、あなたはあなた、本当の姿などありません。いま自分で認識している
自分自身の姿こそがそれそのまま自分自身であるからです。
そして、どうしようもなくトマトを食べたくなったときは、夏を待つしかないように。
だから、理解者が欲しいという無い物ねだりもまた、無意味です。
わたしも気づきました。
わたしを本当に理解してくれるのは、自分自身だけなのです。
わたしが抱えている悲しみや、わけのわからない破滅感は、わたし自身以外の誰が理解
できるというのでしょう。理解者は自分ただ一人です。それは間違いないですよ。
考えてみましょう。
あなたが見えているトマトは、どんな色ですか?
赤い?
赤ってどんな色ですか?
自分が見えている色が、はたして目の前にいるあなたと同じように見えている保証は何
一つないのです。
だからこそ、自分自身を理解できる人間は、自分自身ただ一人です。
絶望的な結論ですが、きっとこれは真理です。
おそらく。
考えすぎる夜は、音楽を聴きましょう。
そして、見えないもう一つの世界に思いをはせるのです。
どんな世界でも自由自在だよ。
わたしが作り出すだけだから。
わたしが見た夢は、わたし以外の誰も見えないから。
わたし人が見えている世界は、わたし以外の誰にも見えないのですよ。
理解者などいない、そのことに気づけば、気が楽になりますよ。
探す必要がなくなるからですよ。
どうしようもなく眠いときは、寝てしまえばいいのです。
永遠に。
(2004-03-19)