Kとのことをどこから思い出せばいいのかわからない。
Kのことを、どこまで思い出せばいいのかわからない。
僕はずいぶん昔から、Kとともにいた。
十年という時間をさかのぼってみたとき、色あせない風景の中心に、すでにKはいた。
僕が思い出すKとKを囲む景色はいつだって鮮やかで、けれどほんの少し、そのフィル
ムは懐かしさと時間の流れによって、思いがけない変色をしていた。
それを「セピア色」と呼ぶのなら、きっとそうなのだと思う。僕もそれ以外にふさわし
い言葉が浮かばない。
日が暮れたあと、僕はひとり、街灯の点った街路を歩く。落ち葉が歩道の段差に吹きだ
まり、ナトリウムランプのオレンジ色に染め上げられた舗道の上を、自転車が追い抜いて
いく。冬の始まりかけた秋の終わり、僕はひとりになった。
ずっと予感があった。
Kがいたころから、いつかは終わってしまうことに気づいていた。
けれど僕は、気づかないふりをしていた。Kと会うたび、Kと電話で話すたび、僕はい
つかは終わってしまうKとの時間のことをずっと考えていた。気づかないふりをしていた
けれど、考えていた。
ある日、僕は気づいてしまった。
世界は悲しみに満ちているのだということに。
そして、世界にはたとえようもなく悲しい出来事があるのだということに。
まだ、そのころはKがいた。いてくれた。
しかし、僕は気づいてしまった。
いつか、Kも、僕の前から姿を消してしまう。
とどめることなどできない。
夢に見た。
Kがいなくなったあとの世界を、僕は何度も何度も夢に見た。
夢に見て、そして僕は泣いた。
夢の中で泣いた。
夢の中でKはずっと昔に会ったときの姿のまま、僕の前にいた。
Kは、僕がよく知っている景色の中で、僕とともにいた。
Kがいなくなる夢ではないのに、僕は泣いていた。それはある意味で「予習」だったの
かもしれない。夢から覚めた僕は、Kを失った喪失感で泣いていた。目が覚めたとき、僕
は泣いていた。泣いていたけれど、Kがまだ存在している世界に戻れたことに、心底喜ん
だ。ときには電話した。電話できる時間ならば。けれどたいていは、夜明け前に僕は泣き
ながら目を覚ました。そのまま死にたいと思った。Kのいない世界など、僕には考えられ
なかったからだ。
予感だった。
予習だった。
僕は認めたくなかった。
Kは、いなくなってしまう。
認めたくなかった。できれば、Kとあの懐かしい風景をそのままに、時計の針を永遠に
止めてしまいたかった。できるはずもないのに。
だから僕は泣いた。
人知れず、泣くしかなかった。
Kを失う前から、僕はKをすでに失っていたのかもしれない。
幸せな時間だった。
Kを失う夢を見た朝は、それでも僕はまだ幸せだった。夢の中ではKを失ったが、現実
は違ったからだ。僕は夢を呪ったし、夜がいつしか怖くなっていた。
夢の世界と現実世界が、いつか交差する日が来てしまう。
そして、Kは夢の中でしか会えなくなってしまうに違いない。
道を歩いていて、あるいは書店でぶらぶら立ち読みをしているとき、または公園で休日
の午後をひとり過ごしているとき、僕はKを失うあの夢を思った。感情が爆発し、僕はこ
っそりと涙をぬぐった。一度ではなく、何度も、何度も。
夢が現実と交差し、入れ替わる日を僕は恐れた。
Kを失いたくなかった。
いてくれるだけでよかった。
夏。
その夏は暑くなかった。
過ごしやすい夏だったが、晩春がそのまま初秋につながってしまったような、居心地の
悪い夏だった。雨ばかりが続き、僕の休日は引きこもりがちになっていた。
空模様が疎ましく、僕は夏から避けるように部屋に篭もってばかりいた。
Kが思わしくないことを知ったのは、夏らしくない夏がそろそろそのままの顔で秋を名
乗ろうとしていた九月の頭だったと記憶している。
電話だった。
あの日の電話を、僕は忘れたかった。
Kはまだそこにいた。
いてくれた。
それだけでも感謝すべきだったのに、僕は泣いた。
あの夢を思い出した。
だから泣いた。
僕はその日の夕方の快速に乗り、Kに会いに行った。
快速電車の窓から、恐ろしいほどに燃える夕日が見えていた。僕はデッキに立ったまま
だったが、やがて電車の存在がなくなり、夕日の空気中を飛んでいるような、頼りない気
分になった。身体を感じられなくなっていた。夕日が徐々に近づいてくるような錯覚を覚
えた。
頼りなかった。
自分ひとり、世界に残されたような気分になった。
すっかり日が暮れたあと、僕はプラットホームに降り立ち、忍び寄る秋の気配を首筋に
感じていた。その日は気まぐれな夏がふと振り返ったような天気で、汗ばむ陽気が心地よ
かった。僕は久しぶりにぶらぶらと出歩き、そしてわきたつ雲を見上げた。思えば、あれ
はすべての終わりの始まりだったのかもしれない。夕方、Kの待つ街に降り立った僕を、
目を覚まさせるような冷気が迎えたとき、すでに一つの季節が終わったことを知った。
すべてに終わりが来るのだということ。
みんなそれに気づいていながら、顔を背けている。
僕もそうだ。
Kを失う予感がにわかに現実味を帯びてきたあの日の夕方、プラットホームから見えた、
日の落ちた青い海と、パンタグラフが爆ぜた音がなくなったあと、あたりを包み込んでい
た潮騒、そして虫の声が忘れられない。
序曲だったのかもしれない。
僕は、Kと対面した。
こんなとき、気の利いた言葉が浮かばない。
変わり果てた、とは思わなかった。けれど、僕の目の前で横たわるKは、僕の記憶にぎ
っしりと詰め込まれた、あの懐かしい風景と並んだKではなかった。
僕は涙が出そうになった。けれど、泣けなかった。Kがじっとこっちを見ていたからだ。
「来てくれたの?」
聞き取りづらかった。絞られたボリウムを、僕は上げることもできなかった。
「ありがとう」
僕はそのとき、Kの言葉になんと応えたのか、実は覚えていない。
あの日の出来事を、僕は現実感を持つことができない。
逃避?
そういいたければそういってくれてかまわない。
僕は本当に、逃げ出したかった。
この世界から。
Kのいない世界など考えられなかったからだ。
窓の外はもうすっかり深海底だった。青く沈み、蛍光灯の明かりが、いっそうKの表情
を弱々しく、そして浮世離れさせていた。僕はKを取り戻したかった。僕がいまここにい
る世界に。いつまでも、永遠に。
時計は進み続けていた。
涙が出そうになっていた。
僕はこの光景を知っている。目の前で横たわり、そして弱々しく僕を見つめるKの顔を、
僕は何度も見たことがある。
あの夢の世界で。
「仕事は?」
懸命に、それこそ文字通り懸命に、Kは僕に笑顔を向けてくれた。
「終わったよ」
僕は、やはり無理矢理笑おうとした。そして失敗した。
「疲れてるでしょ」
「大丈夫」
僕はひどく緊張していた。緊張させておかないと、あふれ出る感情がいつ爆発するとも
限らなかったからだ。
Kはまだそこにいてくれた。
とどまって欲しい。
「そんな顔、しないで」
Kが笑った。
「変な顔、した?」
僕がいった。ようやく、口に出た言葉。
「泣きそうな顔して」
「泣いてないよ」
Kはひどくゆっくりした瞬きを繰り返す。
鼻腔に、なぜか香をたきしめた濃密な香りがした。実際に漂っていたのか、それとも僕
の記憶から香ってきたのかは、いまはもうわからない。ひどく場違いな気がして、僕は混
乱した。
「大丈夫だよ。まだ、こうしていられるから」
Kが絞り出すように、つぶやくように言った。
困惑した。
つらいのは、自分だけではないのだ、Kもまた、つらいはずだった。二つの世界は、い
つか必ず片方が先に終焉を迎えてしまうのだ。
「また、あの公園に行こう」
僕は言った。
言うべきでなかった、そう気づいたのは、Kがいなくなったあとだった。
Kと交わした言葉を、僕はあの日の深海底にいるような夕刻の病室からこっち、すべて
を覚えていた。
交わした言葉も少なかったからだけれど、Kのすべてを、僕は記憶に刻みつけたかった
からだ。
Kと過ごした、色あせかけたあの風景は、もう二度と取り戻すことも、追体験すること
もできなかった。
僕は、帰りの電車で、泣いた。
僕はKの夢を見なくなった。
Kがいなくなっても、世界は存在し続けた。
僕は許せなかった。
僕の日常も、厚顔無恥な再開をした。
腹立たしかった。
ある夜、僕は白い部屋の夢を見た。
日差しがあふれる白い部屋に、僕はひとり取り残されていた。
誰もいなかった。
が、誰かがいた痕跡があった。
花が生けられていた。
テーブルに、飲み差しのコーヒーカップが置いてあった。
誰かがいた。
誰がいたのか、僕にはわかった。
考えないことにした。
僕は泣いた。
また、泣いた。
泣きながら目を覚まし、そしてまた、明け方の白み始めた部屋の壁を眺めながら、泣い
た。
舗道に落ち葉が散らばっていた。
ナトリウムランプのひとつが、僕が通過したあとに消えた。
街路の一角だけ、そこだけが暗くなった。
僕は立ち止まり、そして振り返った。
世界が抜け落ちたように見えた。
僕は立ち止まっていた。
涙は、出てこなかった。
ポケットにつっこんでいた右手を引き出して、そして人差し指をこめかみに突きつけた。
手の甲が風を感じ、冷たかった。
僕は、まだ世界に存在していた。
僕は、悲しみに満ちたこの世界に、まだ生きていた。
僕は、人差し指を引いた。
乾いた音を聞いた気がした。
僕の真上に点っていたはずのナトリウムランプが、消えた。
めまいが襲った。左の頬に、まだ日中の日だまりをたたえたような落ち葉のぬくもりが
あった。
急激に、意識が遠ざかった。
僕が覚えているのは、そこまでだった。
(2004-03-30)