海を望む丘に、立ち並ぶ家並みの中に、僕の家はあった。
小さなときの頃はよく覚えていない。
コピーマシンで量産したような家が建ち並ぶ街で、僕は育った。街路の向こうには、い
つも海が見えた。春は風が強かった。もちろん、冬も風が強かった。電線が風にいつも鳴
いていた。隣の屋根の上で、カモメが空中にぴたりと静止していた。とにかく風の強い街
だった。
晴れた日は、港が見下ろせた。
僕の部屋からは丘の下に広がる旧市街地が一望できた。夜は瞬く明かりを眺めて過ごし
た。ラジオから流れる気象通報で、海の向こうを想った。自分が見えている海の向こうに
は、実は希望も光も見えないことに気づくのは、ずっと後になってからだ。
僕は、ヴィクトル・イワノビッチ・ベレンコ中尉が、当時の最新鋭戦闘機MiG-25に乗
ってシベリアの大地に別れを告げ、自由を求めて青森の三沢空港に亡命した年に生まれた。
津軽海峡がいまよりずっと熱く、冷たかった時代の終わりに、僕は生まれた。
部屋の窓から見下ろすはるかな港には、いつだって灰色を塗り込めた無愛想な船が停泊
していた。僕はいつもほおづえをついて、ぴたりと針で留めたように動きのない街の風景
を眺めていた。
左手に、港。右手、ずっと奥に、僕が生まれるよりもずっと、ずっと昔に、いまこの島
を制圧している国の軍隊が上陸してきた浜が見渡せる。
僕は窓を開けて煙草を喫った。
ようやく春が来た。
空は晴れていた。
石狩湾の上空には、ぽつぽつと柔らかそうな雲がにじんでいて、ふと視線を下げれば、
時折ディーゼルエンジンの重々しい音を響かせて、貨物列車が札幌へ向けて走っていくの
が見えた。
海からの風は、今日は窓を開け放したままにしておけるほどに穏やかで、ボリウムを絞
ったラジオから、低い声でアナウンサーがニュースを読んでいるのが聞こえる。
オホーツク海高気圧の勢力が強く、梅雨前線が南下し……。
僕は目を閉じて、海峡の向こうに、そっと思いをはせる。
ユーリ。
最初会ったとき、僕は彼女の名を偽名だと想った。そもそも「ユーリ」だなんて、それ
は男の名前のはずだ。そう言うと彼女は、眼を一度大きく開けると、次にはぱっと細くな
り、声を上げて笑った。
「わたし、カガリユーリ。よろしく」
差し出したのは左手だった。
「左利きなの。ごめん」
ユーリは素早く左手を引っ込めると、右手を差し出してきた。
「ごめん、カガリ、ユーリ?」
「そう、カガリユーリ」
僕はますますおかしくなった。
「人類初の宇宙飛行士の名前を知っている?」
僕は訊いた。
ユーリは僕の右手をつかんだまま、白い歯を見せてまた笑った。
「知ってる」
「君の名前は?」
「カガリユーリ」
「本名?」
「さあ」
そして彼女は右手をほどき、また声を上げて笑った。
彼女は、海峡の向こうから、やってきた。
煙草の灰が風で飛ばされた。
飛ばされた灰は僕の肩を通り越して、そのまま床に散らばった。
風はまだわずかに冷たかった。
ニュースは、緊張が続く海峡のこちらと向こうの情勢を、おそらくは若干の脚色を交え
て伝えてくる。僕はニュースを聞くのが好きだった。行ったこともない場所を思い浮かべ
て、「事件」のストーリーを組み立てるのが好きだった。
そして。
海峡の向こうを知りたかったからだ。ユーリが渡ってきた海峡のことを。
僕は煙草を消して、窓も閉めた。いささか肌寒かった。春と呼ぶには少し遅く、夏と呼
ぶにはまだ早い。だから、少し寒い。
ラジオが、日本海軍の海上封鎖のニュースを流していた。曰く、国際法上自由な航行が
認められているはずの津軽海峡を、強硬な姿勢を崩さない日本国が派遣した艦隊が封鎖し
ている、と。
あれから四十年以上。
僕が暮らすこの島は、津軽海峡を挟んで、母国から切り離されてしまった。両親の世代
は、海峡から南を「内地」と呼んだ。そして、ある日石狩湾から上陸し、瞬く間に北海道
全土を制圧した占領軍、彼らを派遣した国のことは、「本国」と呼んだ。そう呼ばなければ、
気がついたらシベリアだった、ではあまりにも間抜けだからだ。
本国が懸命に「内地」から僕らを切り離そうとしても、あまりに距離が近すぎた。海峡
のそばでは、青森のテレビ放送が見られるし、頻繁に太平洋上を遊弋している日本海軍の
空母の名前が「信濃」であることも、小学生の男の子ならみんな知っている。見えている
のに見えないふりをする。それが大人のやり方だった。
けれど、ユーリは見えないはずの海峡の向こうから、ふらりと現れた。
まわりは誰も、彼女が本当に海峡の向こうからやってきたなどと信じようとはしなかっ
た。ユーリ自身も、まわりを信じ込ませようとはしなかった。日本海軍が封鎖している海
峡をいったいどうやったら渡ってこられるのか、まじめに聞いた奴もいたが、彼女ははぐ
らかして答えなかった。嘘なのか、当局に逮捕されるのを恐れているのか。僕は後者では
ないと思った。噂が流れた程度では、もはや当局も動けない。時代は変わったのだ。では、
前者?
彼女は嘘をついていたのだろうか。
それも違う。
なぜなら。
彼女は海峡の向こうへ帰っていってしまったから。
左手に感じた彼女の体温が、ふとした拍子に蘇る。
「カール・マルクス通り」と本国が勝手に名付けた駅前通を、僕たちは何度も歩いた。古
くからの人たちは、誰も駅前通を「カール・マルクス通り」などとは呼ばなかった。駅前
は彼らが上陸してくる前とあととでは、何も変わらなかった。いまでもほこりっぽい舗道
を、路面電車が鋭いブレーキの金属音を残して走っていく。ユーリは路面電車を懐かしが
り、そして僕を誘ってよく乗った。
車社会にはまだほど遠い街の中で、路面電車から眺める街並みは、のどかで暖かかった。
自動小銃を構えた武装警察の姿も時折目についたが、警官自身、もはや時代が変わってい
ることを自覚しているのか、日差しに間延びしたあくびすら浮かべていた。ユーリはそん
な姿を見つけては、声を殺して笑った。つられて僕も笑った。
ある日、彼女は言った。
「わたしの母さん、もともとはこっちの生まれなの」
「こっち?」
「北海道」
「へえ」
「なんて言うんだっけ、ほら、ベレンコ中尉みたいな」
「亡命」
「そう、亡命」
「君の両親は、北海道から向こうへ亡命したのか」
「母さんよ。母さんだけ」
「へぇ」
「連絡船の貨物に紛れて、渡ったんだって。信じられる?」
ユーリはそう言うと、また声を殺して笑った。
「君は、いったいどうやってこっちに渡ってきたんだ? 『内地』から」
「機密事項」
「言えない方法か」
「秘密よ」
僕らは駅前通の片隅にある喫茶店で、サモワールから淹れた紅茶を飲んだ。少し、熱か
った。
「コーヒーはないのね」
「あるけど、そんなに見かけない」
「違うのね」
「内地と?」
「うん」
そう言って彼女は紅茶をうまそうにして飲んだ。
秋の日の夕暮れ時だった。
部屋が、レースのカーテンを引いたように暗くなった。雲が薄くたなびき、太陽を隠し
たのだ。ニュースはすでに終わっており、クラシックが静かに流れ出していた。けだるい
午後だった。こんな日は、さっさとラジオを消してしまおう。放っておくと、ムソルグス
キーの「展覧会の絵」に午睡を邪魔されてしまう。
僕はラジオを消すと、そのままベッドの上に転がって、目を閉じた。
睡眠不足気味の身体はフワフワと疲労感に心地よく、僕は、いっときユーリの歌声を耳
に聴いた気がしたが、あっという間に眠り込んでしまった。
(2004-04-02)