本国が千歳に最新鋭のSu-27戦闘機を配備したとき、当時アメリカのF-14と並んで世
界最強と謳われた日本海軍の74式戦闘機が日高沖まで進出して、牧場の牛がノイローゼ
になったらしい。僕は中学生で、新聞の一面よりはラジオ・テレビ欄が気になる歳だった
が、両親はおののいていた。あの日の朝刊をたたんだ父は、1962年の秋を忘れられないと
うなった。
1962年10月16日、ウラジオストクを出航した輸送船団が小樽港を目指していた。イ
ンディギルカと名付けられた船の名前は、奇しくもかつて猿払沖で遭難した船と同じ名前
だった。遭難したインディギルカはエタップの囚人たちを乗せていたが、後世のインディ
ギルカはミサイルを積んでいた。赤化された北海道を、本国はミサイル基地にしようと企
んだのだ。千歳から三沢まで、ジェット戦闘機なら十数分、たとえば千歳にミサイルを配
備すれば、東京が射程に収まる。日本政府は空母「信濃」や、僕でも名前を知っている「赤
城」を中心とする機動部隊を日本海に展開させて大演習を行った。モスクワは極東に戦闘
機をかき集め、本国と日本は一触即発の状態になった。数年前に小笠原で核実験に成功し
ている日本は、輸送船団が引き返さなければ、インディギルカが出航したウラジオストッ
クとハバロフスクを艦載機で核攻撃すると通告し、種子島ではモスクワを狙った弾道ミサ
イルの液体燃料注入がはじまった。
結局アメリカが仲裁する形で、いわゆる「北海道危機」は10月28日、浜松から離陸し
た日本空軍の爆撃機と、小松から離陸した護衛戦闘機がウラジオストック目前で引き返し、
核戦争の悪夢は去った。
僕はそれを教科書で教わった。日本語で書かれた教科書だったが、日本やアメリカの対
応を悪し様にけなす内容で、党員でもある教師たちの熱っぽい演説に反比例して、僕の気
持ちは窓の外に向いていった。窓の向こうはどんよりとした日本海で、少し煙った水平線
より手前、インディギルカが目指した港町が鉛色に沈んでいたのをよく覚えている。
僕はいわゆる「素行不良」の少年だった。
両親は党員ではなかったし、それでもれっきとしたプロレタリアートには間違いないの
だが、ブルジョワを羨望より憎しみに近い視線で見る教師たちや、そんな彼らの受け売り
ばかりの生徒会組織の連中は反吐が出るほど嫌いだった。僕は札幌の路地裏に居を構える
うさんくさい店でならおおっぴらに聴くことができるアメリカ製のロックや、東京で流行
っていると聞いた、やたら電子音ばかりが耳につくポップミュージックが好きだった。煙
草は嫌いだったが、コーラが好きだった。黒パンを水でといたような酸っぱいクワスや、
母親がつくったのならまだしも、給食で出るボルシチは口に合わなかった。キャヴィアを
食べたことはなかったが、だったらイクラの醤油漬けの方がよぼとうまいに違いない。ベ
レンコ中尉が亡命に使ったMiG-25戦闘機よりも、やや野暮ったいが繊細な印象を持つ、
日本海軍の74式戦闘機の方が好きだった。それ以上に、本国を牽制してアメリカがグァ
ム島に配備しているF-15戦闘機をカッコイイと思っていた。日本やアメリカの戦闘機が
載っている雑誌を持っているだけで、党員たちが何を言い出すかわからない。同級生にも
党員予備軍はいた。素行良好な奴らだ。僕はそんなものを所持はしていなかったが、やは
り札幌の書店でこっそり陳列されている日本製の航空機専門誌を立ち読みしては、海峡の
向こうに思いをはせていた。もちろん、ブライアン・アダムズを聴きながら。
空はいつだって陰鬱だった。
世界的にもすっかり熱く冷たい街として有名になってしまった運河の街も、僕はさっさ
と逃げだしたかった。街ですれ違う白人はみんなウォトカの匂いがするような気がした。
港へはうかつに近寄れなかったから、僕たちが海に堂々と入れるのは、街を離れた蘭島や
塩谷、列車に揺られて余市まで行かなければ、きな臭い匂いのしない海は見られなかった。
石狩浜や銭函の浅瀬には機雷が浮いているとの噂だったし、海岸には地雷が埋まっている
とみんな本気で信じていた。それが嘘だったとして、誰も試そうとは思わないようだった。
僕もそうだ。海は命がけで見るものじゃない。
三年生の春だったろうか、二年生の冬だったろうか。
ユーリが僕らの前に現れたのは、ドカ雪の降った日だった。
ユーリは制服を着ていた。見慣れたセーラー服だったが、同級生たちとは明らかに雰囲
気が違った。僕の隣の席に座っていた坂野忍は重たい黒髪を後ろで縛っていたが、ユーリ
は一見無造作に散らしたようなセミロングで、眼は紺色に近いほど黒かった。僕とタカノ
リは、顔を見合わせた。
(誰だ、あいつ?)
(何年生だ?)
(あんなやついたか?)
(知らない)
ユーリを見かけたのが始業式の直後であれば、転校生だと言われても納得できた。けれ
ど、彼女を見かけたのは放課後の美術室だった。タカノリは美術部員だったから、暇をも
てあました僕が札幌へ行こうとタカノリを誘いに行ったとき、美術準備室に彼女がいた。
いつからそこにいたのか、六時間目が終わってからずっとキャンバスに向かっていたとい
うタカノリも気づかなかったという。
「おまえ、誰?」
最初に口を開いたのはタカノリで、エプロンをだらしなくゆるめたまま、絵の具で染ま
った右手の人差し指でユーリを指した。
「タカノリ?」
僕は立ち上がり、タカノリに並んだ。
「入部希望なら、森崎に言ってくれよ」
タカノリは顧問教師の名を口にした。
「こんばんは」
ユーリの声は、寒々とした美術室の隅々まで、しなやかに広がる波紋のようによく響い
た。
「こんばん……は」
僕は反射的に挨拶を返してしまった。ユーリの言葉は、微妙にアクセントが異なった。
そう、たとえるなら、深夜アンテナを調節してなんとか受信する日本のラジオ放送で聞こ
えるアクセントに近い。
「こんばんはって、まだ五時になっていないぜ」
タカノリが笑った。
するとユーリはこちらへ歩み寄る。歩幅が広い。
「日暮れが早いのね」
「もう、冬だ」
そう、ユーリとはじめてであったのは、去年の冬だった。初雪をとうに過ぎ、すっかり
街がこんもりとした雪で包まれた、冬の夕方だった。
「きれい」
タカノリの言葉が聞こえないかのように、ユーリは窓を向いた。美術室は斜面に建つ学
校の山側に向いていたから、窓から見えるのは雪をまぶした雑木林と、葉を散らした枝の
向こうに小樽の街並みだ。
「雪が?」
「ううん、明かりが。オレンジ色」
ナトリウムランプがもう瞬いていた。外は雪が降り始めていた。
「だから、おまえ誰だよ」
タカノリは椅子を蹴るようにしてユーリに近寄った。
「名前を訊いてるの?」
「そう思ったのなら、いえよ」
とタカノリ。
ユーリは窓からこちらへ向き直り、
「わたし、カガリユーリ。よろしく」
彼女は言うと左手を差し出した。握手?
「左利きなの、ごめん」
あわてた様子もなく、すばやい動きでユーリは右手を差し出した。
僕は何となくおかしくなった。ひょうょうとしたユーリと、闖入者に憤るタカノリが。
「ごめん、カガリ、ユーリ?」
僕は聞き返した。偽名だと思ったのだ。
「そう、カガリユーリ」
僕は差し出された右手を握った。小さい手だった。そして、冷たかった。
「人類初の宇宙飛行士の名前を知っている?」
僕は訊いた。
タカノリがこちらを向いた。
ユーリはおかしそうに声を立てて笑うと、
「知ってる」
そう言って眼を細めた。
「君の名前は?」
僕も笑いを漏らしながら。
「カガリユーリ」
ユーリはおかしくてたまらないという風に、身体を折り曲げて笑った。僕の手を握った
まま。
「本名?」
僕もおかしくてたまらなかった。
「さあ」
タカノリが不機嫌そうに僕をにらみつけていた。タカノリの左目と右目の太さが互い違
いになっていた。不機嫌の証拠。僕は知っていた。
「さあ」
ユーリはそう言うと、僕の手を離し、そして半ば強引に、タカノリの右手を握りしめ、
振り回すように握手した。
タカノリはずっと不機嫌そうだった。
雪の日、ナトリウムランプがにじむ青い夜。それがユーリとの奇妙な出会いだった。
(2004-04-04)