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オルゴール

 
 オルゴールが甘い音だけを奏でる楽器だと思えば、それは大きな間違いだと思う。私は、
いまだ一度も、オルゴールを甘い音だと思ったことがない。
 たとえば夜。
 ひとり明かりを消して、窓の向こうから射し込んでくる月の明かりだけを頼りに、そっ
とテーブルの上にオルゴールをたぐり寄せ、ゼンマイを巻いて、気に入っていた曲を聴く
とする。ひじょうに情景的な行為。
 心を映像的に、なにか脆弱な被膜で包まれた球体だとするなら、オルゴールの音色は、
その被膜を突き刺す鋭利な針のように感じられないだろうか。私はそう感じる。
 周波数の変化が、音色を決める要因で、だからギターやピアノの音がギターやピアノの
音に聞こえるのも、この地球上を包み込んでいる大気の組成の中で聞いているからで。ヘ
リウムに満たされた部屋で聞けば、音の伝播速度が大気より速いから、当然周波数も変わ
って、私たちが耳にしている音ではなくなってしまう。だから、きっと音というものも、
実は非常に相対的な、あいまいな現象なんだと思う。ドップラー効果。
 パルス・ドップラーレーダーの構造を私は知らない。しかし、オルゴールが、恋人向け
の甘い音だ、という現状には同意しかねる。鋭く精神を突き刺す、情感に満ちた音だと思
う。
 「イノセンス」を見るまでもなく、実のところオルゴールが非常に力強い音をつくる楽
器だというのは、テレビや本で知っていた。なかなか強い音を出すのだ。小樽でディスク
オルゴールを実際に見たことがあるけれど(オルゴール堂にある)、「こんなもの部屋で聞
けないなぁ」と思うほどに大きな音が出る。音が大きいというか、「音圧が高い」のだ。
 グランドピアノの音もまた気持ちがいい。と思う。アンプラグド、いわゆる「アコース
ティック(発音的には「アクースティック」らしい。どうでもいいことだ)なのだけれど、
力強くも柔らかくも、ピアノは世にある楽器の中でもいちばん好きだ。一台ですべてを演
奏できてしまうからだ。その代わり技術もいるけど。
 そういう意味では、周波数の変動に過ぎない(はず)の音楽がこれほど人間に与える影響
が大きいと思うと、人間の精神構造がどうなっているのか、気になってくる。
 植物も音楽がわかる、とは一時期言われたこと。しかし、人間の耳に相当する器官がな
いわけで、そういう点で植物は音楽を聴いて感動したり不快になったりという、人間的反
応はできない。動物にはそういった感覚器官があるので、飼い犬がレッドツェッペリンで
は走り回るが、モーツァルトでは寝てしまう、といわれても納得できるかもしれない。し
かし、音楽を奏でられるのは、いまのところ人間だけ。

 どうにも話がまとまらないので本題に行きます。

 みなさんは、記憶が混濁したことはありませんか?
 酒を飲み過ぎたとか、クスリをやりすぎたとか、そういう外的要因ではなくて。
 わたしはあるのです。
 たとえば……。
 以前見た夢と、実際に体験した経験がごちゃ混ぜになってしまい、どちらが本当の記憶
なのか区別ができなくなってしまう。
 まるで「イノセンス」ですが、これ、本当にあるんです。
 職場や友人と話をしていて、またはひとりで考え事をしていて、「ああ、以前あいつは(自
分は)こんなことをやっていた(言っていた)なぁ」、何かを思い出したとします。
 しかし、次の瞬間、
「? あれ、『あれ』って、夢で見た話だっけ? それとも本当にあったことだっけ?」
 わけがわかりません。
 冗談ではなく、本当にあるんです。
 または今日、こんな経験をしました。
 わたしはこの寒空のもと、四ヶ月半ぶりに復活したバイクに乗り、銭函の海岸を走って
いました。日差しがあるうちはまだいい。しかし、速度を増すと私の体温は激しく奪われ、
もはや寒さではなくて痛みを感じるようになってしまいました。
 そこで、銭函駅の隣に建っているローソンに駆け込んだのです。立ち読みをして、それ
から煙草を喫ってバイクのエンジンをかけようとしたところ、
「あれ、ここ来たことあるよなぁ」
 かなり鮮明にこの場所を思い出したのです。
 いわゆる『既視感』ではありません。あれは、わたしにとっては『勘違い』の延長に過
ぎないので。
 脱線すると、あまりに「既視感」が続くようだと、統合失調症の疑いがあります。おと
なしく精神科に行きましょう。
 で、今日、ローソンを出てバイクにまたがり、ふと振り返ると、まもなく夕闇に包まれ
る、銭函駅の建物とプラットホーム、停車中の731系電車が見えました。
 確かに覚えがあるのです。
 ここにこうしてバイクで来たことがある!
 季節は違うけれど、ここに来たことがある!
 実のところ覚えていないのです。本当に来たことがあるかもしれないし、実は夢で、よ
く似た風景を見たことがあるだけなのかもしれない。区別が付きません。困ったことです。
 こういうことがわたしはよくあるのです。
 あれ?
 という瞬間が。
 繰り返しますが、既視感とはまったく違います。

 こう考えたことがありません?
 それこそ、「攻殻機動隊」で語られていたけれど、夢も現実も、脳が認識する方法は同じ
だから、脳が区別できなければ、それは実体験した記憶も、夢の中で経験した記憶も同列
だ、という。
 そうなんです。
 詳しいことはわかりませんが、夢も現実も、認識するという点では同じだと思うのです。
 実際、夢を見ているとき、「これは夢だ」と思いながら眠っている人はいないはずです。
夢の中で「これは夢だ、これは夢だ!」と思ったとしても、それは違うのです。あくまで、
「これは夢だ(ったらいいな)、これは夢だ(のはずだ、こんなことがあるはずがない)」
という流れがあって認識しているはずです。つまり、「これは現実だが、夢であって欲しい」
と。
 要するに、脳は区別していないんです。
 夢で見る世界も、覚醒中に見ている世界も、認識するレベルは同じで、では夢と現実を
どうやって区別しているかといえば、「目覚めるか目覚めないか」の違いだけで、だから、
この現実の世界も、目が覚めたらきっとそれは夢の世界であるはずで。
 ひじょうに哲学的で意味不明ですが、それくらい、人間の脳の認識能力は曖昧で、いい
意味でフレキシブルなのではないかなと思います。
 突拍子もない体験をしたとき、「現実感がない」といいますが、それは一種の防衛反応で
はないかな、と思います。それこそ、悪夢や、あり得ないくらい幸福な夢を見ているとき
に「これは夢であって欲しい」と思うのと同じ反応ですよね。脳がストレートに認識して
しまうと精神がいかれてしまうので、ちょっとワンクッションおいて、ショックを和らげ
るような。
 わたしはそう思います。
 大脳生理学を勉強してないので何とも言えませんが、わたしは思います。
 脳は、夢と現実を区別していない。
 間違いないような気がします。
 少なくともわたしにとって、夢で見た風景と、現実に見た風景を、あとになって回想し
たとき、区別ができません。意図的に区別しようと思わなければ、両者同じ「現実」であ
り、同じ「夢」です。
 五分さかのぼった記憶ですら、現状、人間の記憶を、メディアにそのまま記録すること
ができない以上、夢で見た世界と区別することができないはずです。記憶というのはそれ
くらい曖昧です。
 しかし、脳が、過去の記憶を、まるでビデオカメラで録画するように、100%の精度で記
録できるようになってしまったら、きっと生きることはつまらない。
 そう思いませんか?
 なぜなら、時間は過去に過ぎていけば、人間の脳はそれを「記憶」として記録して、曖
昧にしてしまうからです。それはよいことなのです。
 過去の時間は、おそらく物理学的にいう時間軸には存在していないのです。感覚的にい
えば、人間は記憶の存在で「過去の時間」を認識しているのに過ぎないので、「過去」は「記
憶」「思い出」という言葉と同義なのです。
 記憶は劣化します。
 記録方式的な意味ではなく、あえて語弊を恐れず書けば、「脚色」といっても過言ではな
いでしょう。
 時間は、過ぎた瞬間から脚色されます。
 過去を追体験することは、わたしは不可能だと思っています。
 ホーキングは、物理的に「時間旅行は不可能だ」と断言しています。
「わたしたちは未来から来た旅行者に出会ったことがない。だからこそ、時間旅行は不可
能なのだ」
 確かにそうです。
 未来や過去という言葉は、まさに言葉の上での世界で、本当は「未来の世界」も「過去
の世界」も存在せず、四次元的にいう「時間」は、机上の空論であり、わたしたちが生活
している「現実」は、ピンで留めたように、実は動いていないのではないかと思います。
 時間が流れている。
 これはきっと大いなる誤解です。
 時間は流れていなくて、単に時計の針が動いているから、時間が流れているように感じ
るだけで、私たちは定点に居座り、毎日を「過ごして」いるはずなのです。
 過去を感じることができるのは、記憶の中でだけです。
 ビデオやフィルムで記録された「過去の風景」も、まったく意味を持ちません。
 なぜならば、ビデオやフィルムで見る「過去の風景」は、現在の私たちが見る限り、そ
れは「現在」の風景なのです。時間の流れが欠落した、「10年前の現実」を、ただ見てい
るだけ。そこには「過去」と認識できる要件がまったくありません。
「ああ、懐かしい。街並みも10年前はこうだったよね」
 そんな話ができるのは、わたしたちがその映像が記録された場所を10年前から知って
おり、10年間を過ごしているからです。
 まったく知らない場所、まったく知らない風景をビデオで見たとして、それが「実はこ
れは10年前に撮られたものです」と言われたところで、わたしたちは「そうか、10年前
の風景か。懐かしい。こんな風景だったんだな」とは思いません。経験がないからです。
だから、その映像は追体験ではない以上、脳は過去と認識しません。
 結局、過去の風景は記憶に頼るしかないのです。
 時間というもの、記憶というものはこれくらい曖昧だ、わたしはそう思います。
 だから、いい。
 10年前の風景を、当時と寸分違わず「思い出す」ことができる脳を持っていたら、きっ
と残酷です。脚色も忘却もなく、「昔と変わらない」風景を見たとき、ひとの精神が正常で
いられるはずがありません。

 だから、わたしの脳は、とくに機能障害を起こしているわけではない、と思いたい。
 夢と現実、それは非常に曖昧なものだと思います。



(2004-04-07)



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