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わたしはカモメ

 
 すべてが雪に閉ざされてしまうまでには、きっとまだ少しだけ時間があるはずだった。
 窓ガラスに絶え間なく吹きつける雪の音を、僕は壊れたドアのように軋むベッドの上で
ぼんやりと聞いていた。風の音ばかりが耳につく夜で、灯台が鳴らす霧笛の音すら、今夜
は僕の耳には届かない。
 こんな夜は、電波すら届かない。
 トランジスタラジオは今年の夏に、国道脇から鉄道ガード下、ひっそりと店を広げる国
営市場の片隅で見つけてきたもので、それは本国製でもドイツ製でもなく、日本製だった。
日本製のラジオがバカみたいに高価なのは店をのぞかなくてもわかりきっていたけれど、
こいつだけは別な意味でバカみたいな値段がついていた。ルーブル・円の並列表示ではな
く、日本円のみのカード。僕が「いつか」を夢見てこっそり貯めていた「渡航費用」がす
っかり消えてなくなってしまったが、代わりに、毎夜毎夜、海峡の向こうの音を拾うこと
ができるようになった。
 最初に聞いたのは、NHKの定時ニュースらしく、欧州戦線拡大を懸念する日本国総理
大臣とやらの声明を、やたらと抑揚に欠けたアナウンサーの声が雑音混じりにスピーカー
から流れた。ドイツと本国との冷戦構造は、僕が知らないうちに発火していたらしい。ポ
ーランドの平原で銃口を交える機甲部隊の姿をなんとなく思い浮かべようとしてみたが、
結局雑音に喚起された僕のヴァブラジェーニェ(想像)は、どういうことか大雨の田園で、
それはきっと、やはり今年の夏、自転車を走らせて眺めた、石狩の風景にちがいなかった。
あの日、僕とタカノリは札幌の街を目指して、国道を東へ東へとペダルをこいでいた。張
碓から銭函へ下る道で、タカノリの自転車はチェーンが外れ、奴がドライバー片手に修理
を敢行している最中、僕は首筋に感じる陽射しが痛かった。
 雪はまだ降り続いているらしい。二重窓とはいえ、安普請のわが家は、ちょっと強い風
か吹くと頬や額に冷気を感じてしまう。きっと外は吹雪だ。カーテンを開いても、高島の
灯台は見えないはずだ。
 高島の灯台も、タカノリと何度も遊びに行った。港から比較的距離があるから、カメラ
などを向けようとしなければ、特段とがめられることもない。むしろ、石狩の海岸沿いギ
リギリを自転車で疾走していた今年の夏のほうが、よほど境界線だった。ダークグリーン
のバガージニクと何台もすれ違った。さすがに僕らに向かってカラシニコフを向けてくる
兵士はいなかったが、それらの物騒な雰囲気を夏の潮風と一緒に吸い込めば、「地雷原がま
だある」というにわかには信じがたい噂すら、わずかでも信憑性を増してくるのだった。
けれど僕らは地雷を探しにあの道を走っていたのではなくて、海岸近くの畑でまるまると
育っているはずのスイカが目当てだった。
 雪が窓に当たる音。
 何に似ているだろう。
 僕は考えていた。
 何に似ているだろう。
 雪はその日の朝から街を染め上げはじめていた。白く、モノトーンに。
 実のところ、僕は冬が嫌いだった。
 色彩を失っていく街並みを、僕は心底嫌っていた。
 小さい頃は、雪が積もっていくのが楽しくて仕方がなかった。
 いつからだろう、冬が嫌になってしまったのは。
 やはり今夜は電波の調子が悪かった。
 こちらの国営放送が気象通報を流し終わったあとは、名曲紹介の番組が始まってしまう。
それくらいの時間に選局をうまくやれば、海峡の向こうの電波を拾うことができるのだ。
出力が強いからか、それともプロパガンダのつもりなのか、NHKはよく聞こえた。
 本国と違って、あまりにも資本主義との国境が接近しているここでは、狭い海峡の向こ
うから飛んでくる電波をつかまえて聞くことに、いちいち目くじらをたてられることはな
かった。もっとも、「こっそり」聞いている分には、という程度なのだけれど。
 雪の季節が待ち遠しかった頃。
 小さかった頃。
 あの頃は、イデオロギーもなにも僕には関係なかった。
 いまの僕にも関係ないはずなのに、ふと呼吸が整いなにかに思いを馳せるとき、僕の意
識は雪雲ではなく、海峡の向こうを目指し始めるのだ。それはイデオロギーに支配された
この街や北海道という島から、さんざん喧伝されている「自由」な内地へと脱出したいと
思うからだろう。
 図書室で僕はあるとき、縮刷版をながめていた。
 僕が生まれた年の縮刷版。あの秋の日の縮刷版。
 当時最新鋭と呼ばれたMig-25戦闘機に乗り、シベリアのタイガに別れを告げ、下北半
島を横切り、三沢空港に強行着陸したあの中尉の記事が目にとまった。
 彼には翼があったのだ。
 すべてから解き放たれた翼が。
 けれど、僕には、わかっているけれど翼がなかった。そして、仮に翼があったとしても、
命を賭して海峡を渡り、すべてを捨てる勇気などなかった。彼の地は思いを馳せるだけで、
もしかしたらじゅうぶんなのかもしれない。そんな気がしていた。
 けれど、僕にとって、この島はあまりにも狭かった。
 もちろん自転車でめぐるには広すぎる。が、もし翼があったとしたら、千歳から三沢ま
でわずか十数分で到達してしまうこの島は、僕にとっては狭すぎた。
 すべてから解き放たれたい。
 僕はそう願うようになった。
 その手がかりが、国営市場の片隅で見つけたラジオだったのかもしれない。
 気まぐれな電波は、吹雪に阻まれて、僕の耳には、届かない。

「転校生?」
 タカノリが訊いた。
 今朝から本格的に降り始めた雪は、日が暮れたいま、すっかり街を青く染め上げていた。
「わたし?」
「お前以外に誰がいるんだよ」
「さあ」
 ユーリは妙に息巻くタカノリの言葉を適当にあしらいながら、制服のスカーフを揺らし
てキャンバスを眺めた。
「そもそもお前さ、何年生?」
「何年生に見える?」
「それで一年だったら、しばく」
 タカノリが言うと、ユーリははじけたように笑った。鈴を転がすように、彼女の声は美
術室によく響いた。
「あんたたち何年生?」
「答えろよ」
「あんたたちが答えたら答える」
 僕はおかしくなった。
「二年だよ」
「シイナ!」
 タカノリが鋭く僕に視線を向けた。
「二年生なの。そっかそっか」
 ユーリが目を細めた。
「シイナ……」
「タカノリ、いいよべつに。隠すことでもないでしょ」
「シイナ君にタカノリ君?」
 僕とタカノリを交互に首を向けて、ユーリ。
「タカノリ君、名前は?」
「ヤスダ」
 僕が言うと、タカノリはまた僕を睨んだ。
「シイナ君にヤスダ君か。よろしく。カガリです」
「どんな字書くのさ?」
 僕がユーリに訊いた。
「シイナ」
「加えるに、クサカンムリの刈る。わかる?」
「ああ、」
 僕はタカノリの木炭を奪い取り、手近の画用紙に書いてみせた。「加苅」。
「そう。正解」
「本名?」
 僕がなおも訊ねると、ユーリはまた目を細めて笑った。鈴が鳴る。
「シイナ君、下の名前は?」
 ユーリはタカノリを向いてそう言った。
「タカノリ?」
「シイナ……」
 なぜタカノリがユーリに敵意を向けているのかが僕にはわからなかったが、おかしかっ
た。
「ヒカル」
 しぶしぶ、タカノリがつぶやいた。
「ヒカル? ヒカル君ていうの?」
「いちおう」
 僕が答えた。なんとまあ。マンガみたいな名前だ。
「加苅さんは」
 僕はユーリを向く。
「名前、どんな字?」
 ユーリは僕の右手から木炭をひょいと手にとると、そのまま左手で名前を書いた。少し
右下がりの、それでもきれいな字だった。
 有理。
「へえ。『ユリ』じゃないんだ」
「ユーリ。伸ばすの。わかる?」
 一歩近づいて画用紙をのぞきこむユーリの制服は、まだ折り目が見えていた。
「で、お前、何年生?」
 タカノリが憮然と。
「ねえ、ヤスダ君」
 ユーリは向き直り、笑顔のままでタカノリを呼ぶ。
「なに?」
「ベレンコ中尉、知ってる?」
 笑顔のまま、ユーリ。
 なんとなく動きが止まったタカノリ。
 僕にとってほとんど『英雄』に近いかのパイロットの名は、人類初の宇宙飛行士と同じ
名を持った少女の口から出た。
「知ってるも何も」
 タカノリ。
「わたしの生まれた年だよ」
 ユーリは言った。
 風が鳴った。雪がつぶてのように窓ガラスを打つ。切れ切れに霧笛が聞こえた。高台の
斜面に建つ校舎まで、高島の霧笛が届くのはめずらしい。よほどに風が強いのか。
「じゃあ、二年か」
 タカノリのつぶやきは、ガラスを打つ雪にまぎれてしまいそうだった。僕の右耳にかす
かな冷気。この建物も隙間だらけだ。廊下のあちこちに、きっと今ごろ吹き溜まりができ
ている。
「だね」
 ユーリは笑う。
 彼女の襟に、セーラーの白いラインがよく映えていた。きっと、転校生だ。真新しい制
服からは、なんとなく冬の匂いがした。
「寒いわ」
 言葉の継穂が見つからず、僕は何となくつぶやいてしまった。実際、日が暮れて、スチ
ームの暖かさがはっきりと弱まっていた。用務員は五時を過ぎると、ボイラーの火を落と
してしまうのだ。
「帰らないの?」
 ユーリ。
「タカノリ?」
「バス、何時だ?」
「あと、あー、十七分、くらい」
 僕が答える。壁の時計が正しければ。
「シイナ君、ヤスダ君。一緒に帰ろう」
 ユーリ。
 君は宇宙に行っても、その笑顔で言うのだろうか。
 地球は青かった。
 それとも、こう言うだろうか。
 ヤー・チャイカ。


(2004-04-16)



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