時計塔がいつからここに建っているのか、私は知らない。
雪を恋しいと感じるより先に、私は彼を思い出す。オレンジ色に照らされた街路を、小
気味よい音をたてて歩いた冬の日、バスを降りてしばらく、その寒さに私は閉口していた。
初めて経験する寒さだった。
母がなぜそこを目指したのか、私にはわからない。何となくはわかる。けれど、本当の
ところはまったくわからない。母にも16歳だった時代はあったにちがいない。私が16歳
だった時代があったように。けれど、16歳だった母のことを私は知らないし、16歳だっ
た母が何を考えてそこを目指したのかも、私は知らない。
バスの窓はひどく曇っていて、街の様子はわからなかった。窓を拭けばいいと思った。
私はハンカチを持っていなかった。制服のポケットには、開いてもすぐに閉じてしまう、
妙に硬い生徒手帳が突っこまれているだけで、およそ窓を拭くのに適したものはなにひと
つ入っていなかった。膝の上にカバンを載せて、私はバスに揺られ、左の頬の上のあたり
をさらさらとつつきまわす冷気を感じた。遠かった。
私にとって、あの冷気は、初めてそこを訪れたとき、不意に、鼻の頂きへ舞い降りた雪
の冷たさを感じた驚きがまだ続いているような、一種の私に対する歓迎であり、その先に
つづくはずの時間の流れが、止まることもなく私を押し流そうとしている力のかけらだっ
た。私は招かれたのだろうか。それともおびき寄せられたのだろうか。わからなかった。
今では、16歳だった私のことを、現在の私が理解できないでいた。
時計塔はぼんやりとした初冬の空気に刺さっていて、見上げると鼻腔の奥がちりちりと
痛んだ。痛みの理由は知っていた。それは懐古とはとても呼べない、鮮烈な湧水に触れた
ときの指先の痛みのようなもので、初冬の夕刻という今、ゆるやかに降りてくる雪雲が喚
起するのは彼の思い出だった。
あの日、予感があったのかもしれない。
誰かに出会うつもりでいた。
望まなくても出会いはあるはずだった。
私は知っていた。
排除されるか歓迎されるか、しかし私は誰かと出会うはずだった。
そして、私は彼に出会った。
冷蔵庫の奥底で水分をすっかり放出しきったキャベツの葉のような私の思考に、彼は扉
を開いて入ってきたのだ。
本当は期待していなかった。
私がそこを訪れたことに、理由などなかったからだ。きっと。
しかし彼は私を認めると、笑ってくれた。
私はうまく声を出せるかが心配だった。しばらく声を出した記憶がなかったからだ。海
峡を越えてからこちら、私は声を出した記憶がなかったのだ。出国審査でも入国審査でも、
私はずっとだまっていた。それで事足りた。
だから、私は声が出るのかどうかが心配だったのだ。
彼は私を認めると、名を訊いた。
私は答えた。
すると彼は笑った。
笑ったように見えた。
私も笑った。
私の声はかすれもせず、望んだとおりに口からこぼれだし、冷気が漂う夕刻にあって、
彼の声は暖かかった。
彼は私の名を尋ねたのだ。
だから私は答えた。
「わたし、カガリユーリ。よろしく」
私を私と識別するための、とりあえずの呼称がここで披露された。私にとっては披露だ
った。名前など記号に過ぎないのだと、私はいつかどこかの本で読む機会があった。確か
に名前は自己や相手を識別するための記号に過ぎなかった。しかし記号はできるだけ簡潔
で、しかも印象的な方がいい。その点、私が名乗った記号は、初冬を迎えたそこの人々に
とっては印象深く、そして笑いを誘うものであったらしい。
彼は笑った。
愉快そうに笑った。
彼と並んだもうひとりの彼は不愉快そうだった。もうひとりの彼にとって、名前も記号
もどうでもいい存在のようで、キャンバスを前にしたもうひとりの彼は、見たものをその
まま形として存在を認識して選別する技能を持っているのだろう。そういうタイプの人間
は、案外名前にこだわらない。私は後々そのことを知った。
新品の繊維が熱を帯びて、独特の匂いがした。私はバスを降り雪道を小気味よい音をた
てて歩き、学校に入り込んでいくぶんスチームの熱気で身体の中にふたたび火を灯すこと
ができたあとは、分厚いコートを脱ぎ、小脇に抱えていた。コートはよく身体に馴染んだ
もの。けれど、その下に着た制服は、私がよく知った世界を発つとき、初めて袖に腕を通
した代物で、やや背中がこわばるくらいに着慣れていなかった。鏡を見るときっと噴出し
てしまう。似合っているかと訊かれれば、きっと私は首を横に振っただろう。見るものが
どう思うかではなく、私自身がどう感じるかが重要だった。私に制服は似合わない。新品
の制服はなおさらだ。コート着込んでいる間、制服の大きな襟が中でよじれて居心地が悪
く、しかし足元から駆け上がってくる冷気には勝てず、スチームの熱気でようやくコート
を脱いだとき、私は背中に腕を伸ばして後ろ襟を引っ張るようにし、居ずまいを正した。
けれど居心地の悪さは変わらなかった。
雪が降っていた。
風は弱かったが、雪に見惚れる前に私は寒さにやられていた。彼はスチームが弱いと文
句を言っていたが、美術室は十分すぎるほど暖かく、できれは私はスチームのまん前に陣
取り、身体の中にようやく点った火種を、さらに盛大に燃やしたかった。が、彼の笑顔は
私の胸のうちに小さな明かりを灯したようだった。それだけで十分に暖かかった。だから
しゃべりすぎたのだろう。
時計の針がかちりと音をたて、見上げる私は首が痛かった。
過ぎた記憶の向こうに、雪の舞うあの夕刻がちらちらした。
長い夢のようだったが、それは紛れもない現実で、彼の顔を今でも思い出すことはでき
るが、それは彼が16歳の頃の容姿で、私は彼の現在を知らなかった。
それでいいと思った。
「ユーリ?」
私を呼ぶ声が聞こえたような気がして、私は目を覚ましたように肩を震わせ、振り向い
た。
空耳だった。
と、鼻の頂にちくりと冷気。
雪だった。
「ヒカル……?」
声にならないつぶやきが、私の口から漏れ出したことに、私はずっと後になってから気
づいた。
「君の名前は?」
彼の声が聞こえたような気がした。
私は、カガリ・ユーリ。
(2004-04-20)