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トマト

 
 その昔、トンビと油揚げには気をつけろと言われた頃、「よそ者には絶対に負けない」と
いうコーナーを持つ奴らがいた。いまで言う「地元スペシャル」だ。Mが朝里峠を主に走
っていたとき、孤高の彼は病院のベッドの上にいた。最初うつぶせで半年、起きあがるのにはさ
らに半年の時間を要した。
 Mが走り回っている間、病院のベッドの上で彼は考えていた。
 その間、最愛の彼女は彼から離れていった。女というのは果てしなくしたたかな生き物
だった。
 様々のものに裏切られ、彼は孤独だった。海は悲しみを貯めた水溜まりでしかなかった。
 Mは彼の孤独を知っていたが、増長を避けてかまわなかった。
 いま、彼が信じるものは、物言わぬ、決して裏切らぬ精緻な機械、バイクただそれのみ。

「知らねぇよ、理屈なんかいらねぇ。誰よりも速く走れればいいのさ」
 ファランクスなる喫茶店、昼下がりはガソリンの匂いがかすかに漂い、コウはコークを
瓶ごと飲んでいた。
「わかっていないようだな、言葉だけなら誰だって走れる。ようは、ライダー自身がどう
感じているか、そのことだ」
 年かさの男はコウに諭すが、若さという武器に安全装置など付いていない。皮肉な笑い
を浮かべるまでもなく、背徳というかすかなスパイスを効かせて、いま暖気が終わりかけ
た身体の内側に、コウはいつだって苛立ちを抱え込んでいた。
「あんたこそ言葉だけじゃないか。俺は違う。公道にチェッカーがあるとでも思ってるの
か?」
 コウはやおら立ち上がり、レジスターの前であくびをかみ殺していた高校を卒業したば
かりのウェイトレスへ伝票を突きつけた。

 彼はすべてを失った。
 あのとき、標識を見落とさなければ……。
 彼はいまでも自嘲の影に痛みを思い出す。

「コウ、知っているんだろう?」
 ファランクスを出たコウを、Sが呼び止めた。
「何をだ」
「あいつのことさ」
「だからなんだよ」
 コウは苛立ちを隠さず、乱暴にヘルメットをかぶった。
「なんであいつが、ああ呼ばれているかをさ」
 イグニッションキーを差し込んだところでコウの指が止まった。
「知ってるさ。だからなんだい」
「まって。聞きたいわ、その話」
 ファランクスの扉が鳴った。Sとコウが振り返る。
「なんだよ、マユミ」
「教えて欲しい。だって彼、ぜんぜんわたしに話をしてくれないのよ」
「そりゃそうさ。あいつはこの話をすごく嫌がる」
「フッ」
 路地の静寂を、コウのCBRが破った。派手な排気音。
「青い空が、俺を赤く染めるのさ、ってか?」
「やっぱり知っていたんだな」
 Sが言うと、コウはシフトレバーをたたき込み、スロットルを一度だけあおるとすばや
くクラッチをつなぎ、
「勝手にしろ」
 言い残して走り去った。
「バカが」
 Sがつぶやく。
「ねえ、教えて」
「いいさ。店に戻ろう」

 彼は苛立っていた。
 Mと話をしようと思ったが、そんな気分もエンジンをかけたとたんに忘れてしまう。
 環状通から札幌新道、伏古通りから337。気づけばメーターはとんでもない速度を指し
ている。
「!!」
 秋の日はつるべ落とし。革ジャンを着ていても石狩の秋はさすがに寒い。
 海を見ようと思ったのだ。
「まあバイクに乗ってりゃよ、海だって山だって散歩のコースだな」
 誰かが誰かに言ったセリフだが、もう覚えていなかった。

「ねぇ、教えて欲しいわ。どうして彼がそう呼ばれているのか」
 マユミが訊いた。
「命あるものは必ず死ぬ。このことよ」
 Sが言った。
「どういうこと?」
「青い実はやがて赤くなり、そして赤くなったときが、終わりへのカウントダウンのレッ
ドシグナルってことさ」
「それで、彼は?」
「奴が『トマト』なんて呼ばれ出したのは、もうずっと昔さ。雨の日もじっと、いつか赤
く実る夏の日を夢見て耐える果実なんだ、なんてわけのわからないことを言ってな」
「わたし、彼の名前を知らないわ」
「名前になんてなんの意味もないさ。奴は『トマト』それでいいじゃないか」
 Sはセブンスターに火を点けると笑った。

 つづく。


(2004-04-21)



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