ヴァニラは甘くない。
スーパーマーケットの陳列棚で見つけた。ヴァニラエッセンスだったろうか、それとも
……?
思わず手が伸びた。
そっと香ってみた。
甘い匂いがした。
店内BGMがふっと遠くなった。
意識まで遠くなった。
いや、わたしの意識はしっかりと「ここ」にあった。意識したまま、意識が飛んだ。そ
れは過去と呼ばれる方角かもしれないし、もしかしたら全然違った別の方かもしれない。
けれど、甘い匂いがした。
胸の奥の方がつんとした。
そのころ、わたしはいつも時計を五分進めていた。
意味はちゃんとあった。
わたしは時間を自由に使いたかったのだ。
RSがわたしを莫迦にした。
曰く。
「得したい気分だけでしょう。たとえば朝?」
笑った。
わたしもRSも笑った。
スーパーマーケットでヴァニラがわたしを呼んだとき、やはりわたしの右腕では、時間
が五分だけ進んでいた。
左手に提げた買い物かごには、以下。
シリアル、フリーズドライのバナナスライス、カシューナッツ、トマト、トマト、トマ
ト、トマト、キュウリ、キュウリ、タマゴがダース、値下げラベルがついた豚肉のスライ
ス、そして牛乳とウーロン茶のボトルが一本、これで何日分だろう。
わたしはしばらくヴァニラの前で停まっていた。
ケーキを作るような趣味も技術もないから、これを買い物かごの中でトマトの友達にし
たところで、結局は芳香剤になりさがってしまうだけ。欲しいかどうかもわからなかった。
けれど、甘い匂いだった。
なんとなく、本当になんとなく、右腕が伸びていた。
ヴァニラビーンズ。
メキシコ産。
遠くまでようこそ。
わたしは左手にのせて、ビンに鼻を近づけた。
甘い匂い。
ビンの口がゆるんでいるのだろうか。甘い匂い。
甘い、匂い。
わたしは買い物かごを床に置いた。牛乳ビンが傾いて、そのままトマトの一個にもたれ
るようにして倒れてしまった。わたしはあわてて牛乳を立てた。疲れているのはあなただ
けではないんだよ。
ヴァニラオイルを買おうというのではない。
買ったところで芳香剤以外のなにものでもない。
けれど、わたしはその匂いに両肩をつかまれてその場から動けなかった。
右腕で五分先の時間がかたりと音がするように秒針を進めていた。
いつか、駅の巨大な時計の下で、わたしは買ったばかりの文庫本を開いていた。
空はよく晴れていて、風もなくて、気持ちがよかった。
空がよく晴れていたから、文庫本のページは新雪の朝。まぶしくてわたしは涙をにじま
せながら文字を追っていた。そしてそのうち、小説のストーリーなどまったく、目から入
ってそのまま涙と一緒に流れ落ちるようになってしまった。わたしはそしてページを閉じ
て、ほっと時計を見上げた。
そのころ、わたしの右腕には五分先の時間は存在していなくて、みんなと同じ、正常な
ときを刻み続けていた。それが当たり前だとわたしは疑うこともしなかった。
まだわたしは「こちら側」にいたわけだ。
見上げた空に向かって、時計の針が指していて、時刻は正午に近かったと思う。わたし
はまだ学生で、快速電車をただ待っていただけのような気がする。あまりよく憶えていな
い。空に雲がひとつもないくらい晴れていた、そのことだけはよく憶えている。
そして、わたしの時計がまだ五分後を指していなかったということも。
携帯電話のバッテリーが切れたままだった。
RSはいまどうしているだろうか。
わたしは買い物かごを床に置いたまま、まだヴァニラオイルのビンを眺めていた。
鈴が転がるような笑い声に、ふとわたしはびくりと振り返ると、高校生くらいに見える
女の子が、大学生くらいに見える男の子と手をつないで買い物かごを振り回していた。
振り回しているように見えた。
わたしはヴァニラオイルのビンを棚に戻した。
そしてそっと右手の匂いをかいだ。
不思議とヴァニラの香りはしなかった。
高校生くらいに見える女の子は、頭ひとつ背の高い男の子を見上げるように、まるでス
キップするように歩いていた。
わたしもああいう頃があったのだろうか。
買い物かごを拾いあげ、わたしはヴァニラの棚をあとにした。
ふと気づいたのだ。
閉店が近いのだ。
空が壁のように見えた。
きっと街の明かりが間接照明みたいに見えたからだ。
わたしはポケットの中で転がっている携帯電話のボタンになんとなく左手の指を触れて
いた。電源が入らない電話機は、小さな子どもたちがままごと遊びで使うおもちゃの電話
と同じだった。スーパーマーケットを出て、やたらと広い駐車場にはもうほとんど車は残
っていなくて、わたしはレコードショップに長居しすぎたことを悔いた。
欲しいレコードがあったわけではなくて、わたしはただ、そういう旋律のかけらにそっ
と触れているのが好きだっただけだ。ビートを左足で刻むより、右腕の時計が五分後の未
来の時間を刻むより、わたしは鼓動に触れるのが好きだった。
ジーンズのポケットからイグニッションキーを取り出した。背負ったデイパックが重い。
牛乳とウーロン茶のせいだ。ねっとりと黒く広がるアスファルトうっすらと濡れているよ
うに見える。気温が低い。何となく不安だったが、わたしはしばらく歩いた先に駐輪した
バイクにそっと指を触れてやった。ここへ来る途中で満タンにしたタンクはよく冷えてい
た。
エンジンをかけようとして、鈴が転がるような笑い声が聞こえた。振り返るとあの子が
いた。はじけるような笑顔って、きっとああいうのをいうんだ。
わたしはきっと、凍ったような顔をしていたのだと思う。バイクのミラーで前髪を直す
ふりをして、そっとのぞき込んだわたしの目は、いつになく澄んでいた。わたしの目がこ
んな色をしている日は、ろくなことがない。
鈴の音はわたしの左後ろからゆっくりと右後ろへと転がっていき、それに混じってコン
トラバスみたいに低い、けれど短い笑い声がつづく。あの男の子だ。きっとわたしと大し
て歳など違わないに違いない。だから?
ふたりはわたしから少し離れた、バイクなら3秒くらいで届くくらいの距離に停められ
た、やたら図体の大きな、装甲車みたいな車に乗り込んだ。ドアが閉まると、鈴の音が消
えた。鈴の音が消えた駐車場は、しばし静かだった。それが合図だったかのように、スー
パーマーケットの明かりがすべて消えた。
わたしはエンジンに火を入れた。レコードショップで旋律にさんざん触れているあいだ、
600ccインライン4はすっかり興奮も冷めて夜露に濡れていた。多少ぐずったが、スロッ
トルを一度あおるとアイドリングはすぐに安定する。いい子。グラブをはめて、フルフェ
イスのヘルメットをかぶると、わたしの意識がすっと分離される。デイパックが重い。
シールドは開けたまま。鈴の音とコントラバスが収まったあの装甲車もエンジンに火を
入れたらしい。けれどなかなか走り出さない。それはわたしも同じ。
グラブからのぞかせた右手首の五分後は、もうあと一息で日付をまたいでしまう。右手
首の五分後が日付を超えたとき、わたしはまだ五分前の今日にいる。
水温系の針がぴくりと動く前に、わたしはバイクにまたがった。振り返るとまだ装甲車
はそこにいた。
ヘルメットの中で、甘い匂いがした。
わたしはひどく後悔した。
料理に使わなくてもいい。芳香剤になりさがってもいい。あのヴァニラオイルを買って
おけばよかった。きっと欲しいのは今日だけだ。日付が変わればわたしの意識はあの香り
を必要としなくなる。
ヴァニラ。
暖かい。
時計を見上げてわたしはずっと思っていた。
春。
何かがはじまる予感がしていた。
快速電車を待っているはずなのに、わたしはもっとほかの、全然違う別なものを待って
いた。
そのときだけ。
文庫本をあのころ愛用していたバッグにしまい込むと、目を閉じた。
瞼の裏にわけのわからない模様がいろいろ浮かんで、波紋のようなカレイドスコープの
ような、そんな模様をわたしは楽しんだ。いつか、この模様をスケッチしてやろう。
瞼を優しく閉じていると、目の前が黄色く見える。秋の日の銀杏の葉のような、鮮やか
な黄色。そして目を開けると、世界はうっすらと蒼に染まっている。
時計の針は長い方も短い方も、まっすぐに天を指していた。
まもなく電車がやってくる。
待ち合わせ場所にRSは時間通りに来てくれているだろうか。
わたしは勢いをつけてくるりと踵を返し、改札口へとすべり込む。
一度、二度とわたしはスロットルをあおった。
エンジンが吠える。
頼もしい。
アンダーカウルの隙間から、ぼんやりと熱気が上ってくる。頃合いだ。日付が変わる前
に。
そう、わたしの右腕の五分後が、わたしより先に日付を超える前に、帰らなきゃ。
サイドスタンドを左のかかとでしまい込み、右手でスロットルを軽く開いて、左手の指
がクラッチを握り、左足のつま先がニュートラルから第1速。左手がクラッチレバーをリ
リースして、わたしはねっとりしたアスファルトの上を走り出す。
やはりアスファルトの上はうっすらと濡れている。
空気までがしっとりとわたしを包み込む。
わたしは装甲車の少し脇をゆっくりと抜ける。
あの女の子はまだはじけたような笑顔を、あの男の子の頬に寄せていた。ふたりがそっ
とキスを交わす前に、わたしは通りに躍り出ていた。
右手の五分後が日付を超える前に。
シールドを閉じると、まだ甘い匂いがした。
(2004-04-25)