未来と呼ばれる時期が、誰にも等しく存在するものであるなら、そこに見えるものはな
んだろうか。しばしば時間は連続し、あたかも流れのごとく例えられるが、果たしてその
とおりなのだろうか。あの日の記憶を、それを過去と呼ぶとしたら、私自身が感じる過去
と呼ばれる「あの」記憶は、ほかの誰もが共有する「過去」であるのだろうか。
五分間だけ自分の時計を進めて生活している人間を知っている。けれど、それは私が考
えるような、意図しての時間軸からの逸脱を目指したものではない。合理的理由、つまる
ところ、「標準時」から五分先の指針を常に維持することで、五分間の猶予を自分自身に与
えているだけなのだ。そこに哲学的意味などまったくない。哲学的意味合いを持たせよう
としたのは私自身であり、彼には彼自身の合理的理由が泰然と存在するだけで、自らが時
間軸を自在に操らんとするような、そんな意味はまるでなかった。
時間について考えるとき、誰しもが自分自身を中心に据える。なぜなら、ほかに対象と
するものがないからだ。
「赤い色」を説明するとき、あなたはどうするだろう。
ねぇ、赤い色って、どんな色?
リンゴの色。
トマトの色。
信号の色。
焼けた鉄の色。
じゃあ、私が感じる赤い色は、あなたが見えている赤い色と、同じなの?
そう仮定するしかない。
私が見えている赤い色が、あなたにとっても同じ赤であると、そう信じるしかない。
けれど、私が見ている色が、誰にとっても同じ色である保証などどこにもない。
だから。
私が感じている時間を、誰もが同じく感じている保証などどこにもない。
世界の終わりを望んだとしたら。
世界の意味について考える。世界とは、つまるところ、私と私を取り囲むさまざまな事
象やさまざまな色や感覚であり、私が他を認識することができるすべてを「世界」と呼ぶ
なら、私が認識できないものは、「私の世界」ではない。
私は私の存在する時間軸からの離脱を望んでいて、しかも私は私が存在する世界からの
離脱を望んでいる。
あるとき、私が「幸せが絶望だ」とつぶやいたとき、みな一様に不思議そうな顔をした。
いわく、「幸せなのが何がいけないの?」と。
人は幸せで死ねるのだ。
幸せを感じるとき、感じている最中もまた、私や私の周囲を「流れる」時間は決してと
どまることなく、連続して未来へと果てしない暴走を続けていた。
私はいわゆる厭世感にとらわれて絶望に酔っているわけではなかった。幸福が絶望につ
ながっているこの事実に気づいたとき、私は私自身の世界をすべて終わらせなければなら
ないと感じた。
白い部屋の夢だった。
私はソファにひとり座っていた。
壁も、床も、ソファも、テーブルも、みんな白い。窓枠も天井もクロスもみんな白い。
部屋には私ひとりしかいなかった。
時間は確かに止まっていた。
私が止めたからだ。
それ以上進むことを止めたからだ。
白い部屋。
私はすべてを知っていた。
そこに誰がいたのかも、誰がいなくなって行ったのかも知っていた。
だからこそ、そこは明らかな絶望の光景だった。明るい日差しが穏やかな影をテーブル
に落としていて、もしかしたら私は煙草を吸っていたかもしれない。そうして私は過去に
ついて思いをめぐらせないように、必死で耐えていた。
世界を終わらせるのだ。
たったいま、すべてを。
できればこうしたくなかった。
部屋に誰がいたのかを、私はよく知っていたからだ。
笑顔だけが空気に余韻を暖かく残して、まだ話の途中だったのに。
みんないなくなってしまった。
話の途中だったのに、みんな、部屋を出て行ってしまった。
そして、彼らは、彼女らは、二度と私の前には現れてはくれないのだ。それがあのこの
白い部屋なのだ。ここは時間の流れ方が違う。私が意図すれば、止めることができた。で
もそうしなかったのは、「彼ら」がいたからだ。
本当は違った。
彼らと、彼らの時間と、私を囲むすべてを、そのままピンで留めるように止めてしまい
たかった。けれどできなかった。
とどめることもできず、私は取り残されてしまった。
私はひとり、部屋に残され、そして最後の時間を強引に探そうとしていた。
幸せだから、絶望。
理解してもらおうとは思わない。
理解できるはずもない。
絶望は案外すぐそばに、振り向けばそこにある。
誰もが気づかないふりをしているだけなのだ。あるいは本当に気づかないのは鈍感か。
本当だ。
私にその鈍感さを、分けて欲しい。
私は、今すぐ、この世界を、終わらせてしまいたい。
(2004-10-07)