長い休暇が始まってしまった。
停留所のプラットホームには薄く砂が積もっていた。海が近いのだ。靴の底に感じる粒
子は、かつて海岸線に存在した砂浜の残滓だった。背後でモーターがうなり、振り向くと
電車は扉を閉じ、終点であるこの停留所から折り返していくところだった。一直線に伸び
る港湾道路の中途に位置する停留所は、以前までは終点ではなかった。<機構>が退去命令
を発令するより早く無人地帯と化した辺り一帯は、セイタカアワダチソウをはじめとする
帰化植物やコウボウシバなどの海岸植物に埋め尽くされ、碁盤目状に配置された道路は、
すでにアスファルトは朽ち果て、並ぶ電柱はみな傾いていた。海が近づいていたからだ。
日差しが暖かい。春だった。三月、それにしては暖かい。すでに雪はもうなかった。電
車が去ってなお、彼はプラットホームに立ったままだった。最初の一歩に思案していた。
ジャケットの内ポケットに入れた紹介状がやけに重く違和感を伴って感じられ、だからな
のか、陽炎の揺らめく港湾道路の果てへと消えていく電車を、ただ見送るだけだった。
長い休暇が始まってしまった。
彼は思う。
正確には休暇ではなかった。休職扱いだ。だから<ターミナル>も自室に置いてきた。ポ
ケットにはIDと財布、煙草とライターが入っているだけだ。<ターミナル>を持たないこと
にかなりの不安を感じるが、これから向かう場所であの機械が必要だとも思えず、また、
彼が休職したその日から、<ターミナル>の機能は制限された。もちろん<機構>が構成員を
追跡するための位置追尾システムもシャットダウンされた。そのことは彼を孤独にさせた。
日常から放り出されたような想いだった。
頬をゆるやかな風がなでつける。潮の匂いがはっきりと感じられる。電車が去った港湾
道路から視線を転じ、風上を向く。高い木もなく、もちろん人家もなく、港湾区域のこの
あたりは、もっとも早い時点で退去命令が施行され、まるで地平線のように見える荒地の
すぐ向こうには、確かに海があるはずだ。それを思うと彼はますます憂鬱になった。澄ん
だ空のどこかからか、鳥の声が聞こえた。ふとうつむくと、足もとには錆びだらけの空き
缶が転がっていた。薄色の砂と赤錆とコウボウシバの葉。コントラストが強い。春だとい
うのに、それにしても日差しが強い。
ポケットに右手を突っ込んだ。尖った感触はIDだ。それだけがただひとつ、これまでの
日常と彼をつなぎとめている現実だ。日差しがまぶしかった。なぜ自分はここにいるのか。
部屋を出るときに感じた憂鬱は、ここにきて増大しているようだった。すでに今は彼の知
っている日常ではなく、薄く砂の積もったプラットホームに立っている自分が、不意に自
分ではないような気がした。途端、世界がひどくよそよそしいものに感じられ、それをふ
りはらうようにして、彼はようやく第一歩を標す。新しい日常に。
鳥の声がまだ聞こえていた。
建物が見えたとき、彼はうっすらと汗を浮かべていた。身体が重い。休職してさほどの
日数が経過しているわけではないのに、日を追うごと、彼の身体は制御が効かなくなって
いた。内ポケットの紹介状の重さは、彼の身体の重さと比例するようで、建物が見えると、
それはなおいっそうの感覚として、さらに彼を屈託させた。
人家が一軒も見当たらない荒地に、建物はひときわ異彩を放っていた。防風林を過ぎ、
揚水機場の角を曲がると白い壁のその建物が目に入る。一見、半世紀以上も前に建てられ
た学校のようで、屋上にはガラスの温室のようなものが見えた。中でも目を引くのはその
屋上にそびえる三基の風車だった。周囲に電柱は並んでも、電線はぶつ切りにされており、
彼は風車が発電用のそれであることにすぐ気づく。海からの生暖かい風に、ブレードがゆ
っくりと回っていた。
建物は単に<施設>と呼ばれている。彼も紹介状を渡されてから、<ターミナル>で<施設>
についてはある程度の事柄を調べていた。住所、規模、収容人員、設置時期、その他。あ
りていに言えばそこはただの病院なのだが、<機構>の医療局が管轄する機関には登録がな
く、だから<ターミナル>で知ることができたのは、住所、それから<施設>が以前はなんと
呼ばれていたか、それくらいの情報だった。長ったらしい正式名称はハードコピーでもと
らないと覚えられそうもなく、だから今目の前に建つ二階建ての建物も、彼にとっては<施
設>と呼ぶしかなかった。
エントランスはガラス戸で、押して開いて中に入ると、空気は冷えていた。天井に並ん
だ蛍光灯は間引きされており、ここの電力事情がなんとなくうかがえた。気の効いたBGM
が流れているわけでもなく、殺風景なエントランスからホールに進むと、壁の掲示板には
いつのものとも知れないWHOのポスターが貼られていた。ホールには雨だれのようなキ
ータイプの音が響いており、音の上流には受付があり、カウンターには若い女の子がひと
りいた。白衣を着ていたが、蛍光灯の明かりのせいか、顔まで白く見えた。
「こんにちは」
彼の存在に気づいた女の子は顔を上げ、タイプをやめた。彼は黙ってIDと紹介状を差し
出した。IDは集積回路がプリントされたカード、紹介状は紙だった。<機構>の医療局が管
轄していなくても、IDは通用するはずだ。紙の方は……わからない。女の子は受け取った
IDをカードリーダに通し、紹介状を広げて一瞥した。
「白石怜さん」
「はい」
名前を呼ばれ、返事をした。女の子がカードリーダを通したディスプレイを読んだのか、
それとも紹介状に記された彼の名を読んだのかはわからなかった。
「初めてですね」
「はい」
「待合室でお待ちください」
女の子は微笑むと、ホールの端に置いてある長椅子を指差した。
彼……怜はIDを返却されると、黙って示された長椅子に歩んだ。やがてまた雨だれのよ
うなタイプの音がホールに響きだし、怜は長椅子に腰掛けた。年代物らしく、座ると嫌な
音がした。
最悪だ。
怜は今日何度目かわからない嘆息を漏らす。なぜ自分はここにいるのか。自分が異常だ
とでもいうのか。納得できない。なぜわからないんだ。あいつらは。
椅子に腰掛けると、日差しがあった。長椅子は大きな窓に面しており、そこはどうやら
中庭か何からしく、芝生の緑が鮮やかだ。けれど屈託した気分は果てしなく怜を憂鬱にさ
せ、差し込む日差しも建物の中の暗さを引き立てるだけで、かえって気分が落ち込んだ。
春の日。強い日差し。まるで初夏のような。
小春日和をインディアンサマーと呼ぶらしいが、それでは初春のこの時期に感ずる夏の
匂いを、それもやけにとげとげしい夏の匂いを、果たしてどう表現していいのだろう。怜
は長椅子に深く腰掛け、目を細めた。眠くなる。昨夜もまた眠れなかったのだ。意識が昼
夜覚醒し続けていた。疲れ果てているはずなのに、一向に眠れなかった。眠りたくもなか
った。泥濘で足もとをすくわれるような、油の中を無理やり走ろうとするような、そんな
悪夢の連続が続き、怜は心底疲れ果てていた。いまこうして感ずる眠気が、ずいぶん貴重
に感じられた。そのことに怜は苦笑した。萌黄の芝を眺め、漂う空気は安堵を呼んでいる。
なぜだろう。ここは、終点なんだろうか。怜は靴の裏にまだあの薄色の砂粒がこびりつい
ているような気がした。不思議に不快ではなかった。
目を開く。
芝が萌え、照り返された萌黄が待合室の壁や天井を染めていた。アクアテラリウムの中
のようだ。潜ったことはないが、記録で見た南洋の浅瀬が続く海に似ている。自分たちが
失ってしまった風景を、記録という記憶の中で、怜は反芻した。僕たちはあとどれくらい
の物を失うのだろう。
と、視界の端に、金属性の足を生やした円錐が設置されていることに気づいた。
灰皿だった。
珍しい。怜はもたれていたシートから背を起こし、無意識にライターと煙草を探ってい
る。こんな場所で、まがりなりにも医療機関を名乗る場所で、こうも無造作に灰皿が置か
れているなんて。怜はポケットから煙草を取り出した。めっきり貴重品となってしまった
かつての嗜好品。けれど怜は煙草を取り出し、左手にライターを握ったまま、しばらく灰
皿を凝視していた。灰皿は磨かれ、使われた形跡がなかった。喫ってもいいものなのだろ
うか。逡巡しているあいだも、指には煙草が一本、挟まれる。
「喫わないんですか?」
怜はぎくりと振り返る。受付の女の子か?
「ここ、禁煙じゃないですから」
雨だれはまだ続いていた。怜のすぐ背後には、すらりとした上背の、けれどやたらと色
の白い少女が立っていた。線が細いのは受付の女の子と同じ。が、背後の少女は白磁のよ
うな肌をしていた。少女と呼ぶには多少年が過ぎているかもしれない。けれど、まっすぐ
に怜を向き、しかし視線は怜と彼女の中途を漂っているような表情は無垢で、青年期を向
かえる前の女性独特の雰囲気があった。淡いブルーのカーディガンに腕を通し、ブラウス
はさらに薄い水色。ベージュのフレアスカートをはいていた。看護婦かと思ったが、雰囲
気が違った。少なくとも、<機構>の医療機関に従事する看護婦に、少女のような無垢な瞳
を持ったものはいない。
「ありがとう」
怜は応える。すこし掠れた。空気が乾いている。少女にせかされるようにして、怜は煙
草に火をつけた。そのとき怜は少女から自分の手元に数瞬、視線を外した。そして、深く、
ことさら深く煙を吸い込んだあとに顔を上げると、少女はすでに怜から視線をはずし、そ
して怜からやや離れた長椅子に座った。彼女の横顔には表情がなかった。無垢だけれど、
それだけ。音もなく長椅子に腰掛け、少女は黙って前を向いた。中庭を、萌黄がにぎやか
な春の日差しを、彼女もまた怜と同じように身体いっぱいで受け止めた。
空気は流れず、吐き出した煙草の煙は怜の周りにまとわりつき、日を受けて漂っていた。
煙草を一本じっくり時間をかけて灰にしたが、少女は黙って前を向いたままだった。怜も
また、彼女に声をかけようとは考えなかった。彼女の無言が、やんわりと怜を拒絶してい
た。そう、怜にとって、強すぎる春の日差しがひどく彼自身を屈託させるように。
やがて、廊下の向こうから自分を呼ぶ声が届く。低く、よく届く男性の声。怜は煙草の
余韻が残る灰皿をちらりと見、その向こうの少女に視線をほんのわずか走らせたあと、立
ち上がった。
めまいがした。
寝ていないからだ。
そう思うことにした。
(2004-12-11)