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タンポポとミルクの瓶

 
 窓が開いている。レースのカーテンが揺れている。白い壁、ここにもWHOのポスター、
いつのものなのか、色あせ角は破れている。字は読めなかった。怜は目があまりよくない。
診察用のベッドに、乳白色のパーティション。そしてひときわ怜の目にとまったのは、デ
スクの上の色彩。
 タンポポだった。
 三月に、タンポポが咲く。狂っている。怜の記憶にはない記録がそう叫ぶ。北海道の三
月は、萌黄に包まれていただろうか。一輪のタンポポが怜の視線をとどめる。屈託した思
いとともに。タンポポは一輪、ミルクの瓶に生けられて鮮やかな色彩を放っている。窓か
ら風が吹く。レースのカーテンが揺れる。空気が吹き抜ける。部屋のドアは開けたままだ。
閉じようとした怜を、デスクの前に座った男はやわらかく制した。
「開けておいてください。気にせず」
 怜は声に出しては応えず、そのまま男のはす向かいに鎮座するワークチェアに座った。
男は白衣を着ていたが、下はジーンズだった。強そうな生地につつまれた男の足は細かっ
た。足の上に載る上半身も細かった。白衣はよく糊が効いているようだ。上半身だけが怜
を向き、男は柔和な笑みを浮かべていた。瞬間、怜は少女を思いだす。
 同じだ、と思った。男の目が、あの少女と同じ系統の色をたたえていたからだ。翡翠の
ような、滑らかな眼球。まなざしは澄んでおり、年齢が読めなかった。自分の倍まではい
っていないだろうが、黒々とした髪は整えられ、怜は休職している自分の職場の直属の上
司をふとイメージする。容姿はまるで似ていなかったし、何より目の色が違ったが、髪の
色は同じだった。
「さて、どうしました」
 男は左手にペンを持ち、クリップボードにカルテを挟んで怜に問う。おなじみのセリフ
だな、と思う。
 怜は彼の問いに答える前に、彼から視線をはずしてしまった。紺色に近い彼の目は、近
視気味の怜の目にも、はっきりと色が読めるのだ。遠慮がちな無遠慮で、男は怜の領域へ
やすやすと分け入って来る、そんな色の目。
 空気が流れる。窓から入り、部屋の出口へ。水が流れるように、さらさらと音を立てて。
音の正体は、レースのカーテンだ。まだ午後には少し遠く、しかし朝と呼ぶには遅すぎる。
心地よい空気だった。停留所から歩いて来るあいだは、潮の匂いばかりが気になったが、<
施設>の中は海の気配が感じられない。不思議だった。
「主管の紹介状は読んでいただけたんですか。医療局の」
 怜は口を開く。また声が掠れてしまった。
「読みました。きれいな字だった」
「では、僕が話すことはもうありません」
 怜が言うと、男はペンを左手から放した。クリップボードの上に、一回転、二回転。
「私は稲村といいます。白石さん」
 半身を怜に向けたままで、男は名乗った。医師が名乗る? めずらしいことだ。確かに目
の前の男はネームプレートもIDも身につけていないようだ。
「私だけがあなたの名前を知っているのは、ちょっと不公平ですから」
 そう言って笑った。笑ったようだったが、怜には稲村が泣いたようにも見えた。年齢だ
けではなく、表情もよくわからない。
「今日はいい天気です」
 誰に言うでもなく、稲村。
「外は暖かそうだ。中にこもっているとね、寒くなるんですよ」
「外へは出ないんですか」
「あまり。何もないですからね」
 稲村は目を細める。
「じゃあ」
 怜は腰が落ち着かない。ワークチェアが不安定なのだ。待合室の長椅子同様、ずいぶん
年寄りらしい。
「そのタンポポは?」
 怜は指差すようなことはせず、視線で示す。
「ああ」
 ミルクの空き瓶に、澄んだ水、そしてタンポポ。
「もらい物ですよ。私が摘んだわけでじゃない」
「もう咲いているなんて」
「ええ。……あなたの職業も紹介状に書いてあった。こういうことには敏感ですか」
 クリップボードにはカルテと一緒に、怜が持参した紹介状もはさんであるらしい。稲村
はわずかに目を落とすが、その仕草は少々わざとらしい。
「さあ。敏感なのかどうか」
 声はまだ少し掠れていた。空気が乾燥しているわけではないのに。怜は喉を鳴らす。
「気になるだけです。去年よりも春が来るのが早かったような気がする」
 それは実感だった。三月に雪が消え、芝が萌えるなど、ありえない。
「そうかもしれない」
 稲村はデスクを向いていた下半身も怜に向け、そして首を捻り窓を向く。レースカーテ
ンが揺れている。
「夢を見るんですか?」
 窓から向きなおり、稲村が怜に問うた。紹介状を読んだからか。怜の抱える簡単な症状
が、紹介状に添付された文書には延々と連なっていた。
「それに書いてあるとおりです」
「どんな。よかったら、私にも話して欲しいのですが」
 柔和な表情は変わらない。怜は口を開くのが億劫だった。来るんじゃなかった。そう思
っていた。
「海の夢ですよ。書いてあるとおり」
 両足を捉えて離さない泥濘、浸水した家屋、棄てられた生活の残骸。
「話せば長くなります。だから、それを読んでくれれば」
「あなたの口から、聞かせて欲しいんです。つらいですか」
「正直、思いだしたくない」
「毎晩?」
「毎晩、というか。眠れないですから」
「眠れない」
 稲村の左手が動く。
「正確には、起きているのか眠っているのか、わからない」
「それはいつごろから」
「局の定期健診で異常値が表示されたころは、もうそうなってました。最初は、疲れてい
るだけかと」
「冬が始まる前ですか」
「そこにはそう書かれていますか」
「あなたの感覚では?」
「まだ冬にはなっていなかったような気がします」
 怜は視線を床に落とす。細かな擦り傷だらけだった。この建物が完成してから、どれく
らいの人間がここにこうして座って、たとえば夢の話をしたことだろう。怜はそんなこと
を考えた。
「いまでも眠れませんか」
「寝たような記憶はありません。今朝も。気づいたら朝だった」
「そうですか。なるほど。……クスリは?」
「前の施設でもらっていたものは、三日前に切れました」
「クスリを飲めば、多少は眠れる?」
「眠れますが、……眠りたくない」
「夢を見るから」
 怜は返事をしなかった。そのとおりだ。夢を見るからだ。自分が望まなくても、脳は勝
手に怜をあの底なしの海岸線へと引き戻しにかかるのだ。
「稲村先生」
 顔を上げ、まだ柔和な表情がそのままの稲村に、怜は言う。
「僕の話を聞くより、僕の医療履歴を見たほうが早いですよ。ここには<ターミナル>はな
いんですか」
「見てのとおりですよ。ここには、時代遅れのコンピュータが受付にあるだけでね。私の
愛用品は、いまだに紙とペンだ。それに、私は構成員じゃないのでね。<ターミナル>を見
たことはあっても、操作方法がわからない」
 稲村は自嘲気味に笑った。怜は受付でキーを一心不乱に叩く女の子の姿を見、ここにも<
ターミナル>が存在しているものと思いこんでいた。<機構>の構成員でなくても、アカウン
トを支給されれば、<ターミナル>を構成するネットワークは参照できる。医療機関ならア
カウントはある程度簡単に取得できるはずだし、そもそもIDのカードリーダが設置されて
いるのに、<ターミナル>が存在しないわけはない。<ターミナル>がなくても、ネットワー
ク接続の端末があるはずだ。
「僕のIDはどうやって読み込んだんです」
 だから怜は不審を口にした。
「逆にいうと、あなたのID情報しか読み取れないんですよ。ここでは。だから私は、あな
たの口から、あなたの感じる身体の具合をね、直接聞くしかないんです」
 もっともらしい理由だと怜は思った。だとするなら、この建物は本当に、外界から隔離
されたも同然ということか。そんな場所に、自分は追いやられてしまったということか。
「僕の身体の具合、ですか」
「ええ。あなた自身が感じる、あなたの身体の具合です」
 ふと怜の耳に、かすかな音が届く。風の音でも、空調の音でも、稲村の吐息でも、自分
の心音でもない、別な音。それは旋律だった。誰かが楽器を演奏している音。それも、あ
まり上手ではない演奏の。
「夢を見ないで、僕は眠れればそれでいい」
 つぶやくように言う。稲村はペンを走らせることなく、じっとこちらを向いていた。
「僕は、……世界の終わりが唐突に、僕が気づかないうちに来ればいいと、そう思います」
「世界の、終わりですか」
「……誤解しないでください。僕は厭世感に打ちひしがれてこんな気分になっているわけ
じゃないです。僕の仕事のことも、紹介状には書いてあったはずです」
「わかります」
「僕の仕事は、世界が終わっていく風景を、ただ黙って眺めているような、そんな仕事で
す」
 水平線上の黒い雲、その裾野に広がる雨、防護服を叩く雨滴、ガイガーカウンターの耳
障りな警告音、波間に浮かぶ人形、水に浸かった古いアルバム、鍵が開いたままの誰かの
家。
「仕事だと割り切ればよかった。でもできなかった。寝ても覚めても、いや、言葉のたと
えじゃなくて、本当に寝ても覚めても、僕は世界の終わりについてしか考えられなくなっ
たんです。どうしてかはわからないけど」
 稲村は黙っていた。怜が言葉をとどめると、旋律が割って入った。廊下の向こう、おそ
らくは受付よりも向こうから、音楽は聞こえる。
「突然、解決方法を思いついたんですよ」
 怜。両の手のひらを、気づけば膝の上で強く握っていた。
「世界が終わっていくその過程を見るのが、僕はどうしようもなくつらかった。だったら、
世界を終わらせてしまえばいいのではないかって」
 稲村の背後で、レースのカーテンが揺れている。窓の向こうはよく晴れている。いま何
時だろう。たったいまも、世界は終わりに向けて、ゆっくりと転がり続けている。
「よく晴れていました。あの日。よく覚えています」
 怜は続ける。
「屋上にいたんです。局の。その日はルーティンから外れていて、衛星写真の整理をやっ
ていました。で、煙草を喫いに、屋上へあがったんです。よく晴れていて、でもそんなに
寒くなくて。ああ、あれは冬だったんですね。雪があっただろうか」
 防寒着を一枚羽織ったのは覚えていた。けれど雪があったかどうかは覚えていない。空
の青さばかりが強烈で、その色彩しか怜の記憶になかった。
「海が見えたような気がしたんです」
 環境保健衛生局の建物は、旧市街の真ん中にある。屋上から海が見えるはずはなかった。
けれど、怜には見えた。
「水平線が、ずっと遠くに。最初は空かと思ったんですが、でも違った。それは海だった」
「そのころは、もう海の夢は見るようになっていたんですか」
「……眠れなかったですね」
 怜の腕に冷気が走る。あの日の青空が、よみがえる。
「なんだか、空が降ってくるような気がしました。ライターを落としたのも、くわえてた
煙草が風に飛ばされたのも気づかなくて、僕は、あのとき泣いていました。涙が出てどう
しようもなかった。なんていうのかな、胸の中で何かが爆発したような、そんな気分で」
 稲村は黙ってうなずいた。
「床に転がってました。気づいたら。同僚に羽交い絞めにされて。あとで聞きました。僕
は屋上のフェンスから飛び降りようとしていたそうです。僕はそんなことをしたつもりは
まったくなかったんですけど」
 コンクリートの床が、妙に暖かかったのだけ、覚えている。同僚が何ごとか叫んでいた
が、聞こえなかった。床にころがされ、仰向けになったとき、真っ青な空がまた広がって
いた。
「僕は、世界を終わらせようと思ったんです。できると思った」
「世界……。それは、白石さん」
「僕の世界です。僕が感じる、世界。わかんないですよね」
 膝の上で握った拳は、白く変色していた。感覚がなくなっていた。あの日の記憶を語る
とき、いつも身体の感覚が麻痺してくる。
「終わらせらると思った」
「けれど、終わらなかったんですね?」
 稲村が言い、怜はかすかにうなずいた。
「それっきりですよ。上司の勧めで、というか、ほとんど措置入院みたいな。医療局送り
でした。上はうすうす感じていたみたいです。検診でも異常値が出ていたみたいですから。
僕は知りませんでしたけど」
 稲村は手元の紹介状を見やる。
「で、ここに来ました。僕はどうでもよかった。稲村先生には悪いんですが、僕は眠れな
ければ眠れない、それでよかった。眠らなければ夢も見なかったし、クスリを飲んでも、
そんなに日常は変わらなかった。ひたすら、世界を終わらせることだけを考えてました。
……休職を言い渡されてからは」
「主管とは、顔見知りだったんですか」
「医療局のですか?」
「ええ。ずいぶん親身な言葉が書いてある」
「直属の上司の、さらに直属の上司だっただけらしいですよ。確かに僕には親切にしてく
れましたけど、僕が世界を終わらせる方法の話をしたら、いきなり怒られました」
 稲村は苦笑した。
「稲村先生こそ、主管とは知り合いなんですか」
「顔も知りませんよ。ここはこんな場所だ。医療局に知り合いなんて、私はひとりもいな
い」
「なんだ。僕はてっきり知り合いなのかと」
「いえ」
「だから、ここを紹介されたのかと思いました」
「さあ、私もなぜあなたがここに来ることになったのかはわかりません。……主管には、
なんと言われてここを勧められたんです」
 稲村は笑った。
「世界を終わらせたいなら、世界の淵に建っているような施設があるから、そこでしばら
く考えてきたらどうか、そう言われたんです。……言っていいのかどうかわかりませんけ
ど」
 怜が言うと、稲村はわずかに目を見開き、そして声を上げて、控えめに笑った。
「そうですか。確かにそうかもしれません。ここは、こんな場所です。<ターミナル>の使
い方もわからない人間が、紙とペンで資料を作っているようなところです」
「来るつもりはなかったんですけど」
「ではなぜ?」
「することがなかったから。主管に紹介状を渡されて、IDも抹消されず、没収されると思
っていた<ターミナル>もそのままで、だらだらと日常が、仕事を奪われた状態で続いてい
たから、電車に乗ったんです」
 それは怜の本音だった。自室にこもっていてもすることがなかった。ブラインドを昼日
中おろしたまま、布団にくるまって眠れぬ日々を過ごしていた。上が怜に休職を言い渡し、
<ターミナル>の機能制限が加えられてからしばらくして、あの主管から紹介状が届いたの
だ。端末経由ではなく、郵便で。彼の診察室で聞かされた、「世界の淵に建っている建物」
という言葉が気になったのかもしれない。<ターミナル>の機能制限には、構成員個人への
トラッキングも含まれていたから、怜は今朝、紹介状を手に電車に乗ったまでだ。どうし
てここへ来る気になったのかはわからない。自分でも。来るつもりがなかったというのは
本当だった。プラットホームに立ったとき、うち捨てられたような気分になったのも、本
当だった。自分の気持ちがよく分からなかった。世界を終わらせたい、その願望もまだ、
生々しく胸の内にあった。
「世界の淵に建っているように見えましたか」
 稲村が訊いた。
 怜は逡巡した。
 タンポポが穏やかで暖かい風に、かすかに花弁を震わせた。
「いえ、……僕が知っている世界と、まだつながっているような気がします。まだ先が見
えるような気が」
「どこからどこまでが世界なのか、あなた自身が確認してください。……話ができてよか
った。今日はこのへんにしておきましょう。処方箋を出します。受付に声をかけてくださ
い。奥に薬局がありますから。待合室に戻って待っていてください」
 稲村はすばやくペンを走らせると、怜を向き、そしてまた微笑んだ。ずっと昔に習った、
故郷の初等科の教師に稲村はなんとなく似ていると、怜は思った。席を立ち、稲村に一礼
した。退室するとき、稲村は扉を開けたままにするように怜に言い、怜はそれに従った。
 廊下に出ると、まだ音楽が聞こえていた。



(2004-12-14)



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