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飛べない翼 @

 
 プラットホームから降り、指先に触れた線路は、空を映して青かった。信じられないく
らい青かった。ところどころ流れる雲も見えた。レールは鏡のようだ。そしてその青は、
真冬の夜にふと窓の外に見える、青く水の底のように沈む風景を思い起こさせた。過ぎた
季節が、線路の上に見えたのだ。
カバンの中が暖かい。駅前の売店で買った挽き肉詰め揚げパンは、まだ暖かかった。い
つ食べようか。列車が来たら、席に座って、この青い空を眺めながら食べよう。けれど、
いくら待っても列車はやってこなかった。
 よく晴れた日。埃っぽい道路を渡って、このちっぽけな駅の改札を抜けようとしたとき、
ふと鼻をくすぐる香ばしさに足を止めた。狭い通りをはさんで向かい側に、駅に負けない
くらいに小さな売店があって、店先には挽き肉詰め揚げパンがいま揚がったばかりだった。
どうやったらそこまで焼けるのか、浅黒い顔をした店主がじっとこちらを見ていて、歩み
寄ると、揚がったばかりのパンを少しだけちぎって渡してくれた。おいしかった。
 道端でタンポポが黄色く花を広げ、大地はいいだけ膿んでいた。冬が長かった分、まだ
季節が移ろいだことを信じられないでいた。もしかしたら、ラジオの気象通報を無視して、
今夜には冷たい雨が雪にまた変わるのではないか、そう疑ってもいた。けれど、挽き肉詰
め揚げパンをかじって空を見上げると、それはもう、春の色そのもので、やはり季節は移
ろい、やがて来る冬に向かって、また時間が動き始めたのだと実感した。
 ポケットの中からコインを数え、家までのバス代を差っぴいて、それでも揚げパンを二
つ買うだけの余力があったから、浅黒い顔の店主に代金を渡して、パンを買った。茶色い
紙袋に包んでもらい、カバンにしまった。春とはいえまだ肌寒い。揚げパンはいい懐炉に
なった。
 カバンを抱えて通りを渡る。モスグリーンのトラックが一台過ぎる。荷台に自動小銃を
抱えた兵士が三人乗っていて、一人は居眠り、残り二人は冗談でも言いあっているのか白
い歯を見せていた。まきあげられた埃が目に飛び込んで痛かった。
 プラットホームに出ると、上りにも下りにも列車はいなかった。ここは本線から外れた
支線の、さらに通過駅に過ぎない場所だった。間近に大きな街があることは知っていたが、
そこまで行く用事がない。通っている学校の最寄り駅は、ここなのだ。そして、この駅は
自宅のある町へと線路が分岐する駅だった。
 プラットホームから、一直線に伸びる線路が見える。膿んだ大地を突っ切るようにして、
レールは真っ青な空を映していた。プラットホームに落ちる自分の影はやや伸びていて、
あと半時間もすれば日差しが目に見えて青さを失い、やがて暮れていくのだ。地平線に向
かって伸びていく線路を見ていると、涙が出そうになった。風かなかったが、それでも空
気は冷たかった。黒々とした針葉樹の森が見える。さらにその向こう、いつもなら、うっ
すらとディーゼルエンジンの排気がたなびき、列車の気配が線路を伝ってくるはずなのだ
が、きょうはそれがなかった。
 国鉄職員である駅員はあくびをかみ殺そうともせず、奥歯までを傾きかけた太陽にさら
していた。だからプラットホームから降りたことにも、彼は気づかなかったに違いない。
指先に驚くほどの冷たさを感じたあと、線路を歩きはじめた。駅の時計では、午後三時。
 枕木の上を飛び石を渡るように歩いていたが、やがて疲れてしまった。平均台の上を進
むように、線路の上を歩いたが、冬靴では滑る。砂利を蹴飛ばすように、やや早足で歩い
た。列車を待つより、歩きたかった。
 駅構内で複線だった線路は、転轍機を過ぎてすぐ単線になる。そして線路伝いに、あっ
という間に町を抜けてしまった。町といっても、ささやかなものだ。本線の駅があるあの
大きな街にくっついて、いわば衛星のように点在する集落のひとつに過ぎないのだ。だか
ら線路の上を走る列車の本数も、たかが知れていた。こうやって歩いていても、列車が来
ればすぐにわかる。なにしろ線路は果てしないほどに直線なのだ。線路の両側は、荒地と
も湿地ともつかない草原で、今の時期だからこうやって歩こうと思っただけだ。夏になっ
たらここは蚊の巣窟になってしまう。とてものんびり景色を楽しみながら歩くことなどで
きない。
 地平線を、まだ見たことがなかった。このあたりは、ひたすら平らだったが、人家や針
葉樹林の森が邪魔をして、地平線は見えない。どこまで平らなのかを確かめたことはない
が、少なくとも北へ向かう限り、そう、北極海まできっとこのままどこまでもまっ平らな
のだろう。学校でもらった地図には、学校のある町から海まで、山らしい山がまったくな
かった。が、線路をこうして歩いていると、樹林を切り開くように続く線路の果てが、空
に溶け込んでいるのがわかる。もしかすると、あれを地平線というのかもしれない。
 線路がこのままどこへ続いているのか、列車の速度で十分とか、二十分という未来の話
でよければ知っている。線路はこの先、大きな川を渡る。川幅はどれくらいあるだろう。
雪解けの今時期であれば、きっと優に五キロはあるはずだ。線路はそこを鉄橋で越える。
もちろんこのまま列車に乗らず、鉄橋を歩いて渡る気にはならなかった。それはいくらな
んでも無謀というものだ。次の駅まではあと二十分も歩けば着くはずだ。そこでパンをか
じろう。そのうち列車はやってくるに違いない。気づけば日は傾き、空はあの青さを保っ
たままで、さらに色が濃くなっていた。どちらが西で、どちらが東か、そんなことはわか
っている。太陽が傾く方向がほぼ西であり、線路が伸びる方向は東なのだ。枕木に、砂利
に、自分の影が落ちて伸びていた。振り向いても、もう集落は見えなかった。一時間も歩
いていないはずだが、周囲には自分以外に誰もいない。線路と併走している道路は、とこ
ろどころにクレーターのように水溜りが見えるが、過ぎる車もない。先ほどの軍のトラッ
クは、兵士たちはどこで何をやっているのだろう。やがて左手にちょっとした沼地が見え
る。見慣れた風景だ。もうすぐ、名前も覚えていない駅に着く。
 プラットホームは板張りだった。駅というよりは、停留所。くしゃみでもすれば吹き飛
んでしまいそうな待合室の壁に時刻表が貼ってあるが、残念ながら時計がない。もっとも、
列車がいつまでたってもやってこないということは、時刻表もまたあてにならないという
ことだ。待合室の中には小さなベンチがあったから、そこに腰掛けて、揚げパンをかじっ
た。まだ暖かかった。
 ふと考える。この停留所を、誰が利用しているのだろう。周りは湖沼と針葉樹と、そし
てどこへ向かうのかさっぱりわからない未舗装の道路が延びているだけで、人家がなかっ
た。あるいは誰かが昔ここに住んでいたのだろうか。それにしても不思議に思うのは、こ
の停留所もまた、転轍機を介して線路が上下線に分かれており、今自分が腰掛けているプ
ラットホームの向かい側の線路には、ホームがないのだ。背後は針葉樹林で、その木々の
色に合わせたような、ダークグリーンの大きなタンクが二つ、並んで立っていた。列車が
ここで燃料を入れるのだろうか。けれど、今まで一度もそんな姿をここで見たことはなか
った。いつも車窓から眺めている風景だが、いざ止まって眺めると、気になった。タンク
の中が燃料なのか水なのか、気になった。反対側の線路にどんな列車が止まるのか、気に
なった。
 二個の揚げパンは、ぼんやりとタンクを眺めているうちになくなった。おいしかった。
揚げパンを包んでいた紙袋は丸めてまたカバンの中に戻した。日差しはもうかなり傾いて
いた。日の入りは何時だったろう。これからしばらく、夏至の日まで、ひたすら日暮れの
時間が遅くなっていく。夏至の日になれば、一日の大半は日が沈まず、景気よく飛び回る
かに悩まされながら、足早に通り過ぎようとする夏をいやでも実感しなくてはならない。
自分は夏と冬、どちらが好きなんだろう。確実に言えることは、冬の方が圧倒的に厳しく、
そして美しいということだった。好き嫌いはもちろん別にして。
 線路が鳴っていた。いつから軋んでいたのか覚えていない。歩いてきた方向、ディーゼ
ルエンジンの排気がたなびいていた。列車が来た。ずいぶん待たされた。ポケットの中に
切符を確かめて、待合室を出、プラットホームに立った。乗降がなければ駅をすっ飛ばさ
れるかもしれない。そんなことはないと思いながらも、ことさら自分の姿が目立つよう、
ホームの端に立ち、じっと機関車を見つめた。列車は緩やかにブレーキをかけ、停留所に
滑りこんでくると、最後少々乱雑に金切り声を車輪からほとばしらせて、停止した。車内
はガラガラだった。この列車に乗って行こうという人間が少ないのだ、当たり前だ。ひそ
かに指定席にしている、向かって左側の窓際に落ち着くと、すぐに列車は動き出した。目
の前にあのタンクが見えた。その下の線路はさびだらけで、しばらく列車が走っていない
ことを思わせた。ますます気になった。どんな列車がタンクの横で止まるのだろう、と。
 列車は速度を上げていく。あっという間に鉄橋にさしかかる。川面を氷の塊が流れてい
くようなことはもうなくなった。五月。ようやく、春らしくなった。翡翠のような色をし
た水は、満々とした量感を誇って、ゆったりと北へ向かって流れていく。海まで、どれく
らいの距離があるのだろう。海岸に面した町へ、定期船も出ているという。乗ってみたか
った。まだ、船には乗ったことがなかったからだ。そして、まぶたが重くなる。海岸の町
に思いをはせるからではないと思う。なぜかいつも、鉄橋の真ん中あたりで眠くなる。そ
れは、のっぺりとした川面を眺めているからで、まるで列車が止まっているように感じる
ほどに速度感もなくようするに退屈だから、そう自分では思うことにしていた。だから、
目を閉じた。次に目が覚めるとき、そこが自分の町だ。自分が眠っている間に、列車は転
轍機を過ぎて、支線からさらに支線へと、地図に載っていない線路を走るのだ。地図に載
っていない、自分の町へ向かって。

 転轍機の向こうをのぞいてみたいと思っていた。鉄橋の手前のあの駅から分岐する、錆
色の線路の先を。アパートの五階、自宅の窓からは暮れる大地が見渡せた。視界の端に再
処理工場の煙突も見えたが、他にはさえぎるものが何もない。望遠鏡が欲しいと思った。
望遠鏡があれば、あの転轍機の向こうが見えるかもしれないと思ったからだ。きっと見え
る。それにしても寒い。窓際のスチームのバルブは開いてあった。それでも寒い。もしか
するとすでにボイラーの火を落とされたのかもしれない。燃料事情に困るはずのないこの
町で、しかし公団はひどくけちだった。五階のこの部屋まで、エレベータもないのだ。
 窓辺に頬杖をついていた。ガラスが汚れていた。長い冬のあいだに吹きつけた雪の音を
思いだす。吹雪の夜、いつ明けるともしれない長い夜、スチームの熱を感じながら、やは
り窓の外を眺めることがあった。街路灯が吹雪ににじみ、風はいつまでも窓を鳴らし続け
た。そんな夜は、世界に一人、取り残されたような気分になった。隣室に両親がいるはず
なのに、自分はたった一人……。
 空を見上げるとき、飛びたいと思う。それは漠然とした願望で、風上に向かって翼を広
げる鳥のように、目的もなく、飛ぶことそのものが目的だというように、たた、飛んでみ
たいと思った。
 冷気が足もとから上ってくる。日暮れにはまだ時間がある。街路灯はまだ灯らない。少
し寒いが、防寒着を着るほどでもない。思いたち、頬杖をついていた窓辺を離れる。両親
はまだ留守で、とりわけ最近父親の顔を見た記憶がなかった。三交代制の勤務につく父親
は、ときに母や自分と昼夜が逆転する生活をしている。最後に父の背中を見たのはいつだ
ったろうか。玄関を飛び出し、階段を駆け下りる。一段飛ばしに階段を駆け下り、外に出
ると砂利敷きの通用路もまた膿んでいた。気温は下がっているが、もう凍ることもないだ
ろう。確かに今はもう春なのだ。
 空は茜色だった。一瞬立ち止まり、そして空を仰ぐ。雲が流れる。ゆっくりと、形を変
えて。
 第二当直のために出勤する男たちが歩くのを追い越す。通用路からコンクリート敷きの
大通りへ。よく整備された街路に、ちょうどよくバスがきた。コートのポケットのコイン
を数え、駆けた。停留所まで、バスと競走だ。運転手がちらり、こちらを向く。見知った
顔ではなかった。狭くもないが閉じたこの町では、どこかここかで顔見知りと出会うこと
が多い。それはバスの運転手であったり、マーケットのレジ係であったり、再処理工場の
運転員であったり、同級生だったり。けれど今は、バスのステップを上り席に転がり込む
まで、顔見知りとは出会わなかった。
 バスの窓もひどく汚れていた。窓だけではない、車体も床もくすんでいた。雪解けの季
節、町も人もバスも列車もみんなくすんで見える。暖かい雨が数回降れば、こんな埃は流
されてしまう。緑雨が待ち遠しい。
 バスは大通りを進む。窓からは第一当直が明けた作業員たちが列を作って歩いていた。
マーケット帰りか、かごに野菜を詰め込んだ女性が歩いていた。立ち並ぶ高層住宅の向こ
うに再処理工場と発電所の煙突が見えた。煙は白い。航空衝突灯が赤く明滅していた。ま
だ暮れる時間には早い。電柱が、街路が影を伸ばしていたが、太陽はまだゆったりと地面
の上に浮かんでいた。
 盛大に埃を巻き上げながら走るバスは、やがて車体を大きく揺らして町を出る。やはり
地図に載っていない国道と合流し、道路わきの検問所では自動小銃を抱えた若い兵士が微
動だにせず虚空を睨んでいた。エンジン音がひときわ大きくなり、防風林のような樹林帯
を道路は突っ切る。そして十分ほど走ると、バスは河岸沿いに出る。鉄橋は見えないが、
あの川だ。乳白色は雪解け水で、川面は夕日に染まり、波頭が金色に輝いていた。バスの
フロントガラス上に時計。午後五時。まだ日は暮れない。バスの中は暖房が効いていた。
硬い座席。けれど、暖気は眠くなる。眠ってしまえば、このバスは川を越え、あの挽き肉
詰めパンを買った駅前よりさらに遠くの町まで行ってしまう。眠ってはいけない。しかし、
心地よい振動が、眠気を誘った。

 風上に向かって飛ぶ鳥は、いったい何を見て翼を広げているのだろう。いつも気になっ
ていた。鳥の目には表情がない。表情のないその目は、何を見つめているのだろう。いつ
も気になっていた。鳥になりたいとは思わなかった。ただ、鳥のように空を飛んでみたい
と思っていただけだ。鳥は好きではなかった。そう、目が怖かったからだ。
 廃業してかなりの時間が経過したものと思われる雑貨店の前で、バスを下りた。午後五
時三十分。ここからはもう再処理工場の煙突も、防風林も高層住宅も何も見えない。見え
るのは荒地。果てしない荒地だった。バスの排気ガスがまだそこかしこに漂っている。さ
して広くもない農道で、反対車線の停留所標識まではたったの数歩。帰りのバスの時間を
なんとなく確かめた。次のバスは一時間後。今乗ってきたバスが引き返してくるだけの話。
日はまだある。これから夏至まで、夜はどんどん遠ざかるのだ。
 農道を歩く。農道と並行してフェンスが続く。フェンスの向こうに何があるのか、なん
となく知っていた。今向かっている場所に、フェンスの向こうに広がる施設を示唆するよ
うな、確かな手がかりがあるからだ。それを見て、フェンスが何を守ろうとしているのか
も知った。
 農道を外れる。獣道のような、人一人がようやく歩けるような道が、背の低い茂みの中
を、フェンス沿いに続く。ここの地面も膿んでいた。膿んではいたが、足もとをとられる
ほどにはぬかるんでいなかった。振りかえると草の海。今はまだ枯れているが、夏になれ
ば本当にここは緑の海になる。何度も足を運ぶうち、変わり行く季節と吹きぬける風にも
なじんできた。ここは自分だけの場所だった。
 やがてフェンスが途切れる場所に出る。そこからフェンスの向こう側へ抜ける。やはり
獣道が続く。平坦な道だが、バスを降りてからもう二十分はたっただろう。帰りのバスに
は間に合わないかもしれない。ならば次のバスを待てばいい。最終バスに乗れれば、大丈
夫だ。これまで最終バスを逃したことはない。
 一本に続く獣道が左に大きく曲がる。すると茂みの向こうにそれが見えてくる。
 灰白色。夕日を浴びていまは乳白色に見える。獣道をそれて茂みを進む。本体が大きく
見える。同じ灰白色の大きな胴体、尖ったくちばしのようなそれは半分茂みに沈んでいる。
 飛行機。
 たどりついたそこには、一機の飛行機がうずくまっていた。
 空に向かって高くそびえるのは、二枚の垂直尾翼で、茂みに沈み込んでいるのはレドー
ム。左の主翼は茂みの中に、右の主翼は空に向かって傾いていた。乾いた草を踏むと、あ
の挽き肉詰めパンの包み紙を丸めたときのような音がする。歩を進め、飛行機に近寄る。
人が作った、翼。
 鳥でいうなら首の部分にあたるあたり、ちょうど飛行機の機首が、自分の頭の高さにあ
る。手で触れる。冷たい。ステンシルで書きこまれた機番は掠れていたが、読み取ること
ができた。キャノピーは閉じていた。傾いた左の主翼から機体によじ登る。登るとわかる。
大きい。バランスをとりながらゆっくりと背中を歩き、キャノピーまで。汚れ、傷だらけ
のキャノピーからはコクピットの中はうかがいにくい。そっと腰を下ろす。そしてあたり
を見渡すのだ。
 草の海。飛行機というより、草の海に乗り出そうとしている船のようだと、いつも思う。
草の海の上にはまだ、オレンジ色の太陽がぼんやりと浮かんでいる。沈む寸前。吹く風に
耳が痛い。髪が舞う。機体の背中にまたがり、キャノピーに腹ばいになる。コートの中で
コインが鳴った。ずっと向こうに、バスを降りた停留所が見えた。あの雑貨店も見えた。
反対側に首を回すと、農道よりずっとずっと向こうに、なだらかな丘陵と針葉樹林の森が
黒い。ここは滑走路のはずれなのだ。フェンスで囲まれているのは、飛行場。
 ここを見つけたのは、ほんの偶然だった。
 画材を買うために街へ出ようと、列車ではなくバスに乗った。短い夏の、ある日だった。
緑の絵の具がなくなった。学校のない日。だから列車ではなくて、バスに乗ったのだ。視
線の分岐があるあの小さな駅のある町ではなく、本線の駅がある鉄橋の向こうの街へ行く
ために。その途中、草の海の中にこの垂直尾翼を見たのだ。緑の海の中に、まるで何かの
背びれのように、灰白色の二枚の垂直尾翼が目にとまったのだ。そして雑貨店の前の停留
所でバスを降り、獣道をしばらく歩いてここにたどりついた。ひと目で飛行機だとわかっ
た。飛べなくなった鳥は足を折っていた。前輪が深く土に埋まり、折れていた。いつか回
収されてしまうのではないかと思っていたが、一冬越した春の日の今もまだ、こうしてこ
こに捨てられたまま。青い空を怖がって飛べない雛鳥のようだと、思う。
 日が暮れる。
 草の海に浮かぶ飛行機。
 絵になるような気がした。でも、どう描いていいのだろう。
 静かだった。飛行機があるということは、滑走路があるということは、ここは飛行場な
のだ。が、いままで一度として飛行機が飛んでいる姿を見たことがなかった。不思議な場
所だった。思えばここもまた、政府発行の地図には載っていない。不思議だった。
 暮れる草の海を黙って眺めていた。時間を忘れていた。時計を持っていなかったし、な
により春分を過ぎた日はあくびが出るほどゆったりと沈もうとしている。鳥の声も聞こえ
ず、自分が身体を預ける飛べなくなったこの鳥も、一声すら発しようとしなかった。だか
ら、いきなり呼ばれたとき、飛び上がるほどに驚いた。
「こんなところで何してるんだ?」
 若い男の声だった。呼ばれてしばらく、声のした方を向けなかった。ここはフェンスで
囲われた内側なのだ。
「聞こえないのか」
 聞こえている。振り向けないだけだ。
「何やってるんだ」
 おそるおそる呼びかける声の方を向く。声の印象どおりの若い男が、左の主翼の付け根
の脇に立っている。
「降りてこい」
 目が合った。彼は青い目をしていた。声に従い、キャノピーから身体を起こし、そっと
立ち上がって機体の背を主翼へと進む。男はその様子をじっと表情なく眺めている。わざ
とゆっくりと時間をかけて地面に降りると、男は背が高かった。
「何やってるんだ。こんなところで」
 言葉の内容と違い、とがめるような声音ではなかった。少し意外だった。
「飛びたいって、思ったから」
 答える。飛びたい。確かにそうは思う。けれどきっと飛べない。わかってる。
「飛びたい?」
「うん」
「これでか」
「うん」
「これがなんだか、わかってるのか」
 男は平手で主翼を勢いよく叩く。
「飛行機」
「見たままだな。そうだ。これは飛行機だ。確かにね」
「飛べないの?」
「見たままだ。壊れてる。飛べない」
 言うと男は口を奇妙にゆがませた。どうやら笑っているらしい。
「あなた、パイロット、なの?」
 訊いてみた。
「俺のことか」
「うん」
「見たままだ。壊れてる。飛べない」
 男は言うとゲラゲラと笑った。言葉どおり、何かが壊れたような笑い。声が草原にこぼ
れ落ち、広がっていく。
「君は」
「えっ?」
「君は誰だ」
 詰問調。けれど鋭くない声音。
「名前を、訊いてるの?」
「じゃあ名前を言ってくれ」
「わたしは、……ユーリ」
 言うと、男は一瞬黙り、そして次にははじけたように笑った。
「何がおかしいの?」
「君は、女の子だろう?」
 うなずく。
「うそは困る。本名を言えよ」
「ユーリ」
「男の名前だ、それは」
「本当だよ」
「そうか。じゃあ俺はエースだ」
「エース?」
「エースパイロットのエースだ」
 そう言うと、男はまた大きな声ではじけるように笑う。男の吐息はアルコールくさかっ
た。まだ日も暮れない時間からこんな匂いをさせている。ユーリの住む町でも同じ匂いの
する男たちとよくすれ違う。だから、彼が何を飲んで酩酊しているのかもわかった。
「あなたは、パイロットじゃない」
 ユーリ。
「どうしてだ」
「そんなに酔っ払っていて、空が飛べるの?」
「俺が、酔ってるって?」
「匂いが、すごいもの」
 ユーリが言うと、男は両手を口の前にかざし、短く息を吐き出した。
「俺には感じない。ということは、酔っていないってことだ」
 男はいくつくらいだろうか。両親よりははるかに年下。けれど、高等科に通っている隣
家のお姉さんよりはずっと年上に見える。
「飛べるんだったら」
 ユーリは男の脇をすり抜け、伸ばされたままのボーディングラダーを駆け上がり、キャ
ノピーにまたがった。
「おい」
「飛べるんだったら、飛ばしてよ、これを」
 男は夕日に髪を紅く染め、ユーリを見上げる。まぶしげな目。
「降りてこいよ」
「飛ばしてよ」
「無理だ……。壊れてる」
「あなたも」
「俺は、壊れてない」
「さっきは壊れているって」
「そんなこと言ったか」
「言った」
「言ってない」
「言った」
「俺のどこが壊れているっていうんだ?」
 男は、エースと自称した彼は、わずかな憤りをウオトカくさい息に混ぜて吐き出す。
「じゃあ、飛ばしてよ」
 キャノピーはレールからかすかに浮いている。シル・ロックは解除されているが、ユー
リの力では開くことなどできない。それに、隙間から見えるコクピットは、ひどく汚れて
いた。枯葉、土くれ、埃、いろいろ。
「だから」
 エースはボーディングラダーに手をかけた。
「壊れているんだって」
 右足もラダーに乗せたが、次の左足が続かない。バランスを崩して、エースは草むらに
転がった。大丈夫? でかかった言葉をユーリは飲み込む。違う。この人がパイロット? 街
角で酔いつぶれている労働者たちとどこが違うの?
「降りてこい」
 フライトジャケットについた汚れを乱雑に払いながら、エースは立ち上がる。が、ふら
つく。コクピット横に伸びるカナード翼に危うく頭をうちつけそうになるが、すんでのと
ころでかわす。勢い、またバランスを失い、転がる。
「飛ばしてよ」
 飛ぶわけがないとユーリは自身でもよく分かっていた。脚を折った飛行機、そして、酔
っ払いのパイロット。飛ぶわけがない。
「無理だ」
 しぼりだすようにしてつぶやいたエースの言葉は、確かにユーリの耳に届いた。苦しげ
な、アルコールの酔いとはまた違う、息苦しさをにじませて。
「遊覧飛行ならよそへ頼むんだな。ここには、一人乗りの飛行機しかないんだ」
 もしかすると、それはエースのせいいっぱいの強がりだったのかもしれない。けれど、
ユーリは彼の言葉に素直ではなかった。
「この飛行機の、後ろに乗せて」
 言うと、エースはじっとユーリを見上げた。
「この飛行機は二人乗りでしょ。後ろに乗せてよ」
 ユーリが夏の日に見つけた脚を折った飛行機は、一人乗りではなかった。曇ったキャノ
ピーの中には、タンデム配置された座席が見える。そう、この飛行機は二人乗りだ。
 エースの顔を染めていた夕日がいつしかなくなっていた。日が暮れた。天蓋を染めた紅
は、東からゆっくりと青く移ろいでいく。気温も下がっている。ユーリは寒かった。震え
がきた。が、エースは黙ってユーリを見上げていた。酔っているようだが、眼光は鋭かっ
た。ふとユーリは、彼の目に空の色を見た。確かに彼は、かつてはその目にはるか高空の、
宇宙と地上の境目を垣間見たのだろう。それを思わせるような目だった。深い色。エース
の目は、深い紺色をしていた。ユーリは、まだ見たこともない、想像もできない、成層圏
の空の色を想う。どんな色なんだろう。どんな絵の具をパレットに溶けばいいのだろう。
 寒かった。キャノピーが冷たい。
「無理だ。……壊れてる。飛べないよ」
 低く、エースがつぶやいた。


(2004-12-25)





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