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Absolute life

 
 チナミが朝食の席でハンバーグがまずいとひとしきり文句を垂れたあと、イライのテー
ブルにそっと近寄り、妙な目配せをした。
「なんだ」
 イライはスライスされたトマトをかじっていた最中だった。チナミが文句をいうほどに、
ハンバーグはまずいと思わなかった。
「K781がアツマの西で残骸を見つけたそうだ」
 それが何を意味するのか、イライはトマトをかじるのをやめた。
「間違いないのか」
「キリウが言っていた。間違いないだろう」
 チナミはまずいまずいと文句を言ったわりに、すべてを平らげた朝食のトレイを持った
まま、平淡につぶやいた。
「GC-8に間違いなかったのか」
「六翔プロペラが牧草地に転がっていたそうだ。機体は黒焦げだったらしい」
「写真偵察を敢行したのか」
 K781は友軍が保有する双発、俊足の偵察機で、最高速度に達すれば、ノスリでも追いつ
けない。ただ、その分高高度を飛行する。光学レンズで目標を確認、撮影し、機銃は積ん
でいない。偵察機にとって武装はデッドウェイトだからだ。その分軽く、速い。そして、
六翔プロペラを採用している戦闘機は、GC-8「ノスリ」だけだった。
「写真まで撮ったかどうかは知らん。撮ったのかもしれん。キリウは見たかもしれないが、
俺は見ていない。ただ、残骸は確認されたそうだ」
 チナミはトレイをイライの向かいに置き、そして自分も腰掛けた。
「場所は間違いないんだろう?」
「機密だ」
「味方相手にか」
「キリウに言われた」
「純粋培養組の肩を持つとは、大尉らしくもない」
 チナミは笑いもせず、胸ポケットから煙草を一本抜き、イライに断りもせず火をつけた。
「肩を持っているわけじゃない。規律の話をしているだけだ」
「ますます可笑しな話だ」
 チナミの喫う煙草は煙が濃い。積乱雲のようだ。あのアラート勤務以来、空は重く鈍く、
雲底は低いままだった。
「パラシュートでも見つかったのか」
 イライはふたたびトマトをかじった。基地のあるこの区域では、もはやとうの昔に旬を
過ぎた野菜だった。コヤチダ本線経由で、南の海峡を越えて運ばれて来たか。
「さあ。そこまでは俺も訊けなかったし、キリウも何も言わなかったよ」
 チナミにはことさらじっくり時間をかけて煙草を喫っていた。イライはトマトを食べつ
くし、キャベツの千切りを目いっぱい口に放り込む。右手でミルクがたっぷり注がれたグ
ラスを手繰り、一気に半分ほど飲んだ。
「救難機は入海を越えられない」
 イライはキリウとの会話を思いだす。
「救難機ではなく、偵察機を飛ばすとはな。どこから飛んだんだ」
「大方、チップの偵察航空隊あたりからだろう。中立地域まで飛べる偵察機は、あそこに
しかいない」
 チナミはずっと表情を変えない。真夏の油照りの空のような瞳を、じっとイライに向け
たまま、煙草を喫った。
「訊いていいか」
 煙草を喫うチナミに、ミルクのグラスを空けてから、イライが言う。
「なんだ」
「なぜキリウと話をした」
 こんな朝っぱらから。それは言わなかった。
「セムラと俺が飛ぶからだ」
「飛行割りには載ってなかった気がするが」
「急遽決まった。一時間後、飛ぶ」
「セムラと、お前とでか」
「そうだ。二機だ」
「どこへ。まさか中立地域ではないだろう」
 セムラが足かせになるもんな。お前が首をたてに振るはずもない。思ったが言わなかっ
た。
「帰って来たら教えてやるよ」
 チナミは煙草を根元まで灰にすると立ち上がり、隣のテーブルから灰皿を取り上げて、
そこにもみ消した。灰皿はくすぶる吸殻を載せたまま、イライの前に置かれた。チナミ流
の気遣いかもしれない。だが食後すぐにイライは煙草を喫わない。同僚の癖を、ここでも
やはりお互いに知らないのだ。
 イライはチナミが去ったあともなお、彼が残した積乱雲の切れ端が食堂の空気に漂うの
を眺めていた。その向こうから敵機が飛んでくるような気がした。もはや、病気だ。
 食堂にハスミの姿をなんとなく首をめぐらせて探してみたが、すでに食事を終えたか、
さもなければ非番と決め込んで部屋で寝ているか、どちらかだ。彼の姿はなかった。
 イライはトレイを返却口に戻すと、待機所に入った。煙の層がいつもより薄かった。パ
イロットの数が少ない。今日は何曜日だったか。壁のカレンダーを見やったが、そもそも
今日が何月の何日なのか、イライはすぐに思い出せなかった。当日の気象条件ならそらで
言える。けれど、カレンダーがわからない。これも病気だ。
 気象隊の予報では、北の海峡から張り出している低気圧の影響がまだ消えず、ここ数日
続いている空模様は変化の兆しがないという。うんざりだ。飛行割りを見たが、向こう三
日は自分のローテーションが回ってこない。タグサリ機が撃墜されて以降、中立地域へ戦
闘機が飛び立つことはなくなっていた。おそらく、ハスミが「ミサゴ」と呼んだあの敵機
の存在があるからだ。飛行隊全部の戦闘機が相手になれば、いい勝負かもしれない。が、
中立地域上空でそんな派手な行動には意味がない。幕僚監部も了解しないに違いない。そ
うでなくても、三ヶ月前に四機の戦闘機を無謀とも言える中立地域への飛行で失っている
のだ。タグサリ機に続いてたとえばチナミやセムラが撃墜されでもしたら、キリウはおろ
か、飛行隊長のレンダまで、北海の孤島のレーダーサイト勤務か、さもなければ、前線基
地とぜんぜん基地を結ぶ連絡便パイロットにでも転属になるだろう。彼らは勇敢だったが、
愚かではなかったはずだ。
 イライは待機所の指定席につき、だまって羽音を聞いていた。チナミとセムラのGC-8、
ノスリがランナップ中だった。エンジンはもう暖気を終え、パイロットを待っていた。も
てる限りの技術を投入して設計された排気タービン搭載の大出力エンジンが、いまはおと
なしくアイドリングをしていた。六枚の可変ピッチプロペラが穏やかに回転していた。そ
してイライは彼らの戦闘機の主翼に視線を移す。左右の主翼にそれぞれ一本ずつ、増槽タ
ンクを下げている。あの日と同じだ。あの小春日和、タグサリと自分は、主翼に増槽を下
げ、針路を南へ取ったのだ。
 まさか。
 イライはいぶかしむ。ここの幹部連中がおろかではないといっても、限度を越えている
のかもしれない。よもや、ふたたび中立地域への哨戒飛行でもするつもりか。装備はまっ
たく同じに見えた。加えて酸素ボトルの数でもわかれば、彼らの任務が何であるか、イラ
イでなくとも想像はつくだろう。
 いや。
 イライは待機所の入り口のラックから引っ張り出してきた雑誌を広げる。釣りの本だっ
た。イライは釣りなどやったことがない。幼い日、仲間たちと川で遊んだことはあっても、
この雑誌に載っているような、きらびやかなアクセサリーのような仕掛けを施した釣竿な
ど持ったこともなかった。雑誌に落としていた視線を上げる。パイロット二人が機体に乗
り込もうとしていた。セムラもチナミも、いつもどおり落ち付いていた。死地に赴くよう
な雰囲気ではない。やはり違う。中立地域への哨戒飛行などではない。イライは判断した。
だが、次に続かない。では彼らは一体どこへ向かうのか。
 やがて、二機のノスリは羽音を高め、エプロンから出て行く。吹流しは東へ向かって流
れていた。だから、彼らは西へ向かって離陸する。陽射しを背に受け、離陸する。轟音を
とどろかせて、チナミとセムラは見事なフォーメーション・テイクオフだった。セムラも
上達したものだ。アイズならああは行かないだろう。
 イライは思う。
 一度、自分の飛んでいる姿を、地上から見上げてみたい、と。

 午後、森の中は薄暗かった。また降りはじめた雨はほとんど霧雨に近く、基地周辺はぼ
んやりとした霞に包まれていた。革のジャンパーを着込み、イライは森の中にいた。この
あたりはまだ標高が低い分、緯度のわりに広葉樹が多い。が、広葉樹は秋になれば色づき、
その次にはみな散ってしまう。霧雨が頬や髪やジャンパーにまとわり付く。顔を上げると、
葉を落とした枝先の向こうに鉛色の雲が見えた。吐く息は白い。日に日に気温が下がって
いくようだ。初氷はいつか。憂鬱になる。滑走路が凍ると余計な気を使う。やがて来る雪
の季節になれば、猛吹雪で飛行場そのものが閉鎖されることもある。イライはポケットか
ら煙草を取り出したが、一本抜き出そうとしてとどめた。落ち葉は折り重なってたっぷり
水分を含んでいたから、たとえ灰を落としても燃えるようなことはないだろう。が、煙草
を喫う気分にはならなかった。
 ここは、墓地だった。
 正式な墓標はない。が、ここは墓地だった。未帰還者たちの墓地だ。レンダやキリウた
ち飛行隊幹部は認めないだろうが、基地に勤務する者はみなここの存在を知っている。基
地を飛び立ち、そして戻れなかった者は、ここへ眠ることになる。正式な墓標もなく、も
ちろん遺骨もなく、遺品もない。いわば、心だけがここに埋められる。残された者の、逝
ってしまった者たちへの想いが、ここに眠っている。
 卒塔婆を思わせる板が、十数本並ぶ。そして、そこには木が植えられている。未帰還者
たちの数だけ、苗木がここで根を張る。冬季間に撃墜、あるいは未帰還になった者は、翌
春に苗木が植えられた。見渡すと、朽ち果てた板が何本も見える。そして、イライの背丈
ほどに成長した広葉樹が同じ数。一体何人のパイロットがここに眠っているのか、イライ
は正直な数を知らない。調べようとも思わない。
 前にいた基地には、このような習慣はなかった。未帰還となったパイロットたちは、故
郷でひっそりと眠った。もちろん、ここの基地の未帰還者たちも、正式な墓はその故郷に
作られ、そこで眠ることになるのは変わりない。ただ、誰が始めたのか、森の中に、もう
ひとつの墓地が作られた。
 基地のパイロットたちが進んでここを訪れることはない。まして、複数が連れだってこ
こを訪れることは絶対にない。みな、ときどき、思いだしたようにここに来る。未帰還者
たちを思いだすために。
 他の同僚たちは、どうなのだろう。
 イライはポケットに両手を突っ込む。そして考える。苗木とともに眠るパイロットたち
を、イライは全員まで知らない。が、数人は知っている。三ヶ月前、一度に四機が撃墜さ
れ未帰還となったパイロットたちも、眼前に並んで眠っている。顔はわかる。名前もわか
る。けれど、彼らの正式な墓が、どこにあるのかを知らない。彼らの故郷を知らない。彼
らの家族を知らない。彼らの声や、趣味や、苦悩を知らない。知ろうとしなかったからだ。
 イライはタグサリを思いだす。
 結局、イライはタグサリが喫っていた煙草の銘柄も知らない。待機所のどこが彼の指定
席だったかも知らない。宿舎のどこにタグサリの部屋があったかも、よく思いだせない。
知ろうとしなかったからだ。
 空では頼りになる男だった。だから、タグサリの飛び方は知っている。僚機の癖を知ら
なければ、自分の命に関わるからだ。その代わり、タグサリの地上での癖は知らない。
 タグサリはまだこの森に戻って来てはいなかった。いまだ行方不明扱いだった。が、チ
ナミの言葉が正しく、偵察機が見つけた戦闘機の残骸がタグサリ機なのだとしたら、そし
て墜ちていく姿を見る限り、タグサリが生きて基地へ戻ってくる見込みはゼロだった。早
晩、ここにタグサリの名を刻んだ板が立てられ、誰かが苗木を植えるだろう。初雪には間
に合わないかもしれない。ならば、来年の春、タグサリの木がここに植えられる。
 屈辱は感じていた。僚機が撃墜されるという、屈辱だ。が、怒りや悲しみではなかった。
悲しむほどに、イライはタグサリを知らない。基地の同僚の中で、趣味や癖まで知ってい
るのはハスミを入れて数名だけだ。が、たとえばハスミが撃墜されたとして、自分は悲し
むだろうか。
 いまここでその答えを出そうとは思わなかった。イライは逃げた。
 感情や感傷は、判断を狂わせる。いっそ機械のように、入力に対して無表情かつ正確で
あれば、生き残ることができる。より楽に。それを逃げているのだと言われれば、イライ
は否定するつもりもなかった。生き延びるための方策だからだ。
 イライは嘆息した。吐く息は白い。髪は雨を受けて雫がこぼれた。
 そろそろ戻ろう。ホガリに機体の状態でも確かめに行こう。
 隠された墓地に背を向け踵を返したとき、イライの耳に、聞き慣れない音が届いた。か
すかだったが、それは雷鳴に似ていた。歩を進めようとしていたイライの足が一瞬止まる。
なんだ?
 低い雷鳴のような音に混じって、聞きなれた音も混じった。戦闘機のエンジン音だ。次
の瞬間、イライは駆けだしていた。森の中の道を、浮き出た木の根に足を取られないよう
注意しながら、イライは駆けた。
 敵か。
 真っ先にそれを思った。自分の機体は掩体か、それとも整備のために格納庫に引っ張り
出されているか。それにしては、基地が静かだった。音が聞こえるくらいまで敵機が近づ
いているのなら、十分待機中の味方機が緊急発進するはずだ。が、滑走路の方角は静まり
返ったままで、戦闘機が離陸する様子もないようだ。対空砲陣地も沈黙したままで、爆弾
が降ってくるような予兆もない。
 とにかく、イライは駆けた。
 息が上がる。
 年齢を、意識的に忘れることにした。



(2005-02-19)





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