憔悴しきったハスミは、同僚たちに抱えられるようにしてエプロンから運ばれた。機体
の故障、被弾、そして雨。着陸したあと、大量の消化剤にまみれた機体から、ハスミは自
力で出ることができなかった。消耗しきっていた。それでもイライは、同僚に担がれ、医
療棟へと連れて行かれる後ろ姿を見、彼がそれでも無事だったことに安堵した。僚機が未
帰還となること、それはイライにとって、自分が被弾し撃墜されることに次いで屈辱だっ
た。けれども、ハスミを結果的に護ったのは、イライの人差し指ではなく、いま爆音と水
煙をまき散らして着陸する二機のハチクマだった。わずかな屈辱を感じていた。ハスミの
無事を、心から喜んでいない自分が疎ましい。とにかく今は喉が渇いていた。増槽を抱い
た哨戒任務とはいえ、長時間の飛行を予定していなかったため、コクピットには水分がま
るで用意されていなかった。ひたすら喉が渇いていた。
地上整備員に誘導され、イライは格納庫手前で機体を止め、そしてエンジンを切った。
フルフェザーになったプロペラは静かに惰性で回り続け、キャノピーを開けると、冷水を
浴びせられたような、そんな空気がすっとしみてきた。寒い。腕時計を見ると、出撃から
三時間もたっていなかった。キャノピーを開けたまま、イライは計器類をチェックする。
すべてのランプが消灯されたのを確認しても、しばらくまだシートに座ったまま、アクリ
ル製のキャノピーを流れていく水滴を、なんとなく目で追っていた。マスクをはずすと、
息が白い。これから到来する季節を予感し、イライはやや憂鬱になった。地上整備員がボ
ーディングラダーから声をかけてくるまで、イライはそうしてしばらくコクピットに残っ
ていた。いい加減、地上整備員が心配そうな顔を向けてきた。ハスミが担がれていった様
を見ているのだ。彼は、この中年パイロットもまた、すっかり憔悴しきって身動きが取れ
ないものと思っているのだ。だから彼は、イライに呼びかけた。大丈夫ですか、と。
「予報は、当たったな」
イライは応えた。
応えると、整備員は首をかしげた。
「いや、天気の話だよ」
言うと、整備員は、ああ、という表情をして、イライの身体からハーネスをはずしてく
れた。やはり、まだ彼は勘違いしている。だから彼はイライに言った。どこか、具合、悪
いんですか、と。
「いや。垂直尾翼と主翼に当てられてしまったけど、俺は、見てのとおリさ」
笑ったつもりだったが、逆効果だったのかもしれない。見てのとおり、くたびれ果てて
いる、そう理解されたようだった。整備員はすべてのハーネスをはずし、酸素ビンからホ
ースを抜き、無線のケーブルまではずしてくれると、右手を差し出してきた。
「俺は、そんなに具合が悪そうに見えるのか」
「撃たれたのかと」
「撃たれたよ。機体がね。俺は、大丈夫だ。何一つ」
冷たい言い方だったかもしれない。そう思ったのも初めてだった。整備員は差し出した
手を引っ込めた。
「無事でよかったですよ」
メガネをかけた彼は、水滴をレンズに散らして、そう言った。イライは思った。どこが、
無事なんだ、と。
身体がシートから離れる。まるで自動機械のような、認識のない動きだった。イライは
どこか現実感を失っていた。それはおそらく、疲労のせいなのだ。イライはやはり、消耗
していた。このひどい喉の渇きが何よりそれを物語っているではないか。コクピットを出
ると、水滴が頬に散る。目も疲れているのかもしれない。雨滴が見えなかった。実際、雨
はほとんど音もたてずに降っていた。キャノピーや主翼、前翼に幾千もの水滴が散らばっ
ていたが、機体の薄い外板を雨が叩いているわけではなかった。濃い雲の中を飛行したあ
とのようだった。
ラダーを降りると、背中が冷たかった。汗が一気に冷えたのだ。そのことに気付くと、
さらに寒気が全身を駆け抜けた。俺は、ひどく疲れている。なんてざまだ。イライは振り
返り、乗機を見やる。左の垂直尾翼の先端がきれいになくなっていた。左主翼の外板も一
部がめくれていた。しかし、動翼のたぐいはすべて無事だった。トリムタブが飛ばなかっ
たのも幸運だった。安定は失ったものの、ハスミほどではなく、着陸もさほど気を使わず
に済んだ。ノスリはいい飛行機だ。そう思った。もっとも、十二、七ミリで撃たれただけ
で垂直尾翼が消し飛ぶとは、やはり華奢な機体だとも思った。いや、あれは近すぎたんだ。
自機が牽引車に引かれて格納庫に移されるのを、イライはまた見送った。機関砲のあた
りが、ススで黒く汚れていた。磨いてやりたいと思ったが、その前にこいつの修理にどれ
くらいの時間がかかるのか気になった。それ以上に、いまだエプロンの端で泡まみれにな
っているハスミのノスリの状態はひどかった。墜ちなかったのは幸運だったに違いない。
エンジンはナセルが吹き飛び、ほぼむき出しになっている。シリンダーが死んだどころで
はない。これでよくエンジンが回っていたものだと思う。プロペラが無傷だったことも、
ハスミが地に足をつけられた要因のひとつだ。敵が予想外に素人だったからか、あるいは
ノスリが存外に丈夫だったからか。イライのノスリと、ハスミのノスリは、同じX型だが、
製造されたロットが違う。ハスミの機体は、数年若い。設計強度などは全く同じはずだが、
どこか違うのかもしれない。
髪から雨滴が伝い、襟足に落ちた。
熱いくらいに冷たかった。
けれど、上空の雲は着陸したときよりも薄くなり、空は明るさを増していた。
イライは喉の渇きをもはや我慢できなくなっていた。冷気に耳も痛くなる。飛行服が濡
れてしまう前に、中へ入ろう。イライはエプロンをあとにした。
出撃記録をキリウに放り投げるようにして提出すると、暇になった。食堂で昼食をとり、
午後になると雨は上がってしまった。雲がところどころで切れ、その向こうに誰かが塗っ
たのかと思うほどに濃い青がのぞく。晩秋から初冬に見られる、濃く澄んだ青だ。イライ
は通用道路で立ち止まる。息が白い。葉をすべて散らした枝が風に鳴く。飛行ジャケット
のポケットに両手を突っ込み、肩を震わせた。ハスミは基地内の医療局に直行し、寝込ん
でしまったらしい。イライが知る限り、ハスミがああも手ひどく傷を負った例はない。も
っとも、この基地で彼と飛ぶようになってから、という断りがつくが。機体の損傷の程度
にしては、生きて帰れたことの方がめずらしいかもしれない。久しぶりにタグサリを想う。
牧草地の上空で炎に包まれたノスリがよぎる。
気付けばイライは敵の新型を二機撃墜という立場にいた。正確に言えば、確実二機、不
確実一機だ。手負いにさせたあの一機は帰還してしまっただろう。だから撃墜は二機だ。
もはや名実ともに旧式と化したノスリで、ガスタービン機を二機撃墜というのは、展開し
てきた味方のハチクマに、旧来機とパイロットたちが一方的に墜とされているという事実
から考えると、武勲に値する。しかも実戦で自分は二機を屠ったのだ。が、イライは釈然
としていなかった。撃墜した二機は、いわばイライが奇襲を仕掛けた格好だ。空中戦には
セオリーがあってもルールはない。そう考えれば、奇襲も戦法だ。が、雲もなく、お互い
を視認できる位置から空中戦を開始したとして、自分は勝てただろうか。エレメントなら
分があるかもしれない。が、確実とは言えない。やはり自分はどうしようもなく運に左右
されている。
イライは寄る辺ない思いで満たされた。足は自然とエプロンに向かっていた。普段なら
自分の機体が格納されている掩体に向かう。ひとり機体を眺め、くすんだ塗装や、弾痕の
残る外板を撫でるうちに時間など過ぎる。けれど今日は、語り合うべき愛機はない。出撃
記録を提出したあと、整備小隊に顔を出した。理由は問わず、イライが乗機を小破させた
のは事実だ。ホガリやヌノベに詫びようと思ったのだ。のぞいた整備小隊の詰め所になじ
みの顔はなく、残っていた若い整備員から、イライのノスリの状態を聞いた。主翼にいく
つも歪みが生じ、あまつさえしわまで寄っていたという。リベットは何本も飛び、敵の砲
弾が付けた傷よりも、パイロットが強引な機動を行ったことによる機体のストレスのほう
が大きかったらしい。俺はまた護られた。そう思った。全治、少なくとも一週間。たぶん
それくらいじゃないですかね。若い整備員は煙草をあわただしく喫いながらイライに答え
た。最低一週間は飛べないということだ。そして、最低一週間は、空で死ぬ心配がなくな
ったということだ。いいことなのか悪いことなのか。イライは整備員に礼を言い、詰め所
を出たのだ。
空は早くも夕方の色をにじませはじめていた。耳が冷たい。煙草を喫いたかったが、飛
行場地区は全面禁煙だった。歩き煙草などできるはずもない。町に出ようかと思ったのも
事実だった。そんな気分になったのが不思議だった。最後に町に出たのがいつだったろう
か。基地を出、路線バス、あるいはモーターサイクルか誰かの自動車を借りれば、二十分
もかからずに町に出る。ソラノ川の河畔に広がる小さな町だが、コヤチダ本線の駅がある。
このあたりではもっとも大きな町だった。イライが欲しいと思うものの大半は基地のPXで
購入できたが、さらに、という気が起きれば、町へ向かうとすべて揃う。過不足のない町
だったが、イライはなじみが薄かった。ほかのパイロットたちと連れだって飲みに出るわ
けでも、行きつけの店があるわけでもない。町は、ソラノ川にかかる鉄橋やあの円い沼と
同じく、基地へのアプローチのための目印に過ぎなかった。だから今日も、足は向かなか
った。そういえば、基地内に住まず、町に居を構える人間も基地にはいる。パイロットに
はほとんどいないはずだが、基地業務を受け持つ隊員や、ケイたちのような軍属の人間た
ちは町の住人だ。彼らはバスか個人所有の自動車で通ってくる。町の経済の一部は基地が
になっている。爆撃機から町を護るのと、町に少なくない金を落すのと、どちらが歓迎さ
れているのだろう。おそらく後者だろうとイライは思う。敵の爆撃機が海峡を越え、ここ
まで来るはずがなかったからだ。そうなったらこの戦争はもう負けだ。いまのところそん
な兆候はなかった。それに、よほどの大編隊が来ない限り、イライたちパイロットは、爆
撃機程度なら撃墜してやる自負もあった。高々度を悠然と飛行する敵の爆撃機を、イライ
は以前所属した基地にいたとき、何度か迎撃したことがある。X型のノスリなら、おそれ
る相手ではなかった。むしろ、ノスリの敵は爆撃機を護衛する敵の戦闘機であり、撃墜さ
れた仲間の大半は、それら敵の戦闘機によるものだった。
エプロンに着くと、濡れた滑走路と雲を割って地上を照太陽が見えた。天使の梯子とい
う奴だ。誰に教わったのだろう。雲間からカーテンを引くように光線が森林に降りていた。
かすかな爆音が耳に届く。誰かが飛んでいる。耳に慣れたレシプロエンジンの爆音だ。音
は反響し、視覚で姿を追うほどに、その対象を探すのは簡単ではない。眼を鍛えるつもり
で、イライは爆音の源を探す。複数だ。反響をさっ引いても、飛んでいるのは複数の機体
だ。イライの立ち位置からランウェイエンドへ視線を走らせ、さらにその向こうの森林上
空に、機影を見た。二機の戦闘機が、コンバットピッチで滑走路に進入してくる。誰だろ
う。待機所を素通りしてきたイライは、いま誰が飛んでいるのかを知らなかった。エプロ
ンには機付きの整備員が受け持ちの機の帰りを待っている。次第に爆音は大きくなり、着
陸灯を瞬かせたノスリが滑走路にさしかかる。機体がばたつかず、スムーズなタッチダウ
ンだった。機番が見える。チナミとユサだった。上手なはずだ。ユサはまだしも、チナミ
はその言動に似つかわしくなく、機体の扱いに長けていた。彼なら主翼のリベットを飛ば
すような飛び方はしない。一緒に飛ぶ機会はさほど多くはなかったが、地上で接するとき
よりも、空での彼には好感が持てる気がした。好感というより、信頼だ。ハスミやタグサ
リに対して抱く感情と似ていた。イライはチナミとユサの着陸を黙って眺めていた。主翼
に増槽は下げていない。途中で捨てたか、最初から装備せず飛んだのか。機銃周辺がすす
けているのは二機とも同じだったが、それがいつついたものかはわからない。戦闘があっ
たのかどうかも、イライは知らない。それをいま戻ってきたパイロット二人に訊くつもり
もなかった。イライは傾いた日が織りなす天使の梯子を眺める。美しいと思う。
寒かった。眼前で二機の戦闘機は並んでエプロンに進入し、まだ濡れた路面に着陸灯を
映し込み、プロペラは水滴を飛ばしていた。二機とも目立った傷は見あたらない。離れた
場所に立つイライは、開いたキャノピーからこちらを向いているチナミに軽く手を挙げた。
チナミはゴーグルを上げ、イライを一瞥したが、一瞬目を細めただけで手を挙げ返すよう
なことはしなかった。イライも彼らに近づくこともしなかった。帰還した二機はエンジン
を切ると牽引車に引かれ、パイロット二人も待機所にまっすぐ帰っていった。エプロンは
再び静寂を取り戻す。スクランブルがかからない限り、おそらく今日のフライトはこれで
終わりだ。いっそう気温は下がっている。それでもイライはずっと立ったまま、日が暮れ
るのを見送る。一日が終わる。午後三時。時刻は早いが、この日の傾き方は、まさに落日、
一日の終わりを実感させる。また一日、生き延びた。イライの右手はポケットの中で思い
出す。今日の飛行、指に感ずる、引き金の感触を。自分は一体何人を空に散らしたのか。
対地攻撃任務も何度かこなしたが、自分の役目は、敵の戦闘機を自分の駆る戦闘機で撃墜
することだった。何機を撃墜したのか、もうわからなかった。数えたこともない。パイロ
ットの多くは、自分が何機を撃墜したのか、それが履歴書だといわんばかりにすべてを記
憶している。イライもかつてはそうだった。が、今はもう、自分が何機を墜としたかとい
うことはどうでもよくなっていた。自分が墜とされないこと、それが最も重要だからだ。
けれど、とさらにイライは思う。
なぜ自分はそうして生きていくのか、と。
若い頃からずっと自問してきたことだった。答えなど出ようはずもなく、今日の今日ま
でイライはその疑問を抱いたまま、戦闘機に乗ってきた。何のために戦闘機に乗るのか、
その答えは簡単だ。敵の戦闘機を、敵の爆撃機を、敵の偵察機を、それら脅威目標を排除
するためだ。そのために自分は生きているのか。違う。自分が乗らなければ、自分が敵の
戦闘機を墜とさなければ、別の誰かがそれをやる。その余裕はこの組織にはまだ十分ある。
では、自分は何のために生きているのか。
イライはひとり笑いをかみ殺す。
生きるためだ。
生き物が生きるのに理由がいるのか。それはきっと、自分が人間だからだ。人は、生き
るために生きるのではなく、生きる目標のために生きる。きっとそうだ。だからややこし
くなる。生きるために生きる。当たり前のことのはずだったが、人はそう思わない。
敵機を撃墜するため。
町を護るため。
敵に負けないため。
同僚のパイロットを救うため。
基地の人々を護るため。
妻のため。
子供のため。
親のため。
家族のため。
後付の理由は、イライの頭にもすらすらと浮かぶ。その軽さにイライは嫌悪する。
なぜ、人は他人のために生きようとするのか。
イライが生きる理由は、今思いつく限りには、あまり多くない。
戦闘機に乗るため。
空を飛ぶため。
自分が生きるため。
自分が生きている理由を作りたいため。
イライはまたひとり笑いをかみ殺す。
こんな気分になるのは、生死の表裏を垣間見るような空中戦を経験した直後と決まって
いた。いや、直後ではない。その余韻がたなびき出す、帰還後数時間してからだ。戦って
いる間は、敵機を撃墜し、帰ることしか考えない。生きる理由などどうでもいい。死なず、
帰ることの方が重要だからだ。即物的な感情に支配され、その気楽さに安堵する。そして
帰還し、生き延びたことを実感すると、こうした命題がイライを支配する。
なぜ、生きているのか、と。
わかるはずもない。
イライはいい加減冷えた身体をどうにかしようと思考を断ち切り、振り返る。エプロン
を出よう。歩み出そうとして、人影に気付く。
エプロンの端に立ち、イライと同じく、落日を眺める人影に気付く。
イライは、瞬きを忘れた。ふと索敵したとき、空中に敵機を見つけたときのような、背
筋をなにかが猛烈な勢いで駆け下りていくような感覚。
ユウ。
ハチクマのウィングマンが、ひとりエプロンに突っ立っていた。
(2005-06-28)