町に出ようと思った。
宿舎から基地のゲートまでは遠い。外出するのを億劫に感じるほどに遠い。他のパイロ
ットや整備員たちはモーターサイクルや自動車を使って基地を出る。けれど、イライはそ
のどちらも所有していない。イライが所有している機械は、左手首の航空時計と、あとは、
なんだろう。少なくとも乗り物と呼べるものは所有していないし、所有したこともなかっ
た。昔乗っていた自転車以外は。まさかホガリからトーイングカーを奪い取ってくるわけ
にはいかない。あれは公道を走るようにできてはいない。
イライはゲートを抜け、空を見上げた。爆音もなく、静かだった。鳥が飛んでいた。名
前もわからず、音もせず。ゲートを抜けた道路は未舗装で、湿っているが幸いだ。夏場は
埃がひどいのだ。ゲートには警衛の兵士が自動小銃を抱えて突っ立っていた。弾倉を装着
しているが、弾が入っているのかどうかは知らない。イライは年に数回ある訓練以外で小
銃はおろか拳銃すら撃たない。イライが撃つ物は、戦闘機についた対空機関砲だけだった。
小銃を抱える兵士に一礼して、イライは未舗装の道を行く。ゲートからさほど遠くない場
所にバスの停留所があった。そこを目指す。道の両脇の雑木林はすべて裸で、草地は枯れ
ていた。初雪以来、本格的な冬の到来はまだだった。だが、雪がないと、いっそう寒さを
感じるような気がする。色彩を失った地面は、寒々しいのだ、きっと。
バスがいつ来るのかを、イライはよく知らない。停留所の時刻表はさびだらけだった。
航空時計を見ると、午前十時を少し回っていた。緯度が極端に高いこの地域で、太陽はゆ
ったりと物憂げに木立の少し上でぼんやり考えごとをしているように見えた。バスの時間
まで、あと十五分ほどあるようだ。もし仮に、バスが時刻表どおりに来るのであれば。
戦闘機パイロットがバスを待つ。警衛の彼はフライトジャンパ姿のイライを見て、何を
考えているのだろう。声をかけるつもりもなかったが、まだ年若い彼が抱える自動小銃は
よく手入れが行き届いているようだった。プレス加工を多用した量産性に優れた銃で、イ
ライが訓練で撃つときも、その癖のなさは扱いやすく気に入っていた。その銃を、警衛の
彼は大事そうに抱えていた。弾倉に実弾が装填されているかどうかは関係ない。彼はきっ
と、ゲートを守ることが自分の使命だと疑っていないのだ。もしかすると、彼もまた純粋
培養組の一人なのかもしれない。純粋培養組がパイロットなどの幹部だけとは限らない。
彼らは今の時代、どこにでもいる。むしろ自分たちが旧世代なのだ。生きることに無理矢
理意味を見いださなければ、バスに乗ることもできないような旧世代だ。非効率的で、あ
らゆる能力で劣った人種だ。イライはそう自分たちを認識していた。
基地で、パイロットたちの間で純粋培養組ではないのは、誰と誰か。墜ちたタグサリは
違う。ハスミも違う。チナミやセムラも違う。彼らは同じく航空学校出身だ。高等中学を
卒業して、適性検査と簡単な学力試験ののち、即座に操縦桿を握った。イライは思う。ユ
ウは、彼女はどうなのか。彼女もまた航空学校出だと言った。出自からいって、彼女が純
粋培養のはずがない。なぜなら、直系の自分が純粋培養ではないからだ。けれど、とイラ
イは考える。チナミが言っていたではないか。ハチクマのウィングマンには、迷いがなか
った、と。イライたち旧世代は、迷う。生きることに意義を見いだそうともがくように、
迷う。迷う時間は短いが、まったく迷いがないのとは根本的に違う。ユウは、迷うのだろ
うか。あの日、ハスミの機体がトラブルを抱え、敵の戦闘機にいいように追い立てられた
あの雨の日、迎撃に飛来したユウは、ためらいなく対空機関砲で敵機を粉々に撃墜してし
まった。敵の戦闘機にもまた、パイロットという人間が乗っていることなど、まったく意
に介さないような、そんな撃ち方だった。敵の戦闘機のパイロットもまた、人生を持ち、
それ相応の悩みと喜びと、そして殺意と敵意を抱く一個の人間だ。それを、ユウは迷いな
く、メルクア・ポラリスMG-4型二〇ミリ機関砲で粉々にした。撃墜されたパイロットは、
自分に何が起きたのかもわからないまま、機体ごと粉々になったに違いない。ユウは、も
しかしたら後天性の新世代なのかもしれない。イライはフライトジャンパのポケットをま
さぐり、指先にブリキ缶でできたシガレットケースを掘り当てた。よく冷えていた。オイ
ルライターとともに取り出したとき、バスが来た。タイミングとは、こういうものだ。
バスは運転手以外に乗客がなかった。イライは最後部座席に座った。けたたましいディ
ーゼルエンジンが叫ぶ。それは戦闘機のエンジンのように洗練されてはいなかったが、あ
ふれ出るような咆哮は、戦闘機のそれよりもずっと生き物のように思えた。派手に黒煙を
吐き出し、走り出す。未舗装の路面は、揺れた。
バスは基地外周を巡る道路を進み、やがてあの真ん丸い沼地の、基地から見ると対岸を
行く。空から見るよりもずっと大きい。どのような地形的作用でこの沼ができたのかはわ
からない。それにしてはまん丸だ。空から見ても、地上から眺めても、沼は円かった。水
面は澄んでおり、時折水面がはねた。魚だ。食べられるのだろうか。そういえば、しばら
く魚を食べていない。基地で出るのは正体不明の肉だけだ。どういうわけか魚が出ない。
沼の横を過ぎれば、車窓の左手に赤い鉄橋が見えてくる。コヤチダ本線の鉄橋だ。トラ
ス構造で、空から見るより、やはり大きい。もし自分が対地攻撃を命じられたら、失敗の
しようがないほどに立派で大きな構造物だった。コヤチダ本線から基地へ、軍用列車の支
線が伸びているはずだが、ここから分岐は見えない。航空機用の燃料や食料などの物資は
鉄道で輸送される。車窓からぼんやり鉄橋を眺めていると、ディーゼル機関車に牽かれた
貨物列車が今まさに鉄橋にさしかかろうとしていた。ソラノ川の鉄橋で、イライが乗るバ
スもまた、並行する道路橋で川を渡る。貨物列車は有蓋車で、ディーゼル機関車は重連だ。
編成は長い。どこから来てどこへ向かうのかはわからない。こんなとき、イライは飛びた
くなる。空からあの列車がどこへ向かうのか確かめたくなる。地図では、これから向かう
町からさらに北へ、さらに緯度が上がった国境の付近に大きな町があるはずだ。これとい
った軍事目標がないため、イライたちが飛ぶことはあまりない。もちろんだから、敵機が
飛来することもあまりない。もしかしたら、あの列車はその町へ向かうのかもしれない。
やがて、バスも橋にさしかかる。河口から十マイル、二十キロ近くさかのぼった場所だ
が、このあたりでもソラノ川の川幅は三キロ以上ある。厳冬期でも凍結しない。水深があ
ることと、河口に近い割には流れが速いためだと、誰かに聞いた。だから、これだけの川
幅がありながら、水上輸送がほとんど発達していない。そのへんの話は、もしかするとケ
イあたりから聞いたのかもしれないが、覚えていない。橋にさしかかると、ソラノ川の広
さがよくわかる。飛んでいるときより、ずっと。
貨物列車が鉄橋を走る轟音が、窓を閉め切ったバスの中までよく通る。赤いトラス構造
の鉄橋と、濃いグレーの機関車、そしてブラウンの貨物車。いま攻撃機に襲われたらひと
たまりもないな、などと考えているうち、バスは橋を渡りきってしまった。線路はまた木
立の向こうに隠れてしまった。バスはそこからいくつかの停留所と集落を過ぎ、国道に合
流する。国道といっても、簡易舗装が施された二車線の道路で、通る自動車も少なかった。
道路脇の畑で農夫が突っ立っていた。収穫の過ぎた畑で彼は何を思っているのだろう。彼
は空を見上げていた。イライも倣って、バスの中で彼が見上げる空を向いてみた。澄んだ
青空に、機影が見えた。特徴のある推進式のプロペラ、前翼、ノスリだ。アプローチに入
った機体ではない。ギヤが降りていない。離陸した機体だ。二機。機番は見えない。増槽
を左右に一個ずつ抱いているのが見えたが、それだけだった。爆装しているわけでもなく、
そもそもノスリのX型は迎撃戦闘機だから、めったに爆装をしない。誰と誰が飛んだのだ
ろう。思ううち、さらに二機のノスリが追って飛んでいく。都合四機、上がったようだ。
今日のイライは休日だった。だから飛行割りを見てこなかった。そして、待っても離陸し
た四機のノスリ以外には戦闘機は飛んでこない。今日はハチクマも休日のようだ。イライ
は再びバスのシートに深く座った。バスの中は暖房が効いていて、暖かかった。町のそこ
ここには雪が残っており、気象隊の予報では、今週末から本格的に雪になるだろうという
ことだった。いよいよ冬だ。
バスはようやく、町のターミナルに到着する。市街電車が乗客を待っており、そこはコ
ヤチダ本線の駅もある。町の名はナヨシといった。だから、イライたちが勤務する基地の
正式名称は、「第七空軍第二戦闘航空団ナヨシ基地」というわけだ。そういえば、かの警衛
兵士が立っていたゲートに、基地の銘が記されていたはずだが、どこにあったのか覚えて
いない。そんなものだ。イライがかつて所属していた第五空軍の基地にしても、もう記憶
が曖昧だ。旧世代の特権だ。都合の悪いことは忘れる。
バスを降り、市街電車の線路を突っ切り、石造りの建物が目立つ街路を歩く。イライは
花屋を探していた。ケイから聞いた。ナヨシの駅の近くに、立派な、でもちょっと変わっ
た花屋さんがあるから、行ってみれば。カタバミの花がまだあるみたいだから。
道ばたや草原で咲いている黄色い花がカタバミという名を持っていることを、イライは
ハスミから聞いた。ついでに花言葉まで聞いた。心の輝き。それがカタバミの花言葉だそ
うだ。ハスミがそう言ったとき、イライは笑うこともできなかった。心が輝くのか。では
俺たちは、輝くべき心をいくつ空に散らしたのだろうかと。けれどそのときは口には出さ
なかった。今日は、ハスミの見舞いに行くつもりだった。手ぶらでは申し訳ない。スケッ
チブックでも買っていこうと思ったが、あいにく、イライはナヨシの町で画材屋を知らな
い。そして、ハスミが収容された病院のベッドで絵を描ける状態なのかもしれない。だっ
たらせめて輝いてくれ。そこでPXのケイに聞いた。町に花屋はあるのかと。それはどう
やら、町に肉屋や八百屋があるのかと聞くくらいに間抜けな質問だったらしく、無愛想に
コーラを買った釣り銭をレシートにくるむようにして放り投げ、そしてイライに告げたの
だ。ナヨシの駅前に花屋があるから、行ってみたらと。カタバミの花、きっとまだ置いて
あるから。なぜそんなことを知っているのか、と、イライは聞いた。その花屋の在庫状況
までどうして知っているのかと。するとケイは答えた。私の家だから、と。
カタバミの花が、花屋ではいくらで売買されているのか、イライは知らない。野原で咲
いているくらいだから、およそ高価とは思えない。そして、負傷したパイロットへの見舞
いの品にカタバミの花がふさわしいのかどうかもわからない。が、ハスミへの見舞いの品
に、スケッチブック以外に思い当たるものがなかったのだから、それでいいような気がし
た。イライは横断歩道を渡り、その花屋を探した。
花屋は簡単に見つかった。ナヨシの駅から駅前通りを一本西側に入った角に建っていて、
年季の入った煉瓦積みの建物だった。フライトジャンパ姿のまま、イライはさほど広くな
い間口の入り口から店内へ。イライは草花に詳しくない。いま探している花はカタバミで、
他の花の名前はわからない。左肘で引っかけそうになった花弁の大きな白い花がなんとい
う名前なのかもわからない。だから、カウンターの奥で器用にハサミで名前もわからない
花の茎をカットしている女性に声をかけた。声をかけた女性は顔を上げ、イライを向く。
なるほど、とイライは思った。ケイに似ているのだ。ケイがあのまま二十年ほど年を経れ
ば、目の前の女性になる。そんな顔をしていた。
「カタバミを、探しています」
イライは女性からわずかに目線をはずした。女性はとりわけ、目がケイとよく似ていた。
遺伝子とはこういうものか。
「カタバミ?」
オウム返しに女性は言った。左手に持っていたハサミをカウンターに置いて。そうか、
女性は左利きか。
「黄色い、道ばたで見かける、あの花」
イライが言うと、女性はカウンターを離れて、所狭しと並ぶ花々の間を縫うように歩く。
よくもまあ、陳列してある草花を引っかけて倒さないものだと思う。プロだと感じだ。意
味もなく。格納庫でのホガリやヌノベの動きを思い出したからだ。一見乱雑そうに見える
工具箱や、血管のように配管や配線が走り回るエンジンカウルの中も、彼らにとっては見
知ったものなのだ。カウンターを離れた彼女にして、店内は彼女の仕事場だ。どこに何が
あるのかは把握しているのだろう。店内は彼女の他に二人の女性が作業をしていた。流行
っているようだ。田舎町とはいえ、本線の駅前近くに店を構えているわけだ、それなりの
実力があるということか。やがて女性は、まるで二十ミリ機関砲弾の弾帯を抱えるように、
ようするに大事そうにして、黄色い花と緑の鮮やかな束を持って現れた。
「今どきね、こんな花があるなんてね。もうちょっと前なら、そのへんにいっぱい咲いて
るのにね」
彼女の口調もどこか娘のケイに似ているような気がした。けれど、イライは女性に、あ
なたの娘さんと知り合いなんですよ、そんな言葉は発しないことにした。あるいは今日、
イライがここを訪ねることを、娘のケイが伝えているのかもしれない。どちらでもいいと
思った。フライトジャンパ姿の客などめずらしくないはずがない。
「花束に?」
女性が訊く。カタバミの花束。おそらくイライもそんな花束を聞いたことがない。
「見舞いでね」
「なるほどね」
女性は手際よくカタバミの花を揃え、専用のハサミで茎を切る。パチンパチンと小気味
よい音がする。手入れの行き届いた道具だけが奏でる音だ。それは、整備が行き届いた戦
闘機に乗ったときも聞こえる音に似ている。ラダーペダルを動かしたとき。操縦桿を左右
に倒し、エルロンが機敏に反応してくれたとき。
「パイロット?」
カタバミはまだ花束と呼べる状態ではなかった。茎の長さを揃え、まとめ上げ、花弁の
位置を調節している段階だ。可憐な花だとイライは思った。だから、女性が手元を向いた
まま、イライに向かって質問をしたことに気付くのに、数瞬遅れた。空中戦ならば、命取
りになるくらいの時間。
「あなた、パイロットでしょ」
「ええ。見てのとおりで」
「うちの店、どこで知ったの」
「なぜですか」
「パイロットが花束を買うなんて、いままでここでずいぶん長いこと店を開いているけど、
ほとんど聞いたことがない」
「そうですか。パイロットもたまには花束を買ってもいいと思いませんか」
「お見舞いと言ったかしら」
「ええ。同僚が入院しまして」
「あなた、戦闘機乗り?」
「そんなところです」
「娘はいないよ」
「は?」
「ケイに聞いたんでしょう、うちのことは」
女性はまだ顔を上げない。ぶっきらぼうな話し方もケイにそっくりだ。
「わかりますか」
「パイロットが花を買いに来るときは、うちに来るからさ」
「さっきは、パイロットが花束を買いに来たことがないと」
「例外もたまにはあるのさ」
話しているうちも、女性の手は止まらない。やがて、野花であるはずのカタバミが、立
派な花束に化けた。
「いくら?」
ラッピングされた花束がカウンターにできあがった。イライはポケットから財布をまさ
ぐる。
「カタバミに値段が付くのかね」
「でも、今はもう冬だ」
「どこから見つけてきたのか。カタバミの花束なんてね、わたしは初めて作ったよ」
「そうですか」
「まあそういうことにね、しておいて。いくら払えるんだい」
「いくらなんですか」
「娘がいつも世話になってるそうだから」
女性は言うと、傍らにディスプレイされている大輪の花束のプライスの、ほぼ三分の一
ほどの価格を提示した。
「安いのか高いのかわからない。俺はこういう買い物をしたことがない」
「高い買い物だと思っておくんだね」
女性は花束をイライに手渡すと、高笑いした。気持ちのいい笑い方だった。そこだけ、
娘のケイと違っていた。ケイもやがてはこんな屈託のない笑い方をするのだろうか。
店を出た。煙草を喫いたいと思ったが、舗道はよく清められていた。煙草を吸えるよう
な雰囲気ではなかった。だから花束を抱えたまま、市街電車の停留所へ向かった。ハスミ
が収容された病院は、ナヨシの駅前から発着する市街電車に乗り、終点近くまで走った場
所にある、とのことだった。飛行隊長のキリウから聞いた。
(負傷パイロットの見舞いか)
キリウは相変わらず何物かわからない書類と格闘していた。
(いけませんか)
(あんたにそういう趣味があるとは思わなかった)
(趣味じゃない。負傷した同僚の見舞いに行くのがいけないんですかね)
(そんなことは言ってない。前代未聞だと言いたいだけだ)
(俺が見舞いに行くことが?)
(パイロットが、同僚の見舞いに行くことがだ)
(それは知らなかった)
(負傷で済んでよかった。撃たれたら帰ってこないパイロットの方が多い)
キリウはそれだけ言うと、ハスミが収容された病院の名と場所を示してくれた。軍の関
連施設ではなかった。基地以外、この近隣に軍の関連施設はない。レーダーサイトや通信
所以外には。
(その格好で行くつもりか)
退室しようとしたイライを、キリウが呼び止めた。イライは飛行服にフライトジャンパ
を羽織っただけだった。
(いけませんか)
(正装しろとは言わない。あんたのその格好は中途半端すぎる)
(礼装に着替えますか)
(わたしの言葉を聞いていなかったのか。中途半端だと言っただけだ)
(では、考えます)
結局イライは飛行服を脱ぎ、平服にフライトジャンパを着込んで基地を出た。制服に着
替えた方がよかったのかもしれない。けれど、イライは着るべき制服にしばらくアイロン
すらかけていないことに思い当たる。これでいい。フライトジャンパには飛行隊を示すパ
ッチとウィングマーク、それ以外には何もついていない。階級章も何も。もし市街戦に巻
き込まれても、自分が空軍の人間だと証明するものは、ポケットの奥深くにしまってある
身分証明書だけだ。それだけあれば十分だろう。町に出て階級がものを言うとは思えなか
った。
電停では、市民が少なからず列を作って電車を待っていた。人々は厚い外套に身を包ん
でいた。すっかり装いだけは冬だった。西の空をふと向いてみる。まだ空は晴れていたが、
真っ白い雲がゆったりと流れてきていた。雪雲だ、そう思った。今夜あたり、いや、早け
れば夕方にでも雪になるかもしれない。気象隊の予想はよく外れる。
イライはフライトジャンパのジッパをいちばん上までしめると、花屋の女性が丹誠込め
てくれた花束を抱えて、電車を待った。
(2005-09-09)