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Absolute solution

 
 フライトジャンパに花束という組み合わせがよほど奇妙なのか、それともパイロットと
いう人種がこの町ではめずらしいのか、電停で列に紛れたイライは、乗客の目が自分をち
らちら何度も向くのを知った。ふだんほとんど町に出ないからなおさら、自分たちパイロ
ットの位置がわからない。
 電車は空いていて、イライは花束を抱えたまま席に着いた。石畳に線路を敷いた通りを、
くたびれた電車は、イライにとっては異質な速度で進む。イライが知っている速度は、戦
闘機の離着陸の速度か、あるいは歩いているか自転車に乗っているか、そのどれかだ。空
に上がってしまうと、性能諸元どおりの速度が出ていても、それを感じない。唯一感じる
のは、雲を突き抜けるときくらいだ。だから、この電車のいかんともしがたい中途半端な
速度が異質だった。のべつ失速しているような気がする。
 電車の中を見ると、冬の装いに身を固めた自分と同じくらいの歳とおぼしき中年夫婦、
中等学生程度の幼い顔立ちの少女が二人、大学生風の若い男が一人、そして自分。大学生
風の男を見て、ふと、この町に大学があったのかどうかイライは思う。あったかもしれな
い。わからない。そういえば、PXの彼女は学生だったはずだ。では大学があるのだろう。
 前任地の第五空軍の基地からこの第七空軍へ赴任してからもう何年もたつというのに、
イライはその活動を基地の中に限定してきた。基地の中でだいたいの用はすべて済んでし
まうからだ。衣食住のすべてが基地の中で完結してしまう。だからイライは基地の外に出
る習慣がない。同僚たち、中でも若いパイロットは積極的に外へ出る。なにかと理由をつ
けて、町へ出る。この基地は、ナヨシという比較的規模のある町が隣接している分、たと
えばさらに辺境の前線基地と比較すれば環境はいいといえる。
 前に所属した第五空軍の基地は、本土から離れた島にあった。滑走路は一面、時折海軍
の艦載機が降り立つこともある、それこそ辺境の基地だった。配備されていた戦闘機は、
十八機。敵と遭遇する確率はいまとたいして変わらないかもしれない。が、あの島には基
地とそれに関連する施設以外に町と呼べるような場所がなかった。だからパイロットや整
備員たちからは二度と赴任したくない基地だという評判を、ここに来て知った。けれどあ
のころもイライは基地の中ですべてを完結していた。同僚の中には、唯一市街地らしきも
のを作っていた港町へ、休日ごとに出かける者もいた。あいつは、なんという名前だった
ろう。確か、……海軍の空母の直掩に出たとき、撃墜された奴だ。悪い奴じゃなかった。
港へ出かけては、魚介類をモーターサイクルの荷台いっぱいに積んで帰って来、パイロッ
トたちに振る舞ってくれた。奴がくれたエビはうまかった。
 あのころ、イライはノスリのW型に乗っていた。二段式スーパーチャージャーを装備し
た機体で、X型ほど高々度性能はよくなかったが、瞬発力はX型より優れていた。あの日、
イライたちは十二機の戦闘機で編隊を組み、空母を護衛する任務にあった。もちろん空母
からも艦載機が二十機ほど飛んできた。艦載機はサシバの愛称がついた単発推進式の戦闘
機で、そして敵は南からやってきた。空気が濃かった。そして増槽が重かった。対空機関
砲は、X型が積んでいるメルクア・ポラリスMG−4ではなく、同じ二〇ミリだが前モデル
のMG−3だった。
 戦端が開いたのは、先行していた海軍のサシバ四機が敵と遭遇したところからだ。海軍
の戦闘機は、ノスリと比べて大柄で航続距離は長かったが、明らかに足が遅かった。イラ
イはすでにそのとき編隊長だった。ノスリ四機を引き連れて戦端が開かれた空域へと全速
力で向かった。やけに風がなく、そして雲もなく、晴れていた。ただ、空気が重かった。
 遠くでひとつ、ふたつと黒煙が青空にたなびいているのが見えた。敵味方どちらの黒煙
なのかはわからなかった。無線から、誰かの叫びが聞こえた。それでサシバがいきなり三
機撃墜されたのを知った。スロットルを最大位置まで叩き込み、エンジンが高鳴った。イ
ライの編隊は二機ずつのエレメントに分かれる。イライのウィングマンが、奴だった。二
分ほどして、敵機と遭遇した。敵は双発のペトレルで、どう考えてもサシバが勝てる相手
ではなかった。イライの編隊は高度を上げた。ペトレルもサシバと同じ艦上戦闘機だった
が、迎撃戦闘機であるノスリと比べれば、降下速度は優れていたが、加速力で劣っている。
ただ、水平速度は圧倒的にペトレルの勝ちだ。増槽を切り離し、ラダーを入れ、機体の動
きをちらりと確認したイライは、他の三機を連れて一気にペトレルの編隊に襲いかかった。
そのときすでに先行していた四機のサシバは全滅しており、空軍機であるイライたちの編
隊がまず相手をするほかなかった。後方から海軍機が全速力で向かっているはずだが、腹
が立つほどに彼らの足は遅かった。
 双発のペトレルと遭遇するのは、そのときのイライは二度目だった。一度目がいつだっ
たのか、もう憶えていない。憶えているのは、ペトレルがやたらと直線速度が速いことと、
そのかわりに旋回性能が著しくノスリに劣っていたことだ。きっと今乗っているX型でや
れば、もっと楽に勝てただろう。イライたちは旋回戦に持ち込んだ。ペトレルから速度を
奪えば、ノスリが優位だからだ。どこかで聞いた話だ。イライは思う。
 イライは機関砲弾の装填ボタンを押し、小気味よい音を立てて二十ミリ対空機関砲が発
砲可能状態になったのを冷めた思考の端で知る。そして撃った。はずれるはずがなかった。
飛び込んできたイライたちのノスリから逃げようと、二機のペトレルが左旋回から急な右
旋回に入る瞬間、その一瞬を狙った。弾筋は見なかった。当たるのを確信したからだ。視
界の端に鮮やかなオレンジ色の炎が上がり、ウィングマンが撃墜を報告してきた。奴も同
時に狙ったが、撃墜したのはイライだった。もう一機のペトレルは逃げた。自慢の速力を
生かして、味方と合流しようとしたのだ。それを見ても、ペトレルの加速力がノスリに及
んでいないのがわかった。追えば撃墜できただろうが、深追いはしなかった。さらに遠く、
敵の編隊十数機が接近しているのを、後続の海軍機が知らせてきていたからだ。海の上で
の空中戦は、それにしても自分の感覚があてにならなくなる。計器を意識しなければ、空
と海が溶けてしまうのだ。イライはそのとき、三〇〇ノット強の速度を生かしたまま、ゆ
っくりと右に変針した。ウィングマンもついてきた。けれど、ウィングマンは、奴は、バ
ックミラーを見ることも、振り返ることもしなかったのだろう。イライたちの編隊の上空
から、三機の敵機が逆落としになっているのを、運悪くイライもウィングマンも気付いて
いなかった。なぜだったのか、今でも思い出せない。太陽の中にいた? もうわからない。
憶えていない。
 曳光弾がイライのノスリの右主翼端を掠めていったのを見た。そのとき初めて振り返っ
た。反射的に操縦桿を引きつけた。ただし、緩やかに。機体は機首を上げ、スロットルを
全開にした。ウィングマンを探すと、奴は黒煙を吹いていた。エンジンカウルに大穴があ
き、左主翼のフラップもエルロンもなくなっていた。
 逆落としで襲ってきたペトレルは、イライたちの編隊からやや離れた場所で引き起こし、
イライの照準環に入る間もなく猛烈な速度で左方向へ去った。イライは無線に叫んだ。そ
のとき味方のノスリ八機は、三カ所に分かれて戦闘中だった。被弾したウィングマンは、
もはや帰還することも難しいほどのダメージを負っていた。イライは無事だったが、もう
その時点で戦意のほとんどを喪失していた。なぜだったのだろう。ウィングマンは徐々に
高度を下げていく。脱出しろ、そう命令した。ウィングマンは緊急脱出ハンドルを引かな
かった。無線に対する呼びかけにも応答しなかった。回避行動を取りながら、イライが彼
の機体を向くと、ウィングマンの機体は、キャノピーが粉々になっていた。その時点で、
イライはウィングマンがすでに逝ってしまったことを知った。見えるはずのパイロットの
身体が見えなかったからだ。脱出したわけではない。パイロットごとコクピットを撃たれ
たのだ。奴の機体は緩やかに背面飛行に入り、そして急激に高度を下げた。爆発はなく、
黒煙を曳いたまま、海面に激突し、派手な水しぶきを上げた。そこまでをイライは見届け
てしまった。
 あの日の戦闘で、イライたち空軍機は、四機を失った。海軍機は、……知らない、憶え
ていない。ただ、空母は無事だったはずだ。敵機は、基地に戻ったイライが聞かされたと
ころで、七機が空軍、海軍双方により撃墜されたという。どちらが何機を墜としたのか、
あるいは空母に随伴する艦が撃墜したのかは、当時の飛行隊長は教えてはくれなかった。
おそらく彼も知らなかったのだろう。
 そのあと十数回出撃し、何人かの同僚を失った。みな、海の上に墜ちた。そして、今の
基地へ転属になった。戦闘機もW型から、新型のX型に変わった。何年前の出来事だった
のだろう。今の自分と当時の自分に連続性があるのだろうか。イライは電車がブレーキを
かける金切り声を聞き、膝の上のカタバミの存在に気付く。ここは第五空軍時代の離島で
はない。今の自分は、当時の自分ではない。では、いったい誰だ。
 気付けば、乗客の顔ぶれが変わっていた。あの大学生風の若い男は姿を消し、夫婦の姿
もなかった。少女たちが嬌声をあげていた。彼女らは何が楽しいのだろう。イライのやや
離れた隣席に、杖を抱えた老紳士が座っていた。灰色のあごひげをたくわえ、チャコール
のコートを着ていた。やはり、フライトジャンパ姿の自分は異質だった。あの離島の基地
では、こういう気分を味わったことがなかった。島の住人は、大半が空軍の兵士たちであ
り、多数派だった。けれど、ナヨシの町では、自分たちは少数派なのだ。乗客たちは、パ
イロットがどういう職業なのかを知っているのだろうか。それを質す気もしなかった。
 やがて、車内放送が目的の電停に近づいたことを知らす。キリウから教わった停留所の
名だ。ハスミが収容されている病院は、市内でももっとも規模の大きな病院だという。ハ
スミはそこまで重傷だったろうか。エプロンで泡まみれになったノスリから引きずれ出さ
れた彼の姿を見て以来、イライはハスミに会っていない。彼の負傷状況も、詳しくは知ら
ない。聞かなかったからだ。会えばわかる。
 イライはポケットから硬貨を取り出した。そしてふと、前任地の空を思い出した。あの
基地の空は、にじんだような青だった。ここのような、澄んだ色ガラスのような色ではな
かった。あの基地は、まだあの島にあるのだろうか。取り出した硬貨は、冷えていた。

 停留所は、町から丘陵に上がった途中にあるようだ。通りからナヨシの街並みが見渡せ
た。空からは何度も見たが、この角度から街並みを眺めるのは、もしかすると初めてかも
しれない。イライは枯葉がびっしりと散った街路を歩く。煙草を喫いたいと思ったが、や
めた。閑静な住宅街だった。生け垣をまわした家が何軒か。キリウが示してくれた住所へ
は、まず通りを折れる。その角に黒く大きなセダンが停まっていた。風が吹き上げてきて、
枯葉が舞った。海風ならぬ、川風だ。
 病院は角を曲がるとすぐ正面に見えた。白い壁で、下から数えると七階建てだった。上
品な建物だと思った。それは普段、迷彩塗装を施した掩体だの、モスグリーンに塗られた
指揮所だの、そういった愛想のかけらもない建物に囲まれて暮らしているからかもしれな
い。かといって、イライは今さら、こんな上品な住宅街に埋没してしまいたいとも思わな
い。何となく、遠くへ来てしまった、そう感じた。
 病院のエントランスは明るく、暖房が入っていた。常緑の観葉植物の鉢が並んでいて、
受付でハスミが収容されている病棟を聞くと、顔色のやたらいい若い看護婦が笑顔を含ん
でエレベータを指さした。あれで上れという意味らしい。イライはまず煙草を喫いたかっ
たが、手に持ったカタバミの花束が、それを許してくれなかった。ハスミに会うのが、今
になって恐くなった。なぜだ?
 エレベータは広かった。ストレッチャーごと移動できるようにするためだ。意味もなく
自分が艦載機になったような気がした。以前空母に乗ったときに見た、艦載機用のエレベ
ータを思い出したからだ。けれどイライは艦載機でもなく、空母に着艦したこともない。
海軍のパイロットは空軍のパイロットを揶揄する。動きもしない滑走路に着陸するなんて、
訓練生でもできる、と。そうかもしれない。そんな揶揄も、イライには無意味だった。イ
ライは海が好きではない。空と溶けてしまうからだ。まして、空母に乗り組むなんてとん
でもない。あそこは人間関係がややこしすぎる。
 エレベータは七階で止まった。最上階だ。ハスミが収容されているのは、七○七室だと
いう。エレベータを出ると、清潔そうな廊下がまっすぐに続いていた。アルコールの匂い
がする。酒ではない、エタノールの匂いだ。この匂いは嫌いではなかった。もっとも、イ
ライはガソリンの匂いの方が好きだ。オクタン価一〇〇の航空用ガソリンだ。
 病院と花束は、相性がいいのかもしれない。少なくとも、フライトジャンパよりは。す
れ違う看護婦たちはみな、カタバミの花束よりもイライのフライトジャンパを一瞥した。
これならば、キリウの杞憂をそのまま受け入れ、制服で着た方がよかったかもしれない。
こういう機会を考え、今度から制服にアイロンをかけておこう。いや、その前にクリーニ
ングだ。
 ナースステーションは出撃を控えたディスパッチャー席よりあわただしく見えた。そこ
を通り過ぎ、部屋のナンバーを見ながら、たどり着いたのが七○七号室だった。四人部屋
で、部屋の入り口横にプレートがあり、ハスミの名があった。どこにも彼がパイロットで
あることなど書いてはいない。当たり前か。スライドドアは開け放たれており、入ると窓
の大きさがまず目に入った。そして、ハスミは向かって右奥の窓際にいた。来訪者に耳ざ
とくなっているのか、目を閉じていたハスミは、イライが部屋に入ったとたんに目を開い
た。瞬間、イライはここに来たことを後悔した。
「やあ、イライ」
 ハスミはベッドに横たわっていた。しばらく会わないうちに、彼は痩せていた。
「めずらしいこともあるもんだ」
 かすれがちな声でハスミ。声に張りがない。一気に五歳は老け込んだような顔をしてい
た。イライに傍の椅子にかけるように勧めた。
「それは、見舞いの品か」
 カタバミの花束を見て、ハスミは笑った。いや、笑ったようだった。左の頬に大きく絆
創膏が貼られており、頭には包帯が巻かれている。そうか。お前はそんな怪我をしたのか。
今の今まで知らなかった。知らなくていいことと知らなければならないことがあるなら、
眼前のハスミの容態は、どちらだったのだろう。イライは思う。
「よくそんな花、見つけたな。どこに咲いていた」
 ハスミは起きあがろうとした。動きが緩慢だった。あの日の彼の機体のように。
「買った。今どき、こんな花は咲いてない」
「そうだな。今朝方は雪が降ったしな」
「雪?」
「気付かなかったか」
「いや」
「明け方、ちらついたんだよ。ここからはよく見える」
 そう言って、ハスミは顔をしかめつつ身体を起こした。布団に隠れていた右腕が見えた。
操縦桿を握る方の腕だ。二の腕に包帯がぐるぐる巻きになっていた。
「見晴らしがいいだろう。動かない街並みもいいもんだよ」
 ハスミが言う。怪我のことには言及しない。あるいはイライが訊くのを待っているのか
もしれない。
「花瓶はないのか」
 ようやく口を開いたイライから出た言葉はそれだった。
「さあ」
 ベッド脇のサイドテーブルに、水差しがあったが、飲料用のそれにカタバミを入れるわ
けにもいくまい。と、水差しの横に一輪の花が生けてある「何か」を見つけた。気がつか
なかった。
「なんだ、これは」
 イライが見ると、青く小さな花が一輪、生けてあった。花の名前は、やはりイライには
わからない。ただ、イライにもわかるものがあった。青い花を生けてある、その容器だ。
「誰だ、こんなものを持ち込んだのは」
「リンドウだ。秋の花だよ」
「花の話じゃない」
 そのリンドウとやらは、二十ミリ機関砲の空薬莢に生けてあった。小さく可憐なリンド
ウの花を生けるにはちょうどいい大きさかもしれない。それにしても、どこの誰だ、病院
に機関砲の薬莢を持ち込むとは。
「新型機のパイロットさんだ。それを持ってきたのは」
「なんだ?」
 言われて、真っ先に考えたのはあのヨノイという名の大尉だった。
「あの男か。殊勝なことをする。それにしては冗談が過ぎるようだな」
「違う違う。女の方だ。カンナリ少尉か。彼女が来たんだ」
 言われ、イライはカタバミの花を持ったまま、しばし立ちつくした。
「ユウが」
「あんたの娘だそうじゃないか」
「……」
 窓からは確かにナヨシの街並みがよく見える。ソラノ川のやたら広い川幅も。その向こ
うに茶色と黒々とした針葉樹のまだら模様は、基地だ。赤い鉄橋もここから見える。
「いつ来た」
 イライが問うと、ハスミはしばらく考え込むようにして、そして半身を起こしていた身
体を再び横たえた。
「忘れた。ここにいると、時間の感覚がなくなる」
「あいつが来たのか」
「その、リンドウの花を持って。お前と同じように、花瓶を最初は探していたが、たぶん
見つからないことも予想したんだろう。あの子は俺に謝りながら、それに生けたんだよ」
 イライはカタバミの花束を持ったまま。
「機関砲の空薬莢なんて、いい趣味じゃないか。もしかしたら、そいつは、俺を狙ってた
敵機を撃ち墜とした弾かもしれない」
「言葉がないよ」
「なんでだ。俺は気に入ったよ」
「節操がない」
「世間知らずなんだよ」
「それは、俺もだ。病院に見舞いの品を持ってきて、花瓶がないとは思わなかった」
「探せばあるかも」
「この花束を生けることができる空薬莢か。戦車砲の薬莢でも持ってくるか」
 冗談のつもりはなかったが、イライの言葉にハスミは笑った。空咳のような笑い方だっ
た。その姿を見て、イライは暗澹たる気分になった。もしかすると、ハスミは二度と戦闘
機に乗れないのではないか。そう思ったからだ。
「それにしても、どうしてそんな季節外れの花を持ってきた。よく見つけたな」
 ハスミはまた半身を起こした。つらそうだ。イライはさらに起きあがろうとするハスミ
を制した。
「いつだったか、俺にこの花の花言葉を教えてくれたのは、ハスミ、お前だ」
「そんなことを言ったか」
「俺は憶えてる。『心の輝き』。違ったか」
 言うと、ハスミは苦笑した。声に出さず、唇を歪めた。
「そうだ。いつの話だったかな。そんな話もしたかもしれない」
「俺はよく憶えてる。お前はパイロット向きじゃない、そうも思ったよ」
「じゃあ何に向いている」
「絵描きか詩人だな。どうだ、今からでも」
 イライが言うと、ハスミは顔を曇らせた。それも、露骨に。
「俺がもう飛べないと、そう言いたいのか」
 予想外に鋭い言質だった。
 イライは窓を向き、街並みを一回り眺めると、ハスミを向いた。
「怪我の具合はどうなんだ」
「見ての通り、と言ってもわからないか。俺は運がよかったそうだ。俺は憶えちゃいない
が、あれだけ被弾した機体で帰還できたこと」
「憶えていないのか」
「すまないが、憶えていない。どうやって基地まで飛んで、どうやって着陸したのか、ま
るで」
「そうか」
「そして、あれだけ弾をぶち込まれて、俺自身には一発も当たらなかったこと」
 イライは黙ってうなずく。
「けれど、コクピットは火災を起こしていた。この傷はそれだ。火傷なんだ」
「重いのか」
「この程度で済んだのが奇跡だそうだ。運がいいとさ」
「よかったじゃないか」
「よかったのか。本当に」
「なぜだ」
「右手の握力が戻らない。火傷もしたが、撃たれたときどこかにぶつけたのか、それとも
破片がやはり当たっていたのか。右手の握力は、前のとおりじゃない」
 イライはベッドサイドのリンドウを眺めていた。青、紫、そんな色。どこで摘んだのか。
摘んだわけではあるまい。もしかすると、イライが今も手に持つカタバミと出所は同じか
もしれない。
「リハビリをすればいい」
 イライは小銃を持つように、花束を持ち替えた。
「それ以前に」
 ハスミは視線をリンドウからイライへ、そして窓の向こうへと移す。
「恐いんだ」
「なにがだ」
「飛ぶことがだ」
 晴れている。色ガラスのような空だ。真っ白な雲が、ソラノ川の向こう、ちょうど基地
のある方角に湧いていた。
「俺はもう飛べないかもしれない」
 ハスミが小さくつぶやいた。
「バカなことを」
「そうかな」
「違うのか」
「さっきあんた、俺に言ったじゃないか。今からでも、絵描きか詩人になれと」
「冗談だ」
「それにしちゃきつい」
「すまなかった」
 イライが言うと、ハスミが笑った。空咳のように。
「あんたが謝るなんてね。はじめて聞いた」
「そうか」
「それに、見舞いだ。親子揃ってとは。案外義理堅いところもあるんだな」
「それは皮肉か」
「正直な気持ちだよ。あんたたちは不器用なんだな。そう思ったよ」
 看護婦が来た。検診か。一言二言、看護婦はハスミに声をかける。それにハスミは応じ
る。基地にいたときよりも、ずっと繊細そうな声音だった。あるいはいまのハスミが本当
の姿なのかもしれない。戦闘機を降りた彼が、本当の姿なのか。自分も、戦闘機を降りた
とき、本当の自分に戻るのか。ではいったい、本当の自分とは何だ。そんなものがあるの
か。
「きれいな花ですね」
 看護婦が言ったが、それが誰に向けられたものなのかイライはわからず、黙っていた。
「何という花ですか?」
 看護婦の目がイライのフライトジャンパから彼の目に移った時点で、彼女がイライに訊
いているのだとわかった。
「カタバミ」
 一言で答えた。
「花瓶、持ってきましょうか」
 看護婦は、いくつくらいだろう。若い。ここの看護婦も、すれ違ってきた医師たちも、
みんな若く見えた。イライは看護婦の申し出を受けた。ここに戦車砲の薬莢があるとは思
えなかった。看護婦はイライからカタバミの花束を受け取り、部屋を出て行った。
「見舞いに来たのは、ユウと俺だけか」
「キリウも来た。それだけだ」
「俺は三番手か」
「順番なんて関係ない。あんたが来ること自体、俺は予想もしていなかったよ。不意打ち
だ」
 ハスミはやはり痩せた。いや、痩せた、という言葉は当てはまらない。彼は、やつれた。
「なあ、イライさん」
 再び横になったハスミが言う。
「なんだ」
「リンドウの花言葉、知ってるか」
 にやりと笑ってハスミが言う。
「知ってるも何も。俺はこの花の名前も知らなかった」
「正義、だよ。正義」
 ハスミが言い、イライは黙っていた。
 二十ミリ機関砲弾の空薬莢に、一輪だけ生けられたリンドウの花。鮮やかな青。可憐だ
った。ユウは、この花一輪だけを持ってここに来たのか。花束ではなく。
「俺が苦手な言葉だな」
 イライは応えた。
「ひとつ、訊いていいか」
 ハスミが問う。
「なんだ」
「あんたの娘は、カンナリ少尉は、……純粋培養か」
 イライは即答しない。その間に、先ほどの看護婦が花瓶に生けたカタバミを持って戻っ
てきた。黄色いそれは、リンドウのように可憐だった。どちらも野花だ。ユウがなぜリン
ドウをたった一輪持ってきたのかはわからない。ハスミが言った花言葉が象徴するなら、
正義はひとつでいいということか。そんな思慮が彼女にあるような気がしない。いや、わ
からない。
「なあ、どうなんだ」
 ハスミがなおも問う。
 看護婦が一礼して退室していくのを見送り、イライはようやく口を開く。
「俺が純粋培養に見えるか」
「それが答えか」
「違うか」
「はぐらかされた感じだ」
 イライは小さく笑う。声に出さず。
 イライは再び窓に目を向ける。飛びたい、と思った。自分の飛行機はもう直っている。
ハーモニゼーションも二日前に調整された。いつでも飛べる。今日が休日なだけだ。
「空ばかり見てる」
 ハスミが言った。力なく。
「窓が大きいだろう。よく見えるんだ。さっき、四機上がったな」
「見えるのか」
「見える。ノスリが四機だった。違うか」
「そうだ。誰が上がったのかは知らないが」
「飛行割りを見てこなかったのか」
「今日は休みだからな」
「あんたらしいよ」
「どういう意味だ」
「そのままの意味だよ」
 ベッドサイドに、リンドウとカタバミが並んだ。花瓶は白いセラミック製のもの。模様
もなく、まるで高圧線の碍子のような材質だ。リンドウは、一輪、機関砲の薬莢に正義を
ささやかに主張していた。機関砲弾が正義だというのだろうか。俺たちの戦争に、正義が
あるのか。きっとあるのだろう。どこかに。探せば。けれど、関係ないとイライは思う。
敵がいるから俺は飛ぶ。やはり、俺は飛ぶことに理由を探している。
「そろそろ、俺は帰る」
 イライは腰を上げた。居心地のいい病室かもしれない。四人部屋に、ハスミはたった一
人だった。軍の意向か、それとも病院側の配慮か。だったら個室をよこすだろう。イライ
は前者の意思を感じた。
「今度は、基地で会おう。待ってる」
 イライは言った。空虚かもしれない。言ったあとで自分の言葉の響きに気付く。
「ありがとう」
 ハスミは、一言、そう言った。そう言うと、イライから視線をはずし、窓へ向いた。
 イライは、ハスミの視線をたどる。
 空と、町と、川と、赤い鉄橋と、森と、その向こうに平原。基地。
 やはり、制服で来ればよかったと、イライは悔いた。フライトジャンパは、戦闘機の匂
いが強すぎた。見舞いに着てくるべきではなかった。
 煙草を喫いたいと思っていたことを、イライは今、思い出した。


(2005-09-16)




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