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帰還者V

 
 定時の気象通報を自室で聞いたあと、私はスチームのバルブを開けたまま、部屋を出た。
淡い緑色をしたドアは重く、そして軋む。<機構>が大量に建設した労働者向けの高層住宅
は、この街のいたるところに建てられた。表向きには労働者向け。だから賃貸料も安価だ
った。けれど、実のところは帰還者向けの収容所だということを、市民はみんな知ってい
た。私自身も知っていた。知っていて住んでいた。私が帰還者だったからだ。
 十七街区の空気は驚くほどに冷たく、部屋を包んでいた温もりは、<機構>が市民に提供
しているものと変わらないことに気付く。スチームだけは立派なのだ。凍てついたアスフ
ァルトはひび割れだらけで、高台に立てられた高層住宅街からは、港湾地区が見渡せた。
今日はあいにくの曇天だ。今にも雪が落ちてきそうな空。私は一瞬空を仰ぎ、そして外套
のポケットから煙草を取り出してくわえた。ブルーの地にロケット、そして黄色い毛をし
た犬が描かれたパッケージで、この管区で販売されている煙草の中では、唯一うまいと思
える銘柄がこれだ。ライターは年季もので、そのへんを駆け回っている子どもたちよりよ
ほど年を食っている。けれど私ほどではない。普段は点きが悪いが、今日は一発で火が点
いた。風はなく、凍えそうなほどに寒い他は穏やかだった。風がないから埃も舞わない。
 私は煙草やメモ帳、ペンの他は何も持っていない。仕事の道具はすべて二街区の仕事場
にある。手ぶらだ。煙草の煙を吐き出しながら、私は自分の吐息が匂わないか確かめた。
昨夜も飲み過ぎた。一人で飲み始めて、気付いたら眠っていた。そんな日々が続いていた。
 気象通報は目覚まし代わりだ。午前八時。南から順に定点の天候を読み上げる。その気
になれば天気図を書くこともできるが、私の腕はきっともう落ちている。
 轟音に振り返る。白いヴェイパーを曳いて、海軍の12式戦闘機の二機編隊が、低高度で
過ぎていく。ノズルは閉じている。そこまで見える。封じ込められた私の記憶やその他諸々
の感情が、閉じた箱の中ではね回る。それを押し込めて、私は煙草を喫った。
 北方戦域から傷ついた兵士たちを乗せ、苔色の大型輸送機がきっと今日も街外れの基地
にやってくる。私は彼らを取材するつもりだった。一度、二街区の仕事場に寄って、商売
道具の小型カメラ、マイクロレコーダ、そしてターミナルを携帯し直し、もし社有車が空
いていればそれに乗って空軍の基地まで向かうつもりだ。
 私は飛び去っていく12式戦闘機をいつまでも追っていた。私は歩を止めていた。市街電
車の停留所へ向かうつもりだったのに、二機編隊の戦闘機が私の心を惑わせていた。惑い? 
惑うはずもない。私の記憶やその他諸々はすでに封じ込められているはずだ。なのに、な
にかがはねて回っている。私は外套の襟を立てた。寒い。曇天。港湾地区へ目を向ける。
目を向けるだけなら、<機構>も何も言わない。カメラを向ければどうなるかわからない。
私が目を向けるだけならば問題ない。
 一本の煙草を根本まで灰にすると、市街電車の甲高い警笛が聞こえた。

 下り坂のはずれで電車を降りる。ここは評議会が運営するマーケットに近い。そして、
私が勤務するちっぽけな出版社へ出勤するには、マーケットを抜けていくのが最も近い。
中心街に居を構えておきながら、私が籍を置く出版社は、市街電車の停留所からは遠い。
 マーケットは賑わっていた。人いきれでむっとしていた。天蓋もなく、ただ露店が延々
と続いているのに、ここだけ屋根があるかのように暖かい。それは無数の人々が往来する
熱気に由来しており、少なくとも私はこうした場所が嫌いではなかった。今は。以前はど
うだったのかわからない。私は<機構>以上に私自身のことを知らない。知っていたのかも
知れないが、忘れた。忘れた? 封じ込められた。私は胸の中で言い直す。
 マーケットを歩く。朝食は出版社でとるつもりだった。だからマーケットは通り道以外
の意味はない。が、積み上げられたみずみずしいオレンジを見つけ、一個買おうかと私は
足を止めた。北方管区に位置するこの街で、しなびていないオレンジを目にする機会は多
くない。まともな帰還兵士と出くわす確率より、ずっと低い。だいたいがしわだらけでか
さつき、やたらと分厚い皮を持った奴らばかりだ。まるで北方戦域から帰還してくる兵士
たちのように。彼らは一様に精神障害を患っている。海峡を越えると狂ってしまうのか、
それとももともと狂った奴が北へ向かうのか、戦闘のさなかに狂気に犯されるのか、私に
はわからない。きっと私も患っていたのだと思う。それも、みんな封じ込められた。だか
らきっと、封じ込められたその他諸々を解き放つとき、鎮められていたはずの狂気もきっ
と、私の中によみがえるに違いない。
 私はパイロットだった。
 いや、パイロットだったはずだ。当時の記憶はすべてなく、私が覚えているのは、北方
戦域と呼ばれる彼の地で見たワタスゲの原だけだった。それはすべてが終わったあと、私
が回収されるまでに見た景色のすべてであり、私にとって北方戦域といえば、あのワタス
ゲの原を意味していた。穏やかで、暖かく、ワタスゲの原の向こうには、名前もわからな
い花々が咲き乱れる草原が続いていた。美しかった。
 けれど、と思う。
 あれが<機構>に作られた記憶ではないと、そういえる保証があるのだろうか。
 もしかすると、あのワタスゲの原はすべて、<機構>が私に植えつけた、偽りの風景かも
知れない。凍てついた土が数百メートル直下まで続くといわれる彼の地において、私が思
い出せるような花畑やワタスゲの原が存在するだろうか。否。私の知識が否定する。永久
凍土が続く大地は膿んでいる。気温が上がれば、湿地になる。美しいとは呼べない地域だ。
やはり、私の記憶に横たわるあの風景は、すべてが幻なのだろうか。私は店頭に積み上げ
られたオレンジを前にして、しばらくは別な景色を探していた。
「買わんかね?」
 露天商に呼ばれるまで、私は固まっていたのだと思う。フリーズだ。言葉通り、凍り付
いていたのだ。
 私は露天商の言葉をかわして歩き出した。午前九時。出勤時間だ。港湾地区から霧笛が
響く。おそらく、港に停泊している北方艦隊の巡洋艦の霧笛だ。ふと、鼻腔に冬の匂いが
した。たき火の匂いのような、懐かしい匂いだ。私は瞬きをした。そして、雪が舞い降り
てくるのを見た。
 雪の結晶がひとつ、私の外套の肩に舞い降りた。

 四階建て。コンクリート造り。彩りのかけらもなく、愛想もない建物。それが私の職場
だった。市民がほとんど読まないような機関誌を出版し、それで食いつないでいる会社だ。
<機構>の資本は入っていなかったが、ここの総務部は私を受けて入れてくれた。ターミナ
ルから個人認証を入力すれば、私の経歴は知れたはずだ。それでも入社を許された。もし
かすると、私の経歴がそうさせたのかも知れない。総務部の主任はごくごく普通の市民で
あり、従軍経験はなさそうに見えた。だから知らないのだ。私の経歴と、現在の私の接点
を。私の経歴にたいして、私はほとんど接点を持っていない。<機構>に封じ込められたか
らだ。彼はおそらく、私が元空軍パイロットであり、北方戦域から生き残って帰還した士
官であると、そのことが気に入ったのだ。
 入り口の扉のガラスはくすんでいた。もともと磨りガラスのはずはない。なのに誰も吹
かないから、エントランスの向こうが見えない。
「おはよう」
 受付のヒガに声をかけると、彼女は目だけを私へ向け、ひとつ瞬きをした。それが彼女
のあいさつだと知るまで、三ヶ月かかった。
 私の仕事場はここの二階の一室で、さらに私のデスクはその一室の隅の隅だった。同僚
はいたがほとんど声をかけることもかけられることもなく、私は原稿を個人ターミナルか
らホストへ移送するときと、その他の書類に目を通すとき以外は机に座らない。だからこ
こでの私の立場は微妙だった。どういうことか、市民はすぐにわかるようだ。帰還者か帰
還者でないか。総務部の主任が口外したわけではないと思う。私の持っているなにかが、
市民を遠ざけているのだ。もしかすると、入社して早い段階で、私が十七街区に住んでい
ることを知られたからかもしれない。あの街区あたりへ出かける市民はほとんどいないか
らだ。
 デスクにつくと、はす向かいのニダが声をかけてきた。九時を少し回ったばかりなのに、
ニダは出勤してもう半日は経ったような顔をしていた。
「なんだ」
「局長が探していた」
「なぜだ」
「知らん。直接聞け」
 言うだけ言うと、ニダはキーボードを叩きはじめた。猛烈なスピードで。それだけの速
度をもってして仕上げなければならない分量の原稿を、彼は持っていただろうか。考える
のはやめた。私は引き出しの鍵を開け、中からとりだした個人ターミナルの電源を入れた。
市民はみなこのターミナルを携帯している。<機構>の構成員ならさらに高機能なタイプを
肌身離さない。私は市民ではなかった。<機構>の構成員でもなかった。ただの帰還者だっ
た。そのはずだった。が、ターミナルを与えられていた。はす向かいのニダはどうだった
ろう。彼もターミナルを所持していただろうか。彼は市民のはずだ。思い出せなかった。
電源を入れた私のターミナルは、私宛のメッセージが今日もないことを知らせてくれた。
モニタリングシステムは私が小細工をして解除してある。本来は追跡機能を有するこのタ
ーミナルを、だから私は携帯せず、デスクの鍵付き引き出しに放り込んでいた。モニタリ
ングされるのは、コクピットの中だけで十分だ。が、私には当時の記憶がなかった。



(2006-04-26)





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