天使の梯子 → → → → → → →



  プロローグ

 
   プロローグ



 地下鉄の駅を出ると、雨はすっかり上がっていた。
 その日は朝から雨が降っていた。冷たい雨だった。授業中、宏佳は時折頬杖をつきなが
ら、雨に煙る街並みを眺めた。もうひとりの「わたし」もまた、同じように雨に煙る街並
みを眺めているのだろうかと想像しながら。もうひとりの「わたし」もまた、「もうひとり」
のわたしに思いを馳せているのだろうか、と。
 六時間目が終わり、昇降口を出たときも、まだ雨は降っていた。小雨にはなっていたけ
れど、吐く息が白かった。傘の端から見上げた空は乳白色で、葉を散らしたニセアカシア
の木は、みな黒々と濡れていた。湿気を吸ったブレザーが、少しだけ重く感じた。吹き込
んでくる風はすっかり冬の匂いがしていたし、肌寒かった。両手を顔の前でこすり合わせ
て、そっと息を当てる。暖かかった。わたしは、生きている。
 地下鉄を降り、駅の歩きなれた階段も濡れていた。背後から吹き上げる生暖かい風が、
階段を駆け下りてくる冷気と混ざり合う。局地的な寒冷前線。最後の段はひとつ飛ばした。
 待ち合わせ。
 地下鉄の出口を出て、バスターミナルへ向かう途中のレコードショップの前が、ふたり
の待ち合わせ場所だ。すっかり雨は上がり、ぶあつかった雲はいく筋かに分かれ、そこか
ら晩秋の陽射しが街に差し込んでいた。回送するバスや客を乗せたタクシーが巻き上げる
細かな水しぶきは、傾いた陽射しにきらめき、アスファルトもビルも信号機も、薄く透明
な膜をまとってきらきらと光っていた。
 美しいと思った。
 左手に傘を持ち、宏佳はしばし街路を眺めた。時計を見るのも忘れて。
「雨、晴れてよかったね」
 声をかけられたとき、宏佳は瞬きも忘れて、宙を舞う幾千もの水の雫を追いかけていた
最中だった。
「待った?」
 振り返ると、もうひとりの「わたし」がいた。未佳だ。
「待ってない。今来たばっかり」
「本当?」
「本当」
 紺色に近い茶色の瞳。それが夕日を受けて透き通っていた。セーラー服姿のもうひとり
の「わたし」は、息が少しだけ上がっていた。
「走ってきたの?」
「バス、一本乗り過ごしちゃって。待ってると思ったから」
 未佳の肩まで伸びた髪が、わずかにしっとりと水気を帯びて見えた。右手にはたたんだ
傘が握られていた。
「スカートに泥、はねてないかな?」
「大丈夫」
 そう言って宏佳は微笑んでみせた。それに応えて未佳も微笑んだ。ふたりの笑顔はよく
似ていた。着ている制服は違っていたが、背格好はほぼ同じ。違うのは髪の長さくらいか。
そしてふたりとも同じ表情で笑う。ふたりとも、笑うと丸い目が細くなる。口許にできる
えくぼも同じ形だった。
「ねえ、どこか寄っていかない?」
 未佳が言った。
 宏佳は答える。
「いいよ。寄り道、していこう」
 未佳はステップを踏むように弾んで、笑顔を、控えめなそれを宏佳に向けた。
「どこへ、行こう」
 ひとりごとのようだった。つぶやくように、未佳。
「どこでも。君が行きたいところがあるんだったら、どこでもいいよ」
 宏佳が答えた。
「じゃあ」
 宏佳を振り向き、未佳が言う。
「『虹の丘』、はだめかな」
 短めのスカートに泥はねがないか、未佳はまだ気にしていた。
「……いいよ。行こう」
 雨上がりのアスファルトの上を、ふたりは歩き出す。
 空は、雲の流れが早かった。雲の切れ間ができては消えた。そのたび、街は明るくなり、
昏くなった。ふたりはところどころに口を開けた水溜りをよけて歩きながら、南郷通の交
差点を渡った。風が冷たさを増していた。もうすぐ、季節が変わる。
「雪虫」
 セーラー服の襟を風に揺らして、前を行く未佳が振り向いた。
「どこ?」
 宏佳は立ち止まり、雨に濡れアスファルトに張り付いたニセアカシアの葉を踏みしめる。
「ほら」
 振り向いた未佳は立ち止まり、襟についた白く小さな粒を指先にとり、差しだした。
「雪虫」
「本当」
 後を歩いていた宏佳は、未佳の指先にのせられた極小の季節の使者を、見つめる。
「もうすぐ、初雪ね。きっと」
「だね。きっと」
 ふたりはまた微笑んだ。
 ふたりの横を路線バスが過ぎていく。無数の水しぶきが巻き上げられ、陽を受けて輝い
た。それは、この季節の夕方、無数のかたまりになって宙を舞う雪虫の姿にも似ていた。
ひとつの季節が、もう間もなく終わろうとしている。
 厚別中央通からそれてしばらく住宅街を歩く。濡れた落ち葉がアスファルトに張り付き、
それは過ぎる季節が時間を惜しんで作った押し花のようにも見えた。架空線が風に鳴り、
短めのスカートをはいた未佳は、両手を顔の前ですり合わせ、「寒い」とつぶやいた。
「やっぱりスカート、短いんじゃない?」
「かもしれない。……寒い」
 細い身体を一度震わせて、笑う。濡れた落ち葉を踏みしめながら、公園の小さなゲート
を過ぎた。
 虹の丘公園は、住宅街を歩いた先の丘陵に広がる広い公園だ。ふたりの自宅からそう遠
くなく、そして近すぎることもなかった。だからふたりはこの公園が好きだった。自宅の
匂いがギリギリ届かないい距離。それが心地よかった。
 公園の街路灯が青く輝いていた。葉を枯らした木々の向こうで街の明かりが瞬き始めて
いた。先ほどまで顔をのぞかせていた太陽は、また雲の向こうに隠れてしまっていた。
 丘の上にふたり立ち、しばらく無言で街をながめる。
 公園の丘からは、札幌の街が結構遠くまで見渡せた。左手から羊ケ丘、正面に藻岩山、
そして中心街。ぽつんと見える塔はテレビ塔。そして、遠く手稲山の稜線。びっしりと埋
め尽くされた住宅街はミニチュア細工のよう。
 道路から距離があるため、騒音もここまではさほど届かない。街の息遣いは、一枚ドア
を隔てた向こうから聞こえる、誰かの寝息のようだった。
 低い雷鳴に似た爆音に、ふたりはそろって空を見上げた。
 鈍い鉛色と乳白色のまだら模様になった雲が流れていた。太陽は、いまは隠されていた。
爆音はとぎれとぎれに、その雲の向こうから響いているように聞こえた。
「飛行機……」
 ふたりのうちのどちらかがつぶやいた。
 かたわらの街路灯が、ぽつんと灯る。風が冷たい。瞬き始めた街の灯りを、ふたりは数
えた。無数の人々の生活が、眼下にびっしりと広がっていた。
 ふたりは並んで、じっと、暮れようとしているたそがれの街をながめつづけた。同じ横
顔。ふたりは双子だ。
「寒い……」
 未佳がまたつぶやいた。唇がかすかに震えていた。宏佳は黙って、未佳の、傘を持って
いなほうの左手を握った。
 快速電車が駆け抜けていく軽やかな音が聞こえた。どこかでチャイムが鳴っていた。知
っている旋律だった。新世界交響楽第二楽章。
「あ」
 声を出したのは宏佳だった。
 未佳は宏佳の横顔を向いた。
 見ると、宏佳の潤んだような瞳が、ある方を向いてとまっていた。未佳は宏佳の視線を
追った。未佳は握られていた左手をそっと離し、足踏みをするように身体の向きを変えた。
「あ」
 手稲山の方向。乳白色の雲が割れ、眩いばかりの光のカーテンが一筋、札幌の街に伸び
ていた。最初一筋だった光のカーテンは、やがて二筋、三筋と数を増やしていき、札幌の
中心街を穏やかに照らしだしていた。
「天使の梯子……」
 宏佳が言った。
「天使の梯子?」
 未佳が訊いた。
「うん」
 いく筋かの光のカーテンは、たがいに接触し、ときに太くなり、あるいは消滅し、街並
みを照らす。淡い光の舞踏のような動きに、明滅する街の灯りが呼応するようだ。冷たい
風がひととき吹き抜けて、葉を散らした木々の枝がか細く鳴いていた。
「『ヤコブの梯子』ともいうの。なんか、いまにも天使が降りてきそうじゃない? ヨーロ
ッパでそう呼ばれているのって、わかる気がする」
 宏佳は光のカーテンを向いたまま、小さく言った。未佳は宏佳の横顔から向き直り、天
使の梯子を目で追った。太陽はまだ沈まず、かろうじて手稲山の稜線の上に浮かんでいる
ようだった。そこから漏れだす光のカーテンは、長い裾をひるがえして、札幌の街を縦横
に照らす。太陽はゆっくりと暮れていく。手稲山の稜線に光芒。光線の角度が変わり、ふ
たりの上空に流れる雲を鮮やかに照らしだす。
「きれい」
 宏佳がつぶやいた。誰にでもなく、ひとりごちるように。
 空は風が強いようだった。雲は一秒として同じ形をとどめようとしなかった。二人が立
つ虹の丘公園は、東部丘陵と呼ばれた。大曲川を挟んで丘陵が向かい合い、野幌の原生林
から続く森や林は、晩秋の空気にさらされて見事な紅葉だった。それらが斜光を浴びて燃
えていた。
「きれい」
 未佳がつぶやく。ひとりごとのように。
 見渡す空も燃えていた。黄金色、空のブルー、そして雲のアイボリー。幾重にも重なっ
た雲の峰と光のカーテンが壮大な夕暮れを奏でていた。遠くの雲は、燐光を煌かせ、わず
かに残る秋の日の輝きを全体で受けとめる。札幌の上空にたなびく柔らかい雲は、それ自
体が秋の夕暮れのスクリーンだった。涙が出そうな色。まさに、空は燃えていた。
 どれくらいそうしてふたりは街をながめていただろうか。未佳は短いスカートを後悔し
ていた。慣れているはずなのに、寒かった。いよいよ、季節が冬に向かおうとしていると
いうのに、素足に吹きつける風は、痛いくらいに冷たかった。両手を擦りあわせ、息をふ
きかけた。街路灯の光をうっすらと浴びる宏佳の横顔は青白く、未佳は不意に、彼女がす
っとどこかへ消えていきそうな、たとえば天使の梯子をのぼり、雲の向こうへいってしま
うのではないかと、そんな気分になった。未佳は、左手を伸ばし、もういちど宏佳の右手
を、こんどは自分から握った。
 宏佳の右手は、吹きつける風のように、はっとするくらい冷たかった。宏佳はまだ天使
の梯子を向いてなにも言わなかった。未佳は宏佳になにか言葉をかけようと思った。けれ
ど、適当な言葉が見つからなかった。それで、宏佳の右手を強く握った。宏佳は未佳の手
を、やさしく握り返してきた。
 宏佳のてのひらは、まだ冷たかった。
 未佳は宏佳の横顔をのぞいた。
「どうしたの?」
 気づいた宏佳が未佳を向いた。久しぶりに声を聞いたような気がして、未佳は言葉に詰
まった。
「寒いね」
 宏佳は微笑んだ。
 未佳は宏佳の瞳を見る。自分によく似た顔、いや、同じ顔といってもいいくらい、自分
と宏佳は似ていると思う。そう、もうひとりの自分。
「寒いね」
 未佳はようやく応えた。風の冷たさを、いまはほとんど感じなくなっていた。慣れか、
それとも。
 宏佳の瞳は、迫りつつある夜の空のような、濃い色をしていた。かすかに潤んで、どこ
までも澄んだ瞳だった。まっすぐに射止められ、未佳は視線を外すことができなくなった。
 握った手は、わずかなぬくもりをようやく感じはじめていた。
 ふたりいっしょだった、晩秋の、穏やかで寒い夕暮れだった。



(2003-12-16)





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