空気が淀んでいた。
部屋に入ると、ずっと閉めきっていたクローゼットを、不意に開けたときのような匂い
がした。日がほとんど入らない窓には、厚手のカーテンがかけられていて、薄暗かった。
窓辺に置いてあるデスクに歩み寄る。テキストの類と英和辞書がブックエンドにはさま
れて、きっちり並んでいた。けれど天板にはうっすらと埃がのっていた。
首をめぐらすと重々しい書棚が見える。天井まで伸びた棚にはすべて本がつめこまれて
いて、マンガ本も混じっていたが、圧倒的に小説が多かった。そして、そのどれもが埃を
浴びていた。悲しくなる風景だった。
ベッドの側の壁には、淡い色で描かれた水彩画が並んでいる。歩み寄り、その筆致を確
かめようと思ったが、そのためには圧倒的に光量が不足していた。それでもカーテンを開
ける気にならなかったのは、自分がこの部屋の住人ではなかったからだ。勝手にカーテン
を開けるわけにはいかなかった。
未佳はしだいに気分が沈んでいくのを感じていた。薄暗い部屋の中で、彼女が描いた水
彩画の一枚でも、その色を取り戻してくれたなら、ここまで気分は落ち込まないかもしれ
ない。が、光を失ったこの部屋で、彼女の色を見つけだすことは難しかった。
彼女、宏佳は絵を描くのが好きだった。エプロンをつけ、頬を上気させて絵筆を握る彼
女の姿が、未佳は好きだった。しかしいまは、もうこの部屋に宏佳の姿を見つけることが
できなかった。宏佳はもう、ここにはいなかった。
今日は、入学式だった。
未佳は着慣れないスーツを着、宏佳にあいさつをしにきたつもりだった。なぜなら、自
分は宏佳の身代わりなのだから。彼女の代わりに、わたしは入学式に出席するのだ。
じっと立っているのがつらくなった。未佳はしゃがみこんだ。そうすると余計に部屋の
暗さ、埃の匂いが気になって、言いようのない孤立感が背後から襲ってくる。きつく目を
閉じ、深呼吸した。未佳が憶えているこの部屋の匂いとは明らかに異質な、淀んだ空気を
思いっきり吸い込んでしまい、わずかながら胃の奥がむかついた。まぶたの裏に絵筆を握
る宏佳の横顔を思い浮かべようとしたが、心のどこかが制動をかけた。宏佳の横顔を、表
情をきちんと思い出せるかどうか、自信がなかったのだ。
すでに肩の筋肉がこわばりはじめているのがわかった。着慣れないスーツのせいだ。早
く脱ぎたかった。
未佳はようやくゆっくりと目を開けた。
そこにあの頃の宏佳が戻ってきてくれはしないかと淡い願望を抱いたが、暗く淀んだ部
屋の空気があっさりと打ち消した。未佳は、埃やカビの匂いではなく、かすかに甘い匂い
をまとった宏佳が、イーゼルの向こうで無心に絵筆を握っている姿を願ったのだ。けれど
目を開いたそこにあるのは、住人を失って久しい日陰の部屋だった。
未佳は立ち上がる。とたんにめまいが降ってきて、姿勢を乱した。よろめくように手を
ついた先には鏡があり、その冷たさに未佳の意識が戻る。そして、未佳は姿見と対峙した。
薄暗い中で、自分の姿はよく見えなかった。それ以上に、この部屋で自分がいまどんな
表情をしているのか、見たくはなかった。それでも一歩、鏡に進んだ。
あのころといまで、いちばん違うのは、髪の長さだった。肩よりも少し伸ばしていた髪
を、入学式を控えてショートヘアにした。だから首筋が寒い。これまでの自分をどこかに
置き忘れてきたような気がして、居心地が悪かった。
行こう。
未佳は踵を返した。
たった数歩で部屋を出られるはずなのに、ドアが遠い。
行くの?
呼び止める声を聞いた気がして、振り返る。いるはずのない宏佳の声を、未佳は聞いた
ような気がした。懇願するような、甘えるような、でも穏やかな声。バイオリンのような、
やさしい声音。
しかし、宏佳の姿はなかった。細かい塵が目の前で舞っていた。廊下から流れ込んでく
る空気と、部屋から流れ出す空気。未佳にとっては、まだ部屋の中のほうが居心地がよか
った。家の中に広がる空気を、未佳は嫌っていた。
部屋を出て、そっとドアを閉めた。
行ってくるね。
口の中でつぶやいた。
午前十一時過ぎ。アスファルトの上には、砂が浮いていた。それが暖かさを増した春風
にのって舞いあがり、目に飛び込む。涙が出た。
新札幌の駅まで歩いて二〇分ほど。空は薄曇り。春のこの時期の札幌は風が強かった。
未佳はショートヘアにしたことを今ごろ後悔していた。なにより耳が冷たかった。なれな
いスーツ姿の自分がどこか無様に思えて、いますぐ家に帰ってしまおうか、どうしようか、
次の交差点で引き返そう、そう思いながら足を進めていたが、気づいたらプラットホーム
に立っていた。滑り込んできた快速電車は満員で、未佳は仕方なくデッキに立ち、流れる
札幌の街に目を向けた。
電車は札幌駅で乗り換えになる。大学は北区のはずれにあって、そこまではまだ三〇分
以上。乗り換えた列車はやはり混んでいて、未佳は同じようにデッキに立った。列車はな
かなか動き出そうとしなかった。開いたドアからは、ディーゼルエンジンの排気が流れ込
んできて、胸が悪くなりそうだった。
発車のホイッスルがプラットホームに鳴り響いたとき、未佳は目を閉じていた。家を出
てからずっと抱き続けている違和感が、しだいに膨れ上がり、こらえるのがつらくなって
いた。まだドアは開いている。列車を降りるなら、いまだ。まだ間に合う!
未佳は目を閉じたままだった。ドアはまだ開いたまま。誰かが駆けてくる気配がした。
はやく、はやく、お母さん。
駆けてきたのは、声音からして未佳と同世代くらいの女の子らしい。遅れて駆けてくる
のは、彼女の母親なのだろうか。ふたりとも息が切れていた。間に合ったね。よかった。
ドアが閉まった。ようやくディーゼルエンジンの排気が遮断された。そして未佳は列車
から降りるタイミングを逸してしまった。息を切らせているふたりの駆け込み乗車のせい
だ。
「あれ?」
駆け込んできた女の子が、頓狂な声を上げた。列車がプラットホームを離れて、まだ一
分とたっていなかった。
「ミカちゃん?」
呼ばれて、未佳はうっすらと目を開けた。笑顔がこちらを向いていた。
「浅田……?」
卒業式以来会っていなかったクラスメイトがそこにいた。浅田。浅田友香。
「あれえ、髪切っちゃったの? わかんなかった」
こぼれ落ちそうな笑顔。友香は未佳に並んだ。
「ひさしぶり」
自分の声はこんなに低かっただろうか。友香とのひさしぶりの再会より、そちらのほう
が気になった。
「ねえ、ほんと。卒業式以来だから、何週間? 二週間じゃきかないよね」
友香もスーツ姿だった。制服姿しか見たことがなかったから、ちぐはぐに見えた。うっ
すらと化粧をしているらしい。それがまったく似合っていなかった。
「スーツ似合ってるじゃない。髪型も変えちゃってさあ、誰かわかんないよぉ」
友香の髪は明るい茶色をしていた。セーラー服を着ていたころの友香の髪は、重たいく
らいの真っ黒だった。誰だかわからないのは、こちらのほうだ、未佳は思う。
「制服で出てやろうかと思ってた」
未佳が言う。列車はゆるいカーブを切った。
「セーラー服で? まさか!」
「スーツなんて、着てられないもの」
「そんなことないよぉ。ウチと違って、ミカちゃん似合ってるよぉ。十八には見えないよ
ぉ」
長く延びる語尾は以前のままだった。未佳は嘆息した。安堵か、諦観か。よくわからな
い。
「似合ってるよぉ」
友香は笑う。八重歯が見えた。友香はこの八重歯を気にしていた。
「ミカちゃん、入学式だよねぇ?」
「うん」
「学部どこだっけ?」
「わたし? 法学部」
「ウチ、文学部。よろしくね」
友香は頭を下げ、わざとらしいあいさつをした。隣で彼女の母親らしい女性が微笑んで
いた。ふたりともよく似ていた。未佳は首を少しだけ引いて、会釈をした。
窓から見える札幌の街は、かすかな霞みの向こうでぼんやりと眠そうだった。
午後になって、陽が射してきた。
未佳は右手に分厚く、サークル勧誘チラシを束ねて、講堂のエントランスからガラスを
透かして雲を見上げていた。青空がのぞいていた。
入学式が始まる前、友香に言われた。エントランスで待ち合わせをしよう、と。
ことわる理由もなかった。
式は眠かった。それだけだった。何の感慨も湧かない自分が逆に、ひどく疎ましかった。
式がはけたあと、学生たちはみなさっさと講堂を出て行った。人波に流されて、未佳もい
ったんは講堂を出てしまった。そして、在学生たちの歓迎を受けた。次から次へとサーク
ル勧誘のチラシをよこされ、ことわる前に受け取ってしまう。未佳はそれだけで疲れてし
まった。
学生たちの流れから何とかそれて、講堂のエントランスに戻ったとき、さきほどまでの
喧騒はすっかりなくなり、残っている学生たちは、みなラフな格好をしていた。どうやら
勧誘する側の学生たち、つまりは在学生たちがぽつりぽつりと残っているだけのようだっ
た。未佳は出入り口のすぐそばに並ぶベンチにそっと腰を降ろした。四月初旬、陽が射し
ているとはいえ、少し肌寒かった。友香はどこへ行ってしまったのだろう。未佳は携帯電
話を持っていたが、友香の電話番号を知らなかった。未佳は頬杖をついた。すっかり肩が
凝っていた。
煙草の匂いがした。
顔を上げると、未佳の目の前で、ひょろ長い男が煙草に火をつけていた。ベンチのすぐ
脇に灰皿が置いてあるからだ。煙が目にしみた。けれど、立ち上がってまた新しい場所を
探すのは面倒だった。だから未佳は座ったまま、煙草の煙をただ目で追った。ぼんやりと
たなびく煙を眺めていると、瞼が重くなった。そっと、目を閉じた。
学生たちの声が、エントランスにころころと転がり、あるいは壁に跳ね返り、響いてい
た。目を閉じると、いろいろな音が見えてくる。煙草の匂いはまだ漂っていた。
「新入生、かな」
真上で声がした。
「君さ」
未佳は目を閉じたまま、エントランスに散らばる音を見、数えている最中だった。ずい
ぶんと近くから声が聞こえる。
「誰か待っているのかい?」
声がどうやら自分に向けられているとわかったとき、未佳はまだ目を閉じていた。その
まま無視してしまおうか、そうも思った。
「こんなところで居眠りしたら、風邪を引くよ」
低い声だった。未佳は目を開け、顔を上げた。
「あ」
「新入生だよね」
「はい」
未佳は頬杖をやめ、上半身も起こした。背の高い男がこちらを向いて立っていた。
「あげるよ」
男はくわえ煙草。右手から差し出されたのは、勧誘のチラシだった。
「メモ紙にでもしてくれればいいから」
髪の長い男だった。いや、正確には、前髪の長い男だった。額の半分と左目が髪に隠れ
ていた。細いフレームの眼鏡をかけていて、神経質そうな細いまゆをしていた。まっすぐ
視線を合わせられたら、自然に目をそらしたくなる、彼はそんな冷たい目をしていた。
「はい」
未佳は男からチラシを受け取ってしまった。
「誰か待ってるのかな?」
男が訊いた。あいかわらずの低い声。
「いえ。はい」
それにしても背が高い。未佳が並んでも、おそらく彼の胸の高さが未佳の視線だ。
「気が向いたら、部室においで。気が向いたらね」
煙草を灰皿で消して、男はそれきり未佳の方を向かず、くるりと振り返り、歩いていっ
てしまった。
男が渡してきたチラシを、読んだ。ありきたりのコピー用紙。フォトコラージュのよう
な紙面。『総合芸術研究会』。そう書かれていた。何をやっているサークルなのか、さっぱ
りわからなかった。
「ミカちゃん!」
チラシをたたみ、ようやく現れた友香を向いた。
「どこ行ってたの?」
そのとき自分がどんな顔をしていたのか、未佳は覚えていない。未佳は友香に微笑んだ
つもりだった。けれど、友香は笑みを返さなかった。
「怒ってる?」
「どうして」
「そんな顔してる」
未佳は立ち上がり、歩み寄る。まだ煙草の匂いが残っていた。
「怒ってないよ。……疲れただけ」
「ごめん。サークルの勧誘でさぁ、連れていかれそうになっちゃって。道に迷っちゃった。
大学って広いねぇ」
「入試で来たんでしょ。迷う?」
「迷っちゃった。ごめん。うん。ごめん」
「浅田、母さんは?」
「先に帰った。一緒に帰ろうよ」
未佳はわずかにうなずき、そして友香に並んだ。友香のほうが、わずかに未佳より背が
高かった。
講堂から校門まで、植え込みにはまだ雪が残っている。埃や塵ですっかり汚れてしまっ
た雪から、雫が流れて水たまりを作っていた。友香は声を上げながら、水たまりを跳んだ。
「晴れたねぇ」
と、友香。飛び跳ねているのは足取りだけではないようだ。声が弾んでいた。
「うん」
午後三時をまわっていた。空の色が変わりはじめていた。東の空の色がひときわ濃くな
っていた。西の空は眩しい。未佳はふと立ち止まった。薄色の雲がにじんでいた。目を細
め、太陽を探した。足元に影は落ちていなかった。晴れてはいたが、陽は雲に隠れていた。
だから、まだ少し寒い。
「どこか寄ってく?」
友香が言った。聞いたことのある言葉だと思った。ずっと前に。友香と少し距離が離れ
ていた。
「どこかって、どこに?」
「ウチ、お腹すいたな。ミカちゃんはどう?」
ふたりの距離は、たったの五歩分。瞬きする間に、友香が近づいてきた。
「わたしは、別に」
「つれないなぁ」
新入生たちはほとんど帰ってしまった。残っているのは自分たちくらいのものだ。セレ
モニーが終わったあとのキャンパスは、けだるさだけが漂っていた。
「チラシ、気に入ったの?」
「え?」
友香に言われて、未佳はチラシの束をまだ右手に持っていることに気づいた。
「どこか、入るの?」
友香が訊く。
「サークルに?」
「うん」
「浅田は?」
「さあ。なんか入りたいけど、バイトもしたいし、講義にも出なきゃいけないし、どうし
よう」
友香の言葉はすべて、語尾がのびる。それは彼女のくせなのだが、未佳は嫌な気はしな
かった。
「一緒のサークル、入ろうか?」
友香の目が笑っていた。
「考えておくよ」
そう答えるのが精一杯だった。友香の目を見られなかった。後ろめたさが、邪魔をした。
「ね、寒いよ、帰ろうよ」
友香は未佳の手をとった。未佳は右手に持ったままのチラシの束を丸め、通りかかった
くずかごに放った。友香に見咎められないよう、さり気なく。
「帰ろうか」
ふたりはキャンパスを出た。校門のすぐ横にバス停があったが、駅までは歩いてもたい
した距離ではなかった。赤信号の交差点で立ち止まる。まわりはアパートの多い学生街だ
った。陽はまだ雲に隠れていて、風が吹くたび砂埃が足元で舞う。四月の札幌は、まだ殺
風景だった。雪が融けただけで、緑の季節はまだ先だ。
信号が変わった。歩き出そうとしたとき、横断歩道の手前で停まっていた車がクラクシ
ョンを短く鳴らした。
「なんだよぉ」
友香が口をとがらせた。
未佳はクラクションを鳴らした車を向く。黒いBMW。
「あ」
声に出てしまっただろうか。未佳はその車に見覚えがあった。
「どうしたの?」
未佳は応えなかった。
「……知り合い?」
車を向いたまま、まるで凍りついた未佳を覗き込むように、友香が訊いた。
「……父」
「え、お父さん?」
未佳は返事をせず、BMWをにらみつけていた。車は再度クラクションを短く鳴らす。
無遠慮に、有無を言わせぬ調子で。
「浅田、ごめん。一緒には帰れないわ」
自分の声が予想以上に平板だったことに半ば驚きながら、未佳はまだBMWをにらんで
いた。
「あ、うん。そうなの……」
友香の視線が泳いでいた。
「本当にごめんなさい。今度、電話するから。ね。また、学校で会おう?」
未佳は友香を向き、精一杯の笑顔を作って言った。いや、正確には笑顔を作ったつもり
だった。果たしてそれが伝わったのかどうか、不安げな表情を隠そうともしない友香は、
こくりと小さくうなずいた。
「またね」
「うん、またね……」
未佳はもう一度友香に謝ると、ことさらゆっくりとした歩調でBMWに向かった。
磨きこまれた車体に、空と雲が映りこんでいた。未佳がようやく車の横に立つと、運転
席の彼は、(入って座れ)と無愛想に合図した。未佳は重いドアを開け、助手席に乗り込む。
ウィンドシールドの向こうで友香がこちらを向き、小さく手を振り、信号を渡っていった。
車内は煙草の匂いがきつかった。
「遅かったんだな」
父、宏隆の声は低く、かすれていた。
「なんで来たの? 今ごろ」
宏隆は未佳の言葉に応えず、シガレットケースからラークを一本抜いて、オイルライタ
ーで火を点けた。未佳はあからさまに顔をしかめて見せ、パワーウィンドウのスイッチを
操作して、窓を全開にした。が、宏隆は即座に運転席側のスイッチで、未佳が開けた窓を
閉めた。
「迎えに来たんだ。時間が空いたから」
ダークグレイのスーツ、スカイブルーのシャツにレジメンタルタイ。ムースで固めた髪
は黒く、横顔は三〇代で通るほどに若々しい。それが、未佳の父だった。
灰皿に灰を落とし、宏隆はじろりと娘を向く。
「いまさら来るんだったら、最初から来ないでよ」
「娘の入学式に来るのがいけないのか」
言ってから、宏隆は前を向いた。未佳もまた、前を向いた。
「来ないんだったら、最後まで来ないで」
未佳はつぶやくように言った。宏隆は半分ほど喫った煙草を灰皿でもみ消すと、シート
バックにあずけていた上体を正した。
「せっかく時間を空けてきてやればそれか。ほかに言葉があるんじゃないのか」
「どんな言葉があるっていうのよ」
宏隆は一度短く嘆息し、そして口許を奇妙にゆがめた。
「お店は」
シートに浅く座り、未佳が訊いた。言ってから、訊いても訊かなくてもどうでもいいこ
とだと思った。
「なんで店のことをお前が気にかける?」
「こんな時間に来るからよ」
「お前に気にしてもらわなくても、大丈夫だ」
未佳はこの閉ざされた空間が苦痛だった。煙草の煙も、宏隆のムースの匂いも、彼のス
ーツの趣味も、この黒い棺桶のような仰々しいBMWも、すべてが苦痛に満ちていた。
「これからどうするのよ」
宏隆から顔をそむけ、未佳は憮然と吐き捨てた。
「家まで送る。ベルトを締めろ」
宏隆も抑揚なく言い、ハザードランプを解除すると、車をスタートさせた。滑らかな発
進だった。
未佳は車が動き出すと、ようやく一息ついた。そして、窓を細く開けた。こんどは宏隆
も何もしなかった。
BMWは滑るように学生街を走った。青葉町の自宅まで、この時間帯ならどれくらいか
かるだろう。未佳は流れていく学生街を眺めながら、家までの所要時間のことを考えてい
た。あとどれくらい、この男とドライブを続ければいいのだろうかと。
駅前の高層マンションにはもう明かりがちらほらと灯っていた。信号に引っかかり、車
の前を横切る人の群れの中に、友香がいた。彼女はひとり、あいかわらず弾むように歩い
ていた。友香はこちらには気づかない様子だった。未佳は手を振らなかった。信号が変わ
り、車がスタートしても、未佳は見えなくなるまで友香を追っていた。無性に友香がうら
やましく思えた。
夕闇が札幌の街を覆いはじめていた。街灯が灯り、残光がまだ明るい空には、飛行機の
衝突防止灯が点滅していた。空は西から東へ、グラデーションが見事だった。
車は学生街を抜け、伏古通に入った。送電塔が一列に並び、ナトリウムランプが視界に
にじんで見えた。
?
未佳は自分が涙を浮かべていることに気づいた。
目を閉じてみた。涙が沁みた。自分は泣いているわけではなかった。風が沁みただけだ。
薄曇りの空。見慣れた青葉町の自宅。新札幌の駅。友香、入学式、サークルのチラシ、
そんなものがフラッシュバックのように浮かんだ。
ミスキャスト。
ふとそんな言葉が未佳の脳裏によぎった。
自分が今日体験したこと、いまこうして宏隆のとなりに座っていることが、まるで扉一
枚隔てた向こう側で起こっているできごとのように感じられた。
家を出るとき、耳にとどいた声がよみがえる。
行くの?
それは、宏佳の声だった。
聞こえるはずのない彼女の声を、未佳は確かに聞いた。いや、聞こえたような気がした。
部屋から立ち去ろうとしている自分に向かって、宏佳が呼び止めたのだ。
わたしは、代役に過ぎないのだ。
未佳は目を開く。車は市内に向かう流れに乗り、あくまでスムーズに走行している。目
を細め、遠ざかっていくナトリウムランプの列を数えてみる。先ほどにじんでいた視界は、
いまはくっきりとした輪郭を持っていた。首を回し、後ろを振り向いてみた。友香が歩い
ていた交差点は、あの明かりの灯る高層マンションの足元だ。学生街が遠ざかっていく。
宏隆に気づかれないように大きく息を吸った。すると、こわばっていた全身から、いく
ぶんよけいな力が抜けたような気がした。宏隆はまったくの無言だった。時折ミラーをち
らちら見る以外は、未佳に向こうともしなかった。ウィンドシールドの向こうは札幌の中
心街だ。日暮を間近に、都心はさらに明るさを増しているように見えた。対向車線のヘッ
ドランプがまぶしさを増しはじめ、未佳は再度目を閉じた。このまま眠ってしまおうと思
った。するととたんに煙草の煙が鼻を刺した。薄く目を開き、父をねめつけた。宏隆は正
面を向いたまま深く煙を吐き出すと、さも面倒そうなしぐさでパワーウィンドウのスイッ
チを操作した。何を思ったのか、宏隆は未佳の側の窓を全開にした。吹き込む風が薄く開
けた目に飛び込み、痛かった。また、涙が浮かんだ。静かだった車内は、春の夕暮れの風
が舞い踊り、とたんに賑やかになった。未佳の右手の腕時計が鳴ったのを、風の音の中に
聞いた。
青葉町の自宅に着いたとき、日は暮れていた。未佳は無言で車を降りた。
「きょうは、遅くなる。母さんに伝えておいてくれるか」
さっさと家に入ろうとした未佳に向かって、宏隆が窓を開け、声をかけてきた。未佳は
黙って振り向き、彼の言葉には動作しなかった。
「何か言ったらどうだ」
「さよなら」
真正面から父をにらんだ。宏隆は娘に鋭い視線を一瞬送ってきたが、ゆるゆると二、三
度首を振ると、窓を閉め、車をスタートさせた。未佳はBMWが路地の角を曲がるのを見
届け、排気音が聞こえなくなると、足元にあった小指の先ほどの石を蹴った。
未佳の家は、厚別の丘陵の、ちょうど頂上に近いところに建っていた。ガードレールの
向こうに、住宅街の屋根が波のように続き、その先で、野幌の原生林が唐突に黒々と広が
る。原始林の黒い海に、あたかも灯台のようにそびえるのが、百年記念塔。未佳の部屋か
らも見えるいびつな形をした塔だ。未佳は指を伸ばし、視界の中、塔の頂点に、人差し指
を触れた。
風が吹いた。髪を切ったうなじが寒い。
背後の門柱に、灯りが灯っていた。未佳が宏隆の車でここに着いたとき、すでに灯りは
ついていただろうか。記憶になかった。
門扉を開け、未佳は自宅に戻った。
自宅の玄関は、門扉を抜け、コンクリートの階段を上った上にある。玄関にも灯りが点
いていて、必要以上に重々しい雰囲気が未佳は嫌いだった。この家は、来客を、住人を、
けっして温かく迎えようとしていない。
未佳を降ろしたあと、宏隆が連絡を入れたのか、普段は閉まっている鍵が開いていた。
三和土で靴を脱ぎ、上り框に並ぶスリッパを未佳は無視する。靴下のさらに下、板間の廊
下が冷たい。廊下の突き当たりの居間は明るかったが、静かだった。母親がいまどこで何
をしているのか、未佳にはわからなかった。廊下を居間に進まず一八〇度旋回すると、階
段。白熱灯が照明の暗い階段を、未佳はネコのように音を立てず、駆け上がった。自分は
この階段を上るとき、いつだって駆け足になる。この家の一階は、未佳の場所ではなかっ
たからだ。ただひとつの例外を除いて。
宏佳がいたころは、一階の北の端にある彼女の部屋が、自分の部屋以外でもうひとつ、
自分の存在を許してくれる場所だった。
階段を駆け上がった未佳は、自室の扉の前で立ち止まり、宏佳と過ごしたあの部屋を思
っていた。
一階、北向きの窓、整然と並んだ本、それらがおさめられた大きな書棚、飾り気のない
デスク、ランプ。ふたりが顔をあわせるのは、夕食が済んだあとの夜だった。
宏佳はたいていデスクの前の椅子に座る。未佳はシングルベッドの上に腰かけ、書棚か
ら宏佳の蔵書を取り出し、ページを繰る。宏佳は穏やかな声でそのひのできごとをとつと
つと語る。ときには立場が逆になる。
デスクの上のランプを点ける。ぼんやりと部屋が明るくなる。窓の向こうは青く沈んで
おり、未佳はブラインドのスラットを降ろした。ジャケットだけ脱いで、ベッドに転がっ
た。全身がひどくこりかたまっているような気がした。頭が痛かった。鼻の奥に残った煙
草の臭いが取れず、気分が悪かった。
そっと目を閉じた。
とたんに睡魔に襲われた。うつ伏せになったまま、身体ごとベッドに沈み込んでいくよ
うな感覚。全身にけだるい脱力感が漂い、そのまままどろんでしまいたい欲求が強まった。
身体が睡眠を欲していることに未佳は驚いた。こんな中途半端な時間帯に眠くなったこと
などなかったからだ。
疲れていた。
未佳は強引に瞼をこじ開けた。そうしないと、本当に眠ってしまいそうだった。
薄く開いた瞳が映すものは、見慣れた部屋と、自分の左手の甲だった。産毛が夕日のよ
うなランプの明かりに照らされて、細かな光沢をもってきらきらしていた。瞼を開いても、
全身の脱力感はおさまらなかった。眠かった。このまままた瞼を閉じてしまおうか、未佳
の中でささやかな葛藤が戦いはじめていた。
昼間のことを思い出す。
砂埃の浮いた道、プラットホーム、友香の茶色い髪、チラシの束、煙草の匂い。宏隆の
BMWが否応なく浮かんできて、煙を深々と吸い込み、それを盛大に吐き出す彼の横顔が
続き、未佳は強く瞳を閉じてしまった。すると、おさまりかけていた脱力感が瞬時にして
よみがえる。
深く息を吸った。そして吐いた。呼気とともに、身体の内に重く沈殿する不安やいらだ
ちや、言いしれない、しかし絶望的な寂寥も何もかもが出て行ってくれれば、きっとこの
全身を包み込む虚無にも似た甘美な脱力感も消え去ってくれるに違いない。そうすれば、
わたしはどれだけ楽になれるだろう。
未佳は晩秋の陽射しを思い出していた。靴の裏で踏みしめたニセアカシアの濡れた葉の
感触や、遠くを過ぎていく快速電車の音が、擦り切れかけたビデオテープの荒れた画像の
ように戻ってくる。
なぜ、わたしはここにいるんだろう。
きょうの出来事がすべて、つくりもののような気がした。チラシを受け取ったのも、プ
ラットホームで友香に出会ったのも、煙草の煙を吸い込んだのも、本当の出来事だったの
だろうか? たしかにわたしはきょう、電車に乗って大学に向かい、宏隆のBMWに乗っ
て帰宅した。けれど、それは本当にわたしが体験したことなのだろうか?
未佳は気づいた。瞬きを忘れた自分の瞳が、うっすらと涙を流していることに。
未佳は苦笑した。涙を流している自分自身を、笑った。
物心がついてから、未佳は泣いた記憶がなかった。涙を流して感情を発露させた記憶が
なかった。よく泣く友人がいた。泣けばすべて、とは言わないまでも、たいていのことが
解決すると思い込んでいる子がいた。彼女にとって涙は武器だった。けれど、未佳にとっ
て、涙は自分を狂わせてしまう毒物だった。涙を流してしまえば、そこにいたるまでの微
細な感情がすべて吹き飛ばされてしまうような気がしたからだ。たしかに涙はすべてを解
決してくれる。しかし、涙を流せばそこから先へは進めない。涙と一緒に自分が流れ出し
て蒸発してしまう。未佳はいつからかそう思うようになっていた。そんな自分が、いま、
泣いていた。
なぜ?
未佳は脱力感に抗うことをやめ、かわりにうつぶせだった姿勢を仰向けに正した。涙が
浮かんだ瞳で覗き込む自分の部屋は、ランプの光でいくつかのピースに区切りばら撒いた
パズルに見えた。見慣れない風景だった。未佳はそれっきり、瞼を閉じた。
BMWの助手席で浮かんだ涙は、風が沁みたわけではなかったのだ。あれは、呼び水だ
ったのだ。
涙が止まらない。
自分がなぜ泣いているのか、未佳はわからなかった。
悲しい?
かもしれない。
嬉しい?
そんなはずはない。
寂しい?
かもしれない。
くやしい?
わからない。
未佳は自分に問いかけ続けていた。なぜ、泣くの?
そのうち、喉の奥から聞いたこともない音が未佳の耳に届きはじめた。これは、嗚咽だ。
いま自分は、子どものように、声を上げて泣いている。
泣いている?
全身を包んでいた甘美な脱力感は、すでに薄らいでいた。もう、眠くはなかった。涙が、
未佳を眠りに逃避することを阻んだのだ。
押さえても押さえても、喉の奥ではじける嗚咽は止まらなかった。
ひとたび漏れ出した嗚咽を止めるすべを、未佳は持っていなかった。自分が泣いている、
その姿に気づき、もはや嗚咽を止めることはできなくなっていた。
堰堤は決壊してしまった。
自分の感情を解き放つように、未佳は泣いた。てのひらで顔を覆うこともせず、流れる
涙をそのままにして、未佳は泣いた。
未佳は、自分がなぜ泣いているのか、本当は気づいていた。
ミス・キャスト。
きょう体験したことすべては、自分のために用意されたものではなかったはずだ。
「お姉ちゃん……」
誰の声だろう。嗚咽の隙間からこぼれた言葉を、未佳は涙に濡れる頬を左手の甲でぬぐ
いながら、聞いた。
自分がここにいるはずがない。未佳は泣いた。
自分がここにいてはいけない。未佳は、泣いた。
「お姉ちゃん……」
本来、きょうという時間は、自分のためには存在していなかったはずだった。窮屈なス
ーツも、春の砂塵も、帰りの道のナトリウムランプのオレンジも、宏隆の煙草の煙もすべ
て、宏佳のために存在していたはずだった。
未佳は泣いた。
いつまでも涙と嗚咽が、止まらない。
校舎の両翼は前庭を囲みこむように配置されている。バス停を横目に正門を過ぎると、
レンガ敷きの主通路があり、向かって左側に同じくレンガ色の図書館、右手には講堂が建
つ。主通路正面の建物には教務課、学生課などの事務系の部署が収まっていて、学生向け
の各学部の掲示板もそこにある。教務課の建物は、一般的に事務棟と呼ばれているらしく、
ガラスの観音開きのドアを過ぎると、空気は冷えていた。
新入生向けのガイダンスが行われるのは午前十時三○分。未佳は首筋を左手でさするよ
うにマッサージしながら、教務課の掲示板に正対した。以前見た映画のなかでは、これら
掲示板は建物の外に設置されていた。それはちょっとした違和感だった。想像と違った。
右手首の腕時計を一瞥、まだ午前九時を少し回ったところ。掲示板の前はがらんとしてい
て、人気がなかった。在学生たちはまだ春休みから明けていないのかもしれない。教務課
も蛍光灯が点ってはいたが、しんとしていた。
明け方は冷え込んだ。未佳は首筋を柔らかくもみほぐしながら、思い出していた。何か
夢を見たような気がする。それで目がさめた。気づいたとき、外はまだ暗かった。スラッ
トの隙間から表の街灯がちらりと見えたが、カラスの声も聞こえなかった。首が変に痛く、
それはあの激しい嗚咽がおさまったあと、疲れてそのまま不自然な姿勢で眠ってしまった
からだった。半身を起こして夜と朝の境界線の、やや夜側をうろうろしていたが、やがて
また布団にもぐりこんで眠った。次に目覚めたとき、夜はすっかり明けていた。午前七時。
身体中が痛くなっていた。ちょうど、体力測定で百メートル走を五本くらい連続で、し
かも全開で走った翌日のような気分だった。おかしなところに力が入ると、身体は正直に
それを訴えてくる。とりわけ首の凝りがひどく感じた。
ベッドから抜け出て、未佳はバスルームでシャワーを浴びた。バスタオルで全身をぬぐ
っているとき、ダイニングキッチンにかすかな気配を感じていたが、物音一つしなかった。
居間の方向からは、宏隆のものと思われる低い声がずっと聞こえていた。ひとりごとのよ
うだったが、電話で何かを話しているらしかった。テレビの音も聞こえなかった。未佳は
着替えを済ますと、髪を適当に乾かして、居間の扉に触れることもなく二階に上がった。
シャワーのおかげで、身体の中に小さな火が暖かく点った気がした。頬が熱く、鏡を見
たらきっと上気していたにちがいない。すぐに頬が赤くなる自分の体質を、未佳はあまり
気に入ってはいなかった。
自室に戻ると、起きぬけの自分の匂いが濃密に残っていた。スラットを降ろしたままの
ブラインドを、小気味よい音をたてて上げる。窓の向こうは曇っていた。百年記念塔が雲
を突き刺していた。雨が落ちてきそうな空だった。遠くの街灯がひとつまだ点ったままで、
そこだけが夜を忘れていないように思えた。
窓を開けてみた。風は冷たかった。生乾きの髪が熱を奪われてごわごわになっていく。
きっと上気していた頬もいつもの白磁のような色に戻っていくにちがいない。
ベッドに腰を下ろし、時計を見た。午前七時二七分。短い嘆息を足元にこぼしたあと、
未佳は小さなカバンを抱え、窓を閉めて部屋を出た。家にいてもしかたがない。未佳が新
札幌駅のプラットホームに立ったのは、午前七時五四分。快速電車が滑り込んできたのは、
その数分後だった。
新千歳から走ってきた快速電車の中には空席はなかった。スーツを着込んだビジネスマ
ンが客室を埋めていた。網棚に載せられた荷物には航空会社のタグが見えた。未佳はデッ
キに戻り、薄汚れた窓から札幌の街を眺めた。木も草もまだ芽吹く季節には遠く、街のと
ころどころには、冬の名残の雪の山が残っていた。それはあまり美しい風景ではなかった。
未佳は春のこの季節が好きではなかった。何より街が美しくなかったからだ。降雪の季
節を終え、たしかに街もひとも身軽になる。けれど、冬のあいだにたまった埃やゴミの類
がるいるいと街角に顔をだし、緑もなく、それに春先独特の陰鬱な空が加われば、初春の
北海道は、次にやってくる季節をただ怠惰に待っているだけの、なんともやる気の失せた
時間に思えて仕方がない。
平和の駅を瞬きするあいだに通過すると、白石の駅に電車は止まる。降りる客よりも乗
ってくる客のほうがやや多い。鉛色の豊平川を渡ると苗穂。苗穂の次が札幌駅だ。プラッ
トホームはディーゼルエンジンの排気ガスがとぐろを巻いていた。札幌から地方へ向かう
特急列車のほとんどが、青白い排気を吹き上げて乗客を待っている。未佳はエスカレータ
にビジネスマンにまじって下り、北区のはずれへ向かうホームに乗り換える。
学生はまばらに見えた。空席を見つけて座った座席は、固かった。時計を見る。午前八
時二十分。アイドリング中のエンジンが身体に響く。未佳は窓の向こうに見える北口のが
らんとした街並みを眺め、一直線に伸びる道路が春霞の中に消失する境界のあたりで明滅
する信号機を数えた。無意識のうちに吐き出す嘆息の理由をあえて考えず、発車を待った。
午前中のこんな時間帯に列車に乗ったことなど、いままでなかった。同じ区内の高校に通
っていたときは、バスを使っていた。混みあったバスの人いきれで曇った窓ガラスからは、
見慣れた街並みすら見えなかった。ふと、制服に身を包み、左右に盛大に揺れながらター
ミナルを出発するバスに乗っていた高校時代を懐かしく思った。わずか数週間前なのに、
遠い昔のできごとのように感じた。でも、高校時代の感慨も特に、未佳にはなかった。ど
れもこれも通過点。駅でいうなら乗り換え駅だった。
桑園駅に列車が滑り込んだころ、ようやく未佳は列車が走り出したことに気づいていた。
数週間前の時間へ旅をしているうち、現在という時間軸を失いかけていた。いつだって自
分は時間旅行ができる。時間旅行をしているあいだ、現在進行形の自分は機能を停止して
しまう。未佳は目を閉じた。眠くはなかったが、景色を眺めることが、なんだか面倒に感
じたからだ。本線から分かれた線路が、北区の住宅街の空中を駆け抜けていくあいだ、未
佳は歌を歌っていた。声に出さず、胸の奥で。いつかラジオで聞いた歌を、思い出せる限
りの歌詞を並べて、歌った。
北区のはずれの駅で未佳が乗った列車は終点になる。線路は駅から向こうへも続いてい
るが、時刻表を見ると、さらにその向こうへ行く列車は少ないようだ。
かつては藍染、いまは学生街と新興住宅街。風がやたらと強いこの北区のはずれの街を
歩くのは、何度目だろう。改札を出て、同じ方向へ歩く学生風の数人からわずかに距離を
おいて、未佳は靴の裏で砂粒を踏みしめる。ここから大学までは、歩いてだいたい十五分。
見上げた空に太陽は、淡い薄色の繭の中にあった。露出した耳とうなじに風が冷たく、未
佳はまた、髪を短くしすぎたことを後悔していた。
教務課の建物は日当たりが悪いのかどこを歩いてもひんやりとしていた。首の痛みはよ
うやく治まりかけてきていた。掲示板と手元の書類から、未佳はガイダンスが行われる教
室を探していた。四号館という建物がどこなのか、未佳は知らない。校舎はそれぞれの棟
と棟を渡り廊下で結んでいる。事務棟からは北と東西に向けて渡り廊下が伸びていて、め
ざす四号館は北の渡り廊下を渡った先にあるようだ。やはり早く着きすぎたのだろうか、
すれ違う学生がない。階段を二階に上がる。未佳の靴音が聞こえるだけで、学生たちの声
もなかった。渡り廊下からは、色のない中庭が見渡せた。茶色の芝生と、枝ばかり目立つ
やせた木、そしてレンガ敷きの小さな周回路。ベンチが何脚か見えたが、座っている学生
はいなかった。
渡り廊下を渡った先が三号館で、四号館はその東側に隣接して建っている。教室と教室
のあいだに待合のためかベンチと灰皿があった。ひとりの男子学生が煙草を喫っていた。
煙が未佳の鼻にもとどき、少し嫌な気分になった。未佳は煙草が嫌いだった。この匂いを
かぐと、嫌でもあの男を思い出すからだ。今朝、電話に向かって低くしゃべっていた、あ
のBMWの男を。
ガイダンスは四二〇二番教室で実施される、と入学式に渡された書類に書いてある。教
室は無人だった。黒板に向かってゆるやかに階段状に机が並び、未佳は中ほどの窓際に座
った。席順も何も決められていないらしい。白い机は冷たかった。北を向いた窓からは、
防風林とその向こうの国道、さらにその向こうの茨戸川の水面がほんの少しだけ見えた。
未佳はこの季節が好きではなかった。
早く、夏になればいいのに。
未佳はまた、目を閉じた。
夢を見ていたような気がする。
未佳は、見知った高校の教室の、窓際の席で居眠りをしていた。教室の低く響く喧騒が
鬱陶しく、窓から射しこむ陽が暖かい。頬杖をつき、いかにも授業を聞いているふりをし
ながら眠る技は、教師に対して自分の気配を消せるかどうかが重要になる。ときおりあい
づちを打つふりをしたり、ノートを取っているように見せかけるため、身体を揺らす。け
れどもたいていの場合、居眠りはばれる。耳の奥で友香の声が聞こえたような気がする。
担任のワタナベ先生の叱責を聞いたような気がする。始業のベルが遠くで鳴ったような気
がする。つまるところ、未佳は居眠りをしていた。見知った、高校の教室で。
目を覚ましたあとも、未佳は自分が高校の教室にいて、次の授業を待つふりをしながら
居眠りを継続しているつもりだった。それにしても、教室の机はこんなにも白かっただろ
うか。黒板はあんなに遠かっただろうか。そして、教室はこんなに広かっただろうか。
意識が過去から現在に連結され、現在進行形の自分を取り戻すのに、ゆっくり五つ数え
るくらいは時間がかかった。目を覚ましたとき、誰もいなかった四二〇二番教室はほぼ満
席になっていた。未佳の隣にも学生が座っていた。居眠りをしていた自分を、未佳はわず
かに恥じた。そこでようやく居住まいをただし、カバンからルーズリーフとペンを取り出
し、自分の前に並べた。
首の違和感はまだ取れなかった。おそらく、教室で居眠りをしたせいだ。大学に到着し
たのが午前九時ごろ。ガイダンスが始まったのは十時三○分過ぎ、だったように思う。少
なくとも一時間は眠っていた計算になる。昨夜、あふれ出る感情をとどめることができず、
結局熟睡できなかった。未佳はいいわけをしてみる。
ガイダンスはつまらなかった。履修方法から取得すべき単位の説明、そんなものはみん
な配布されたシラバスに書いてある。隣に座った学生は未佳と背格好がほとんどかわらな
い女子学生で、枯れ草のような色の髪をショートにして、黒ぶちの大きなメガネをかけて
いた。自分と同じように頬杖をついていたが、終始居眠りをはじめる気配もなく、淡々と
メモを取っていた。未佳は彼女の真似をして、淡々とメモを取り続けた。何度目かわから
ない嘆息を短く漏らしたとき、茶髪メガネの隣人がちらりと未佳を向いた。髪の毛と同じ
色の目をしていた。彼女が何も言わなかったから、未佳も何も言わなかった。茶髪メガネ
の隣人は、街路にいる野良ネコのような表情をしていた。
来るんじゃなかった。
そんな思いが強くなる。国道を走る車の列を数えながら、未佳は思う。教養課程の単位
がいくつ必要なのかは知らないが、自分がここに来るべき人間ではないのは確かなことだ。
心のどこかにやましさを感ずる。やましさをごまかすように、首をもんだ。中途半端な姿
勢の居眠りが、首のこりを悪化させてしまった。視界の端で茶髪のネコをそっと見ると、
せわしなくメモを取り続けていた。彼女を友人にできたら、きっと定期試験のときには心
強いだろう。そんなメモのとり方をしていた。
ガイダンスは一時間半ですっぱり終わった。午後からそれぞれのクラスに分かれてのガ
イダンスが予定されていたが、未佳はガイダンスの後半、国道を走る車の列を数えたり、
防風林の緑を眺めてほとんど意識を教壇に向けておらず、どこのクラスがどの教室を使う
のかを聞き漏らしていた。嘆息をねめつけられた茶髪メガネのネコにも聞きづらく、未佳
はふたたび教務課の掲示板前に立った。
教務課前は、今朝の静けさがなにかの間違いだったのかと思うほど、学生が歩き、また
は立ち止まっていた。それぞれの学部の掲示板前に立ち、メモを取ったり、数人でかたま
って話をしていた。単独でふらふらしているのは、まだ学内に「知り合い」がいない学生
だ。未佳は法学部の掲示板の前に立ち、文学部の掲示板の方向に友香を探してもみたが、
彼女の姿はなかった。
ひんやりしていた空気はかすかな熱気を含んでやや膨張していた。自分のクラス向けの
掲示物をメモしようとカバンからペンを取り出そうとしたが、ペンケースがルーズリーフ
の奥底に引っかかり、出てこない。ルーズリーフを取り出し、左手をカバンの中に突っ込
んでペンケースをサルベージしようとしていると、すぐ隣で掲示板を同じようにメモして
いた学生がペンを差し出してきた。
茶髪メガネのネコだった。
表情もなく、相変わらず抜け目のない瞳はまっすぐ掲示板を向いたままだったが、今使
っていた自分のペンを、未佳に向かって突き出していた。
「ありがとう」
未佳は受け取り、ルーズリーフの片隅にメモを取った。礼を言ってペンを返すと、
「どういたしまして」
彼女は応えた。澄んだきれいな声をしていた。
未佳はなんとなくその場を離れづらく、しばらく掲示板を向いたままだまって突っ立っ
ていた。
「いつからあそこにいたの?」
未佳が返したペンでメモの続きを取りながら、茶髪メガネが訊いた。
「なにが?」
「いつからあそこで寝てたの?」
「九時、くらいから」
未佳が答えると、茶髪メガネはメモを止め、ゆっくりと未佳を向いた。
「時間まちがえた?」
「いや、そういうわけじゃないけど」
家にいたくなかったからだ、と言ったところで、そこからの説明が面倒になりそうだっ
たので言わなかった。しかも、初対面の相手に話す必要もないように思えた。
「ふうん」
茶髪メガネは掲示板に向き直る。
「じゃああたしが着く何分か前だね」
「なにが?」
「あんたが居眠りをはじめたの」
「はい?」
「あたしが教室に着いたの、九時半にもなってなかったから。誰もいない教室で、もうあ
んたは寝息をたててた」
平淡に言う。きれいな声のわりに、口調はぞんざいだ。
「へえ」
「クラス、同じでしょ?」
「何が?」
「おなじとこメモ取ってたから」
茶髪メガネは右手のペンで、掲示板を指す。未佳がメモを取ったクラスの掲示物を、彼
女は指していた。
「一号館の、一四〇一教室。でしょ?」
「あ、そう」
「よろしく」
茶髪メガネはそう言ってメガネを外した。メガネを外した彼女の目は大きく、やはりネ
コのそれを想起させた。
「よろしく」
「お昼、一緒にどう?」
それまでネコのように無表情だった彼女が、微笑んだ。
未佳はただ、うなずいた。
事務棟から東へ伸びる渡り廊下を渡ると、左手にコンビニエンスストアと文房具店と小
さな書店をごちゃ混ぜにしたような生協があり、右手に食堂があった。さびれたスキー場
のちんけな食堂を、もう少しこぎれいにして規模を拡大したような、なんとなく病院の食
堂を思わせるような雰囲気で、まだ講義がスタートしていないからなのか、それほど混み
あってはいなかった。未佳は茶髪ネコに並んで食券を買った。あまり食欲は湧いていなか
ったけれど、お腹のどこかには空腹感があって、未佳はチキン竜田丼の食券を買った。茶
髪ネコはラーメンの食券を手にしていた。
「先に席取っちゃおうか」
誰に言うでもなく言うと、茶髪ネコはすたすたと窓際の席に自分のカバンを置いた。ど
うやら食堂は講堂と接しているらしく、南を向いた窓からは、やわらかく陽が射しこんで
いた。完全に空は晴れてはいないが、濃密な雲に覆われている様子でもなかった。風はま
だ強いらしく、砂や枯葉が舞っていた。
未佳は茶髪ネコと並んでカウンターに立った。チキン竜田丼はすぐにできあがってきた
が、ラーメンは多少時間がかかるようだった。
「先に戻ってていいよ」
茶髪ネコが目を細めながら言った。大きな目を細める姿は、やはり街の野良ネコが獲物
を定めているように見えた。
席に戻っても、なんとなく先に食べるのは気が引けた。気づいたら頬杖をついて窓の向
こうを眺めていた。もうひとりのわたしはいまどこで何をやっているのだろう。細く短く
嘆息を漏らした。
「先に食べててよかったのに」
澄んだ声が降ってくる。トレイにラーメン丼を載せて、茶髪ネコが立っていた。
「風、強いよね」
「え?」
「外ばっかり見てるから」
「あ、うん」
箸を割り、コショウをひと振りして茶髪ネコはラーメンをすすり始めた。未佳も箸を割
り、チキン竜田丼を食べた。タレが濃くて、あまり美味しくなかった。
「それ、美味しい?」
ネコに訊かれた。
「普通、かな」
「じゃあ美味しくないんだな」
あいかわらず口調はぞんざい。メンマを二、三本まとめて口に入れ、スープを飲んだ。
「ラーメンは?」
「期待はずれ。ここ、北海道だよね?」
「なにが?」
「期待してたんだけどなぁ」
ネコはラーメンを豪快にすする。ボーイッシュな外観どおりの食べ方だった。
「あたし、広島」
口の中の麺を咀嚼し、飲み込んでから、ネコが言った。
「あ、わたしは、札幌だけど」
未佳が答えると、スープに浮いたネギを箸の先で追いかけていたネコの手が止まった。
「は?」
未佳も手を止めた。
「ん?」
どこか気まずいような沈黙が数瞬、ラーメンとチキン竜田丼の上空を漂った。お互い目
を合わせて、相手が口を開くのを待っていた。そして、沈黙を破ったのは、ネコの笑い声
だった。
「名前名前。あたしは、広島っていうの。広島緑里。よろしく、広島出身じゃないよ。出
身は、東京。OK?」
ネコは笑うと目が細くなるようだった。未佳もつられて笑った。誘発だ。
「なんだ。そっか。ごめん」
「みんな間違うんだよな。広島って苗字、めずらしいのかな」
緑里は中断していたネギの追跡を再開した。
「わたしは、積森。札幌出身」
「つもり、さんね。名前は?」
「未佳」
「どんな字書くの?」
「積み木の『積む』に、森林の『森』、未来の『未』に、人偏に土二つの『佳』。わかる?」
「ああ、わかる。あたしは、広島県の『広島』に、緑の里で『緑里』。わかる?」
最後は未佳の口調を真似たらしい。空中に箸で字を書きながら、緑里が応えた。
「わかる」
「OK、OK。未佳ちゃんか。よろしくよろしく」
そう言って、緑里は麺をすすった。あまり美味しそうな顔をしないで。
「よろしく」
未佳もチキン竜田をかじって、言った。目の前のネコのような緑里とは、なんとなく仲
良くなれそうな、そんな気がした。ここ数日、初めて、心の奥に温かい何かが流れ込んだ
ような気がした。
食事を終えても、まだ午後のガイダンスには時間が余った。ふたりはそのまま席に残っ
て、未佳はお茶を、緑里は生協からコーラを一本買ってきて飲んだ。
「未佳ちゃんはずっと北海道?」
「うん」
「よくこんな寒いとこで我慢できるねぇ」
「寒い?」
「寒い寒い。向こうじゃ桜が咲いてたのに。こっちはまだなんだねぇ」
「桜は、今月の終わりにならないと咲かないよ」
「また?」
「本当」
「さすがは北海道だわ。あたしこっちに来て二週間くらいなんだけど、いきなり吹雪いち
ゃったから。びっくりした。上野じゃ桜が咲いてたのに」
緑里はコーラをひとくち。未佳も、お茶をひとくち。緑茶なのか番茶なのかよくわから
ない奇妙なお茶だった。
「東京は、桜が咲いているんだ」
「咲いてる咲いてる。正直、あたし、こっちきて吹雪いてるの見て、とんでもないところ
に来ちゃったなぁって、部屋の片付けもしないで外ばっかり見てたワ」
緑里の目はよく動く。上下左右に、口よりも賑やかに。最初気難しそうだった彼女の野
良ネコみたいな印象は、いまはもうなかった。親しげだったが、緑里の態度に馴れ馴れし
さはなかった。それが気持ちよく、居心地がよかった。
「ラーメン食べたら食べたで、美味しくないしさ。なんか期待はずれなんだよね」
緑里はそう言って、コーラを飲み干してしまった。
「なんでラーメンにこだわるの?」
「だって、北海道っていったら、なんか、そういうイメージあるでしょ。ラーメンってい
う」
「そう?」
「うん」
こんどは未佳が吹きだした。
「東京のひとって、そういうイメージで北海道を見ているのね」
「ちがう?」
「ちょっと」
「そんなもんかな。そうそう、ねえねえ、煙草喫いたくない?」
腰を半分浮かして、緑里。
「わたし、喫わないから」
「あたしが喫いたいのよ。ここ、禁煙かな」
「さあ」
「ちょっと待ってて」
緑里はコーラの缶を引っつかむと、さっさと立ち上がってしまった。その動きは、ネコ
というより、散歩中の犬だった。仕草がすばやく、目標を見つけるとまっすぐ駆けていく。
未佳はぬるくなったお茶を飲んだ。
「あった、あった」
緑里はコーラの缶を捨て、カウンターから灰皿を持ってきていた。フリスビーとレトリ
ーバ。しかし、緑里の顔立ちは、犬というよりもやはりネコだ。
「喫っていい? 我慢できなくて」
「いい、けど」
未佳はBMWのあの男を思い出す。彼は『喫っていいか』とは絶対に訊かない。いつも
問答無用で火を点ける。
「ありがと。ごめんね」
緑里はカバンからベコベコにへこんだシガレットケースを取り出し、ふたを開けて中か
ら一本抜き、すばやく火を点けた。慣れた手つきだった。ケースの中の銘柄は見えなかっ
た。
「東京、どこへ行っても禁煙でさ。札幌はまだそこまでひどくないね」
緑里はささやくように言うと、ひとくちうまそうに喫った。煙は未佳に流れないよう、
吐き出すときは横を向いていた。
「いま、何時?」
煙草を喫いながら、緑里が訊く。
「十二時半ちょっと前」
「まだ余裕あるね」
緑里は椅子に深く座りなおし、煙草を喫った。未佳は湯飲みに残ったぬるいお茶を、一
気に飲み干した。鼻の奥に、お茶の葉のかすかな香りと、緑里の煙草の匂いが、漂った。
中庭に出ると、空が青かった。いつのまにか晴れていた。食堂の窓から何度も外をうか
がっていたのに、雲が晴れていたことには気づかなかった。未佳は仰ぐ。どこかくすんだ
夏の空とも、氷のような冬の空とも、もちろん家に帰りたくなってしまう秋の空ともちが
う、わずかな埃と、たっぷりとした期待と、温もりを包みこんだ春の空。足元はレンガ敷
きの周回路で、緑里と並んで歩くといくぶん狭い。芝生と緑里の髪の色はよく似ていて、
校舎と渡り廊下に囲まれた中庭で、ふたりの靴音がややくぐもった反響をともなう。中庭
にはほかに誰もいなかった。
緑里と並んで歩くと、未佳の方が頭半分ほど背が高い。緑里がとりたてて背が低いので
はなく、未佳の身長が平均より大きいのだ。誰かと並んで歩くのは、いつ以来だろう。入
学式で友香と歩いた。けれど、なにかちがうような気がした。あのときは、ただ先行する
友香に、自分は随伴して歩いていただけだった。並んでいたのではなかった。が、緑里と
並ぶと、先行する誰かを追いかけている気持ちにはならなかった。不思議だった。
緑里は中庭に出ると、ポケットからあの黒ぶちのメガネを取り出してかけた。小さな顔
に大きなメガネは似合っているような、似合っていないような。ぬいぐるみにむりやりメ
ガネをかけさせたような。やはり緑里に対する第一印象は変わらない。茶髪メガネのネコ
だ。
「広島さん、近眼なの?」
しばらくだまって中庭のレンガを踏みしめたり、芝生を突付いたりしていたが、先に口
を開いたのは未佳だった。
「うん」
緑里は空返事。なにかを探しているような目つきだった。はじめて踏み込んだ領域を、
自分の「縄張り」にしようとしているネコのような。未佳は言葉の続きを待ったが、それ
っきり自分の質問を忘れた。緑里の擦り切れかけたジーンズの膝が面白かった。未佳は顔
を上げて、中庭を囲む校舎や渡り廊下をぐるりと睥睨する。開いている窓はひとつもなく、
蛍光灯が点っている窓も少なかった。まだ、どの建物がどの学部なのかもわからなかった。
そのうち、足音が自分のものしか聞こえなくなった。並んで歩いていたはずの緑里の靴
音が聞こえなかった。未佳は振り向く。緑里は、手を伸ばせば届きそうな、けれど五歩く
らいは歩かないとたどりつけない、絶妙な位置にいた。右足に重心を乗せ、表情もなく、
両手をカバンに突っ込んでいた。
未佳は声をかけようかと思った。が、ためらった。並んで歩けば、気軽に声をかけられ
る。しかし、離れてみると、緑里はなんとも遠くに立っていた。自分たちの距離感は、ま
だこれくらい開いている。緑里をすでに、気心が知れた友人のように思えていた。けれど、
未佳と緑里は、まだ離れていた。
大またでだいたい五、六歩。それくらいの見等かな。未佳と緑里はたがいに表情を浮か
べず、声も立てず、たがいの顔を向いたままで立つ。すると緑里はカバンから小さな機械
を取りだして顔の前でかまえた。カメラだった。フォーカスリングにさわったかと思うと、
何も言わずにシャッターを切った。
「カシャン」
未佳はそのとき、レンズを向いていた。レンズの向こうに緑里の瞳があったからだ。
「シャコン」
緑里はカメラを立てにかまえなおし、そしてすばやくまたシャッターを切った。
「カシャン」
そして、ゆっくりとかまえていたカメラを降ろした。レンズの向こうの瞳は、さらにメ
ガネの向こうにあった。未佳はじっと、緑里から視線をはずさなかった。緑里はカメラを、
その小さな黒い機械をまたもとどおりカバンに戻し、そして一瞬だけ視線を未佳の足元に
向けたようだった。未佳と緑里の視線が、数メートル先の地面で交差した。次にはもう緑
里の瞳は未佳を向いていて、ネコのようなまなざしが細くなった。微笑んだのだ。未佳は
まだその場に立ったままだった。緑里を半分振り向いたかっこうで。
先に歩を進めたのは緑里だった。ゆっくり、けれど彼女にとっての最大限のコンパスで。
一、二、三、四、五。緑里は五歩歩いて止まった。まだ未佳には届かない。未佳と緑里の
コンパスの違いか。きっとわたしなら届いてる。緑里の目は微笑んだままだ。
「怒らないんだね」
きれいな声だった。
「どうして?」
「いきなり撮ったから」
「ううん」
緑里が未佳の隣に並んだ。未佳は振り向きかけていた身体を元に戻す。空はまだ青い。
「そこ、座らない? 灰皿もあるし」
未佳の目測で七歩。ベンチと灰皿があった。一、二、三、四、五、六。ベンチは思った
より近い場所にあった。緑里が先に座り、未佳がつづく。緑里はさっそくベコベコのシガ
レットケースを取り出して、一本抜いた。華奢なライターで火を点け、煙を散らした。
「やっぱり寒い。これで四月なんだね」
緑里が言う。
「寒いかな」
「寒いよ」
「陽が照ってるから、別に」
「さすがだな。今年の冬が怖いな」
緑里はことさらゆっくりと煙草を喫っていた。未佳は一度も煙草を喫ったことがない。
喫おうと思ったこともない。考えてみれば、煙草を一本喫っているあいだは動作を、仕草
をごまかせるわけで、あんがい便利な道具かもしれないな、そんなことも考えた。
「メランコリック?」
煙を未佳の遠くに散らしながら、緑里が訊いた。
「なに?」
「未佳ちゃんの表情。なんだかねぇ、いい顔してた。だからあたし、振り向くのを待って
たんだ」
未佳は緑里を向く。言葉は返さない。
「いちおう、あやまっておくね。ごめん、突然写真撮ってしまって」
煙草を灰皿に載せ、緑里は未佳を向き直って軽く頭を下げた。
「いいよ、そんな。あやまらなくても」
「嫌がるひとは、嫌がるから。撮る前はかならず断ってるんだけど、けどね、未佳ちゃん
のあの顔は、きっと抜き打ちで撮らないと消えちゃうな、そう思ったから」
煙草をまた指にはさみ、喫う。
わたしは、どんな顔をしていたのだろう。空を仰ぎながら、校舎の窓を数えながら、わ
たしはどんな顔をしていたのだろう。正直、まるで無防備に自分は表情を空気にさらして
いた。
「いい顔だった。未佳ちゃん、美人だよ」
つぶやくように、煙と一緒に、緑里は言う。ビジンの発音が、少し変だった。
「美人かな」
「フフ、ビジン。もしあたしの思いどおりに撮れてたら、写真はあげるよ」
一本をじっくり灰にして、緑里は目を細めた。
「ありがとう」
「いま何時? きょうね、時計忘れたんだよね」
「まだ十二時、四五分にはなってないよ」
「行こうか。教室、覚えてる?」
「一号館の、一四〇一」
「だね」
緑里は勢いよく立ち上がる。きっと未佳が真似をしたら、軽い貧血を起こしてしまう。
未佳はゆっくり立ち上がった。緑里をやや見下ろすかっこう。緑里の茶色の髪が、柔らか
そうだった。
「あ、そうそう」
わざとらしい口調で、緑里は振り向いた。
「なに?」
「あたしねぇ、実は猛烈な近眼。本当はメガネなしでは歩けないくらい。メガネなしで東
京へ帰れって言われたら、きっと札幌駅までたどり着けないよ」
そう言って、緑里はメガネをはずし、ポケットにしまいこんだ。大きな瞳と、くっきり
した二重の瞼。髪の色のように薄い茶色の目は、たしかにどこか焦点が定まっていないよ
うに見えた。
「何ではずすの?」
「いまは、見えるものを認識したくないから」
「あぶないんじゃないかな」
「大丈夫だよ。行こう」
大きな目をくるくるさせて、緑里は笑った。
ふたりは、また並んで歩きはじめた。
未佳と緑里がそろって教室に入ったころ、なかにいた学生たちがいっせいに視線を向け
てきた。遠慮がちに、さり気なく。
何人かはもう並んで座って、雑談をしていた。みんなそれぞれがそれぞれにまだ遠慮が
ちで、いくつかできているグループから離れてぽつんと座っている学生も見えた。大きな
島と、そのまわりの離島がいくつか。そんな感じ。
緑里は何も言わず、まっすぐ窓際の席に座って、未佳も並んで座った。教室はスチーム
が効いているらしく、暑かった。四月だというのに、暖房。緑里が気づけば何か言いそう
だったが、彼女はカバンからルーズリーフを取り出して机の上に置き、それから窓の向こ
うをちらりと向いたあと、すぐ前の席にひとり背中をこちらに向けている学生の肩を指で
つついた。
「いま何時?」
緑里が訊いた。
「十二時五七分、ですけど」
リコーダーのような声だった。長い髪は黒く、柔らかそうなセーターを着た学生は、緑
里に振り向いて、時間を告げた。
「ありがと」
緑里は応えると、ポケットからあのメガネを取り出してかけた。メガネをかけると、緑
里の表情はとたんにアンバランスになっていく。鋭い視線で物を見るその表情は、まるっ
きり街角のネコだったし、枯れ草色の髪の毛と華奢な首がまたアンバランスだった。時間
を聞かれた学生は、振り向いたままだった。まだ緑里がなにか言いそうな顔をしていたか
らだ。
「一時、からだよね?」
緑里が言った。
「だと思いますけど」
黒い髪の彼女は、瞳も真っ黒だった。茶色を通りこして、ほとんど紺色の目をしていた。
「暑くない?」
「えっ?」
「そんな厚着で」
「別に、そうでも、ないけですけど」
一言一言を区切るようにして、黒髪の彼女。
「あたしは、ちょい暑い。できれば、ほんのちょっと、窓を開けてくれないかな」
エサをねだるときのネコは、あんな顔をする。緑里の笑顔は、人懐っこい。けれど、一
瞬後にはもとの鋭い目に戻っている。やはり、緑里はネコだ。食堂からここまで来るのに、
未佳は緑里の横顔を見て、そんな印象を抱いていた。表情がくるくる変わるのだ。まるで、
ネコの目のように。
黒髪の彼女は、そっと立ち上がると、鍵を開けて窓を細く開いた。
「ありがと」
緑里は笑顔。
「いいえ」
黒髪の彼女はもとの席に戻り、そしてどこか所在なく、手元のノートをいじった。緑里
がずっと彼女を向いていたからだ。
「こっちのひと?」
微笑みながら、緑里。
「はい?」
黒目がちな瞳をやや大きくして、黒髪の彼女。
「厚着だから」
「そう、ですか?」
「あたし、広島。よろしく」
緑里がそう言ったとき、未佳は吹きだしそうになった。引っかけだ。
「あの。広島県から?」
黒髪の彼女が訊いた。やはりだ。思ったとおり、緑里はかみ殺したように笑い、未佳を
向いた。
「いや、仕方ないんじゃないかな。その言い方だったら」
なんとなく黒髪の彼女が気の毒に思えて、未佳が言う。黒髪の彼女は戸惑ったように目
を伏せた。
「そうかな」
緑里は首をかしげる。どうやら狙ったわけではなさそうだ。
「あたし、広島っていうの。広島緑里。よろしく」
緑里が言うと、黒髪の彼女はようやく合点がいったのか、苦笑した。
「広瀬です。出身は、……あの、千歳です」
「空港の?」
「はい」
「あたしは、東京。こっちは寒くて、参ってます。広瀬さん、下の名前は?」
黒髪の彼女は、下の名前を綾子だと名乗った。緑里は、目を細めて、もういちどよろし
くと言った。未佳も続いて自己紹介をした。つもり、みかです。よろしく。笑顔を並べて、
その列にくわわっている自分の姿を想い、かすかな嫌悪でほんの少しだけ吐き気がした。
綾子は話す人間の目をまっすぐに見た。そうでないときは伏し目がちだった。大人しそう
な印象を抱いたが、話す相手をまっすぐに見据える視線は、驚くほどに強かった。緑里の
鋭いそれとは違い、綾子の目は、強いのだ。
綾子と向かい合って自己紹介をしたときに湧き出したかすかな吐き気は、それを意識す
るとやがてじょじょに膨れあがり、基礎クラスの担当講師が現れてひととおりの説明をは
じめたころには、はっきりとした症状になっていた。隣では緑里が細かい字をびっしりと
ルーズリーフに並べていたし、前席の綾子は背中を丸め、わずかに左肩を下げるようにし
てメモを取っていた。教室中の学生たちは、少なくとも「自分よりは」希望をその内側に
抱えているように見えた。それが積極的な希望でも、怠惰で惰性的な希望でもおなじだ。
この場の空気を嫌悪している人間などいなかった。自分を除いては。
未佳は湧きだした吐き気の原因に気づいていた。それは自家中毒のようなもので、いま
自分が希望を内包した学生たちと机を並べていることについて、激しい嫌悪を抱いていた
のだ。
未佳はノートを取るふりを続けていたが、スチームの熱気と学生たちの熱気と自分の内
側でじわじわと何かと反応をつづける嫌悪が呼び起こすいやらしい熱気で、胸が悪かった。
緑里はメガネをかけ、じっと黒板を見据えていたし、高校時代のように居眠りをするわけ
にもいかなかった。眠いわけではないのだ。未佳は耐えられなくなっていた。いま、自分
が、ここにいることに。
忘れかけていたもう一人の自分を、未佳はそっと胸の内に呼び起こす。そして、謝る。
ごめんなさい。
そっとペンを握る自分の左手越しに、緑里の横顔をのぞいた。ネコに似ていると思った
が、横顔は端正だった。掲示板の前でぶっきらぼうな態度でペンを貸してくれた緑里の気
取りのなさが、未佳を錯誤させていた。つい、周囲に気を許してしまった。吹雪の日、ど
こからともなく吹き込んでくるアスピリンを思わせる雪の結晶のように、緑里の気取りの
なさは、未佳の内へ、そっと安堵を流し込んでいたようだった。気心の知れた友人たちと
しゃべるときのような。
ごめんなさい。
未佳は詫びた。もうひとりの自分に向かって。
吐き気はやがておさまり、変わって頭痛が始まった。寝不足の朝のように、じわじわと
未佳の側頭部を締めつけて来た。比喩的なものではなく、事実体感できる症状として。
「未佳、大丈夫?」
声に顔を上げると、緑里がこちらを向いていた。
「具合悪い?」
汗でも額に浮かんでいたのだろうか、緑里は声をひそめ、訊いた。
「大丈夫」
と言ったつもりが、声にならなかったらしい。
「どうした?」
緑里が訊く。きれいな声だった。
「大丈夫、ちょっと、貧血」
無理やり笑おうとしたが失敗した。未佳は左手のペンをノートの上に転がして、額をぬ
ぐった。細かな汗が浮いていた。そして、驚くほどに冷たかった。
「気分悪い? 外、出ようか?」
「大丈夫。大丈夫」
窓がまぶしい。
教室のぼわんとしたざわめきがずっと耳の奥で鳴っている。それでは、自己紹介を、各
自。
綾子が振り向いた。黒い髪と、白い顔。日本人形のようだった。紺色の目が緑里を見、
そして未佳を向き、また緑里に戻った。
「どうかしたんですか?」
「なんか、未佳、具合悪いんだって」
「大丈夫ですか?」
自分がなんと応えたのか、覚えていない。
教室では各自の自己紹介が始まっていた。
けれど、未佳には聞こえなかった。
(やっぱり、来るんじゃ、なかった)
額ににじんだ汗を左手の甲でぬぐった。
緑里の目がこちらを向いていた。獲物を狙うネコの目。鋭い光が宿っていたけれど、自
分を狙っているのではなさそうだった。彼女の右手が未佳の右手に触れた。暖かい手だっ
た。
「大丈夫? やっぱり、外、出ようか?」
ささやきが聞こえた。
もういちど緑里の目を向いた。
大きな目がまっすぐ自分を見ていた。
ネコのようだと思ったが、そばで見ると優しい目だった。
未佳は、涙が出そうになった。
(2003-12-16)