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アメリカ留学雑感
ペン州立大交通研究所での1年
斉 藤 和 夫
は じ め に
筆者は昭和56年度の文部省在外研究員としてアメリカ合衆国に派遣され,昭和56年8月からペンシルベニア州立大学のペンシルベニア交通研究所で招へい教授として1年間の研究生活を送る機会を得た。交通研究所では自動車研究部門(Automotive
Research Program)に属し,部長のJohn J. Henry教授(現研究所長)らと主として舗装路面のすべりに関する共同研究を行なった。滞在中は研究の他に3度の学会出席,アメリカ南部やカナダへのドライブ旅行、研究所のスタッフや隣人との交際など多くのことを体験することが出来た。この度,本誌編集委員からのすすめもあり,交通研究所,アメリカの道路事情や生活雑感を記してみた。
1. ペンシルベニア州とPenn State
アメリカ大陸東海岸に近いペンシルベニア州は地図で見るとわかるように,300マイル×160 マイルの長方形をしており,独立当時の13州の中で中心的に役割を果たしたことからKey-stone Stateのニックネームで呼ばれている。州の西端には鉄の都ピッツバーグが,南東端には独立宣言の舞台で自由の鐘で有名なフイラデルフィアがある。州都は数年前に原子力発電所の事故で世界の注目を集めたスリーマイル島のあるハリスバーグである。また,ワシントンD.C.やニューヨークにも近接している。
ペンシルベニア州は地理的に見ると北緯39゜45'〜42゜の間にあり、北部でニューヨーク州および五大湖の1つであるエリー湖と接し,南部では西ヴァージニア州およびメリーランド州と接している。州の中心的な産業は農業と鉱工業であり,地下資源が豊富である。気候,風景などは北海道に非常によく似ており、起伏に富んだ自然の美しい地域である。
私達家族の住んだステートカレッジ(State College)は,州のほぼ中央でアパラチアン高原のまっただ中に位置している。この街は名前の示す通り,学生数で全米11位(約6万5千人)のペンシルベニア州立大学(Pennsylvania State University,通称Penn State)の本部がある東部の典型的な大学街である。Penn Stateは州内に19のキャンパスを有する大規模な教育システムであるが,大学院があるのはこのメインキャンパス(University Park Cam-pus)だけであり, 各キャンパスから大学院に進学してくる学生を含めて3万5千人の学生が学んでいる。街の人口がほほ7万人なので,教職員等を含めると住民のほとんどが大学に関係しており,まさに大学のために街があるといえる。
Penn Stateは1855年に設置された旧農業高校に始まり,より高度な教育をめざLた農科大学へ,さらに学部を増設して11学部を有する今日の総合大学へと発展してきた(なお,医学部はチョコレートで有名なHershey市にある)。したがって,筆者の渡米前年の昭和55年に125周年を迎えたことになり,事前に交換した手紙にはその記念スタンプが使用されていた。1981年におけるpenn Stateの研究費総額は175憶円( 1ドル=250円)であったが, その73%は外部からの委託研究により得たものであるが, その中心をなす連邦政府から得た研究費額で見ると全米の大学の8位であり,高い研究水準を保っている。
Penn Stateでは多くの学科が交通関連コースを開設しているが,その中心をなすものは土木工学科と経営学部のビジネス・ロジステックス学科(DepartmentofBusinessLogistics)である。その開設科目を示すと表一1のようになるが,後者の学科は日本ではあまりなじみがなく適訳はないが, その内容は物質調達に関する調達流通と製品流通に関する物的流通を一つのシステムとしてとらえようとするもののようである。アメリカではこの分野の研究者が公共交通計画をはじめ多くの交通分野で活躍しているのが目につき, 日本と異なる特徴を示している。
ところで, Penn Stateはフットボールが強いのが有名である。滞在中の昨シーズンは前半1 位になりながら,後半取りこぼしがあり,最終的には6位にとどまった。しかし,今シーズンの1月には見事1位が決定し,街中が大騒ぎであったとのことである。大学にはフットボール専用スタジアムがあり, ホームゲームの時は8万人もの観客がつめかけて街は大混乱になる。この期間, ホテルやモーテルの料金はフットボール・プライスと呼ばれ,普段の2〜3倍にはね上る。まざにアメリカ人はフットボール狂である。
2. ペンシルベニア交通研究所(PTI)
ペンシルベニア交通研究所(Pennsylvania Transportation Institute,通称P T I ) は (1)学際的な交通研究の推進,(2)学生への教育と研究の機会の提供,(3)交通専門家への継続的教育の推進を目的として1968年に設立されたPenn Stateの学際的な研究機関の1つである。アメリカの大学がもつこの種の研究所は外部から委託研究を受け入れるための名目的なものが多いが,P T Iは生みの親ともいうべきWolfgang E. Meyer名誉教授の努力により,特に舗装路面の性質やすべりに関する研究分野ではNASAの研究所やテキサスA&M大学の交通研究所(TTI) と並んでアメリカのトップレベルにある。
PTIは図一2に示すように7つの部門から構戊されており,多くの学部,学科の教官が研究テーマごとにプロジェクトを組んで研究するシステムをとっているので,専任の教官はいない。しかし,各部門の長は研究所に常駐し,外部からの委託研究の獲得, 大学院生の指導およびスポンサーへの報告書作成まで責任を持って活発に活動している。1981-82会計年度でP T Iが外部から得た研究プロジェクトは33であり, 7億5千万円を獲得している。これらのプロジェクトには7学部から36名の教官が参加し,約90編の論文を国内外で発表する戊果を収めている。
筆者は自動車研究部門に属し,部長のHenry教授、Meyer名誉教授らとすべり抵抗の季節変動モデルの開発, ASTMすべり試験タイヤの測定値と路面性状の関係,湿潤路面のすべり事故とすべり抵抗との関係、さらに舗装材料部門のAnderson部長らと室内実験によるすべり抵抗値の推定方法に関する研究を行った。これらの研究テーマを含めて,上記両部門ではPavement ManagementSystem(PMS)の確立を目的として, (1)路面のラフネス, (2〕路面のプロフィール, (3)路面のすべり抵抗、(4〕路面の性状,の4つに関するデータ収集と解析方法の研究を進めている。現在, これらの問題に関して11の研究プロジェクトが進行中で,獲得した研究費は研究所全体の1/2に当る3億7千万円(150万ドル)である。筆者はこのような環境の中で,アメリカの若手研究者の中心をなし, ASTMCommitteeE-17(走行路面特性)の事務局長を務めるHenry教授と多忙な毎日を送ったが、幸いに彼と共著で連邦政府への報告書2編,学会へ3編の論文を提出することが出来た。前記の教授らとはほとんど毎日,街のレストランで昼食を共にし,研究のこと, 日本のこと,アメリカのことなどに話の花を咲かせたのも楽しい思い出の1つである。
なお,交通計画に関係する3部門の研究者は, ほとんどが先に述べたビジネス, ロジステックス学科など経営学の専門家である。また,交通事故解析部門のF.A.Haight部長は交通流理論で日本によく知られており,現在「Transportation Research」と「Accident Analysis and Prevention」というinternational journa1の編集長として活躍している。筆者はしばしば交通安全の問題について話し合う機今をもった。
ところで,アメリカの大学では研究費のほとんどを外部からの委託研究に依存しているが,スポンサーは予算に応じた成果を必らず要求するため,
よく吟味されたテーマが選ばれ,
強力な指導者のもとで少ない人数で合理的かつスピーディに研究成果を挙げている。反面,委託研究を獲得できない人や研究成果を挙げていない人は,
大学院の学生を受け入れることが出来ず,
また実験室等の使用面積も狭められ,ついにはオフィスだけしかなくなるほど,
厳しい実力主義の世界を見せつけられた。プロジェクトのほとんどが連邦政府からの委託研究であったため,
Henry教授らと何回かワシントンD.C.の連邦道路管理庁(Federal Highway
Administration,FHWA)へ研究打合せに行ったが,天候が良い時は同僚のWambold教授の自家用飛行機(写真一7)を車代りに利用したが,
このことも日本の大学との違いを痛感させられたことの1つである。
3. アメリカの道路事惰
渡米前に雑誌「タイム」で,最近アメリガの道路事情,特に施設の老朽化が問題になっていることを知ったが,実際に生活してこのことを現実の問題として認識させられた。アノリカでは財政難のため, ここしばらくの間道路部門への投資が抑制されてきたことが事態を深刻にしている。
例えば,ペンシルベニア州の現状を見ると,約45,000マイルの州内道路のあらゆる部分で維持補修が大きな問題となっている。州内の州際道路(Interstate Highway)は,特に南西部( I -70) と北東部( I−80, I−81)で老朽化が著しく,このままで行けば現行の速度制限(55マイル/時=88km/時)を低下させることが必要とされている。1級州道(primary roads)はいたるところ穴(pothole)だらけであり, 2級州道(Secondary-roads)の多くは運転上危険な状態になっているといわれている。実際にこれらの道路を運転すると,補修,パッチングだらけで乗り心地が悪く,北海道の道路の方がかなり良好であるとの印象を受けた。研究所のAnderson教授らは州道路局(Penn DOT)の委託を受けて,春先に出未る舗装の穴の補修方法, Pothole Repair Management Systemの開発にカを入れていた。これらの問題を含めて現在アメリカの道路関係者が当面している課題は,限られた予算で効率よく路面を維持管理するPMSの確立であり,そのための研究もPTIの例で示したように盛んである。このことは近い将来わが国でも重要な課題になるものと思われる。
一方,州内のもうlつの重大な問題は約27,000ヶ所の橋梁の維持,補修,架け換えである。最近,主要な橋梁が老朽化のために通行止めになるケースが多くなっており,Penn DOTの見通しではここ数年内に新たに25〜30の主要な橋が閉鎖されるとのことである。また,既に1,200の橋で通行車両の重量制限を実施しているが,新たに数百の橋がこれに加えられるとのことである。ある地域ではスクールバスが橋を通る場合に, 手前で子供達を降ろしてから通り,子供達は徒歩で橋を渡る状況にある。
その他に塩カルなどの除雪氷剤の急激な値上りのために散布量を減少していることによる冬期交通サービスの低下,公共交通に対する補助の削減など多くの問題をかかえており, 交通部門への投資の減少に伴い30,000件の職が失なわれ,失業を増大させているといわれている。これら道路事情の悪化は, また既存産業の州外転出および新規産業の誘致を困難にすることも懸念されている現状にあり,問題は深刻のようである。
ところで,ペンシルベニア州にはアメリカの有料高速道路の先がけとなったPennsylvania Turnpikeがある。この道路は建設資金の不足を補うためにターンパイク制(有料制) を取り入れて1937年に建設が始まり, 1940年に州都ハリスバーグからピッツバーグまでのl60マイルが開通したもので,他州の有料高速道路建設熱の口火を切った。現在ではフィラデルフィアおよびその延長線を含めて470マイルが完成しており,西のOhio Turnpike,東のNew Jersey Turnpikeと連絡してペンシルベニア州の大動脈をなしている。しかし,この道路も実際に走って見ると,中央分離帯も狭く,線形的にも時代遅れの感がある。ただし,料金は非常に安く, 室蘭一札幌間程で1ドル程度であった。この道路に限らずアメリカの有料道路の料金は非常に安く,市内あるいは有料橋などは10〜25セント であり, ボックスに硬貨を投げ入れるだけの簡単な徴収方法を採用しているのも,いかにもアメリカらしい印象を受けた。
一方,アメリカの道路で忘れてはならないのが州際道路線である。この道路網は1941年の国防道路法および,
1944年の連邦補助道路法にもとづく総延長4万マイルを越える無料の高速道路網で,現在はほほ完成している。別名Defense
Highway Systemと呼ばれている。このうち,東部の北から南までの主要路線I−95
(ボストン〜ワシントンD.C.〜マイアミ)などl万キロ近くを運転したが,100Km/h
近くで1日中ノンストップで走行できる完全立体交差,時々対向車線が視界から消える広い中央分離帯,道路マップ1枚でどこにでも行けるわかり易い案内標識など,
まさにアメリカの車社会を支える基盤がここにあるといえ,
その効果は測り知れないものがある。また,州境には必らず立派な旅行案内所があり,マップその他の資料を無料で手に入れることができ,安い宿泊施設(モーテル)も多く,旅行者への配慮が行きとどいている。アメリカ人が気軽に長距離旅行に出掛ける秘密がここにあるとの印象を受けた。ただし,
この州際道路もペンシルベニア州の例で述べたように、最近では路面の傷みが激しく
(特に東北部で), いたる所で補修工事中で1車線通行が多かったのも,今日のアメリカの道路事情を象徴しているように思われた。
4. アメリカ生活雑感
仕事の話はこれぐらいにして,次に生活して,見たこと,感じたことのいくつかを紹介してみよう。
車のこと:アノリカの生活で欠かせないのは車である。筆者の場合は到着後数日にして車を購入したので,アメリカで生活を始めるのにつきものの不安,不便を感ずることなくすぐに現地の生活にとけ込むことが出来た。ステートカレッジのような小さな街でも日本車はかなり多く, また評判もすこぶるよいようである。到着後泊ったモーテルで朝起きて窓から最初に目に飛び込んできたのが,道路向い側にあるカーデーラーの「TOYOTA」のカンバンであり,次に目に入ったのがその隣りのケンタッキー・フライドチキンのカンバンであった。まさに日米を代表するガンバンが隣り合っていたのである。市内ではTOYOTA, HONDA, DATSUNのかんばんが目につき,隣人にも日本車の愛用車が多かった。また,雪の降る起伏の多い地域のためかスバルの4WDも目につき,秘書のJeanneも愛用者であった。ところで,筆者の車はというと日本でいう外車, 8気筒6000ccのCp (オートマチック,写真一14)で,アメリカの中古車につきもののトラブルもなく快適であった。なお,車の登録料は24ドルのみで,年1回の車検はエンジンとブレーキの簡単な検査で料金は8ドルであった。交通運用方法は左右が反対になるだけで日本とはあまり変らないが, 「NO TURN ON RED」の標識がない限り赤信号でも右折(日本の左折)が出釆ること,高級道路では最低速度制限(40マイル/時)があること, 3車線運用で中央車線が両方向の左折専用(日本の右折)であること,車からゴミをすてると罰金(50ドル程度) をとられること, スピードの取締りはスピード・ガンを用いていることなどである。また,当時のギャス(ガソリンのこと)は70円/1程度でギャス・ステーションのほとんどがセルフサービス方式である。
食べもののこと:外国生活をする揚合に一番心配なことは食べ物であるが,アメリカに関していえばあまり心配することはないというのが結論である。ステートカレッジ程度の街でも2軒のチャイニーズ・ショップがあり,大体のものは手に入る (ただし日本の2倍はする)。また,一般のスーパーでも米, インスタントラーメン, しょうゆ, トウフなどを売っている。この場合の米はいわゆる外国米で.細長く冷えるとバラバラになるものであるが,アメリカ人はこの米をかなり好んで食べている。
私達はチャイニーズ・ショップで手に入る「国豊」というカリフォルニア米を食べたが,味はまさにササニシキであり, 日本にいる時よりもおいしい米が食べられると家族全員大喜びであった。最近ではアメリカで日本料理が静かなブームであり,大都会では多くの日本料理店がある。ニューヨークにはプロードウエーにサッポロラーメンの店さえある。このブームの背景にはアメリカ人の一種の東洋趣味もあるが、筆者はダイエットという切実な願いがあると考えている。彼らは大量の食事の後に,テザートとして大きなケーキを食べるのが普通であるが,全体の食事量はとてもわれわれのまねることが出来ないものである。これが異常な太り過ぎにつながり,深刻な問題となっている。最近, かなりのアメリカ人が日本料理のダイエット効果に注目しているようであり, 隣人の歯科医Hyatt氏のPat (Patricia)夫人はPenn Stateの大学院で栄養学を専攻する菜食主義者であるが, 日本料理法を広めたいと口ぐせのようにいっていた。また,学会で知り合ったメリーランド州道路局の研究部長Parrish氏のJean夫人はボルチモア市の高校で家庭科を教えているが,家族で一泊させてもらった折に,これから日本料理も教えたいので日本料理ブックの英語版をぜひ送ってほしいとワイフに熱心に頼んでいた。なお,最近のアメリカはインフレが激しく、 食料品は牛肉などいくつかの品を除いてかなり高くなってきており, 日本とほとんど変らないという実感をもった。
パーティのこと:アメリカ人のパーティ好きは有名であり,私達も50回以上のパーティやコンサートに招待された。特に12月はクリスマスの関係もあり, 2週間に5回も招待されたこともあった。パーティは少々フォーマルなディナー・パーティから,近隣の肩のこらない簡単なものまでいろいろあるが, ディナーパーティを除けばちょっとしたツマミと飲み物というスタイルが多く, 酒も水割り4〜5ハイで4〜5時間も話しをするのが一般的であり,日本のように酔っ払うまで飲むこことはほとんどない。アメリカではこの種の集りで泥酔することは社会的に落伍者のらく印をおされるので, 日本的な感覚で飲みまくることは厳につつしまなければならない。Henry家をはじめ多くのディナー・パーティにも招かれたが, その際は新戚も集まり楽しいものであったが, このようなパーティは核家族化が進んでいるアメリカの生活パターンの中で, お互いのつながりを保つのに大いに役立っているようである。研究所でもたまたまこの種の集まりをするが, 3ドル会費ぐらいでピクニックと称する簡単なものが多い。
酒のこと:わが家のすぐ近くの森の中に居酒屋(tavern)があり,週末には演奏や歌を聞きながらたまに酒を飲むことがあったが, その他のパーティなどで、少々の酒を飲む以外に外で酒を飲む機会は少ない。日本のように毎夜飲み歩き(しかもだんなだけで), はては午前様などということは考えられない。したがって,筆者の飲酒度は極端に低下し, 日本に帰ってからのつき合いに恐怖心をいだいていたが,帰国後も仲間はづれにされてしいないところを見ると,持っている素質は簡単に変らないものらしい。
アメリカ人は昼食時にビールやワインを飲み,平気で車を運転している。これが原因なのか、死亡事故の3割以上が飲酒がからんでおり深刻な問題となっている。 しかし, 日本のように厳しい取締りはしない(できない?)ようである。筆者も初めは日本の法律をたてに昼食時のビール等を拒否していたが,ついには誘惑には勝てずにしばしば日本の法律を侵すことになった。ちなみに,ペンシルベニア州では21歳未満の飲酒は禁止されており, また酒(ビールは別)は州経営のstate storeでしか売っていない。日本人は一般に若く見られるので,30代の人でも酒を買う時に身分証明(IDカード)を求められれることがよくあるが,残念ながら(?)筆者は求められたことはなかった。
アメリカ人気質:多くの隣人との交際でアメリカの社会現象の一部をかい間見ることが出来た。隣人や子供の友達の家庭の約半数が母子家庭であった。アメリカの離婚率が50%を越えていることは周知の事実であるが,週末に子供達が父親に会いに行く姿を見るにつけ, 日本で最も離婚率の高い北海道の将来が思いやられた。しかし,母子とも非常に割り切っているように見え,子供は今日お母さんはボーイフレンドに会いに行って帰ってこないなどと平気でいっている。もう1つは,隣人の学生の多くが一度社会に出てから大学にもどり,既に結婚して子供もいる状態で真剣に学んでいることである。彼らは決して親の援助を受けずに奨学金とアルバイトで、また夫人の働きで学業を続けている姿を見るにつけ, 日本の大学生との相違そしてそのバイタリティにただ驚くばかりであった。その彼らも,学期末試験が終るとさっそくターム・ブレーク・パーティを開き,つつましい中にも明るく生活を楽しんでいる。私達をいつも紹待してくれたこれら学生夫妻とのつき合いも楽しい思い出の1つであるが, その彼らも卒業後新たな職を得て各地へ散らばっていっていると最近の手紙は伝えてきた。
一方、私達を常に家族の一員として交際してくれたHenry教授夫妻の生活パターンもアメリカの一つの側面である。アメリカ人としては珍しいぐらい温厚でシャイな彼は,研究所で目のまわるような忙しさの中,週に一日母親の経営する製糸工場の会計担当重役として勤め,週末にはトラクターを運転して牧草をつくり,
ブタや牛を育てるなど境界がどこかわからないような,
日本でいえばさしづめ過疎地域のような広大な土地に悠然と暮らしており,
アメリカ人の1つの理想的な生活パターンを実現している。趣味のクラッシックレコードのコレクションは5,000枚を越え,切手のコレクションは祖国ノールウエーはもとより日本の明治期から今年のお年玉切手までほとんど全てを収集し,
出版されたばかりの「五輪の書(英訳)を筆者に見せては驚かせ,「将軍」の島田陽子のファンでもあるリッチなアメリカ人である。しかし,
その彼も何かの景品である乾電池1個をもらいに毎月郊外のショッピングモールの電気店に通い,l0ドルの品を買うにも筆者と一緒に街中の店を訪ねて少しでも安いものを探すという質素で合理的なアメリカ人でもある。最近の手紙では,彼が研究所長に選ばれたこと,研究時間が少なくなって困っていること,
そして近い将来の再会を望んでいることを伝えてきた。現在45歳の働き盛りである。
お わ り に
この1年間の滞在で, 多くのことを知り多くの人との出合いがあった。研究面では, 大学院時代に研究した路面のすべりに関する問題に再び取り組み, 日本ではとうてい期待の出来ない豊富なデータを用いて自分なりに満足すべき成果を得たと考えている。研究所のスタッフ,学会で知り合った研究者, 多くの隣人達との出合いがあり, アノリガ人の一端を理解出来たように思われる。一方,北大時代に共に研究した仲間,筆者とデラウェア大学準教授菊池真也氏, 富山大学助教授実 清隆氏(当時MITに留学中)の3人が16年振りにデラウェア大学で再会し,昔をなつかしんで一夜を語り明かしたこと,同じく研究仲間であった北海道工業大学の笠原 篤助教授一家(当時カナダのウオタールー大学に留学中) との交際,苫小牧高専の沢田知之助教授一家(当時インデアナ州のパデュー大学に留学中)との交際など,知人と異国での再会も思い出の多いものがある。
アメリカの大都市は活動的で,魅力的で,かつ恐怖の世界でもある。
しかし開拓時代から培われてきた古き良きアノリカは田舎に根強く生きている。わずか1年であるが、
東部の田舎街に暮らして,それを身をもって体験出未たような気がする。
(室蘭工業大学助教授)