雑 感
瀬 藤 智 雄
歩道の除雪について
今冬はプレオリンピツクの年で国の内外から相当札幌にお客ものりこんでくることと思う。待望久しいオリンピツクを前にしての種々のテストの好機をあたえられるわけだ。そういう意味において競技場ヘ行く輸送計画と市内除雪うの関聯を如何にしていくか。雪が降らなければ問題はないが、競技期間に一度位の豪雪を考えて対策を考えなければなるまい、そうした時に競技場へ行くときの除雪と市内除雪が同時に起りうるから頭のいたい問題だろう。年々北海道内の除雪廷長も増加して又その質も高度化していくことは喜びにたえない。特に赤字路線をかかえた国鉄が遂に根北線の廃止を決めたことは大シヨツクを与えた。これも道路を舗装することとそこヘバスを通すことによつて諒解ができたように報道されたが、冬の除雪があればこそであつて、除雪は鉄道にまかせていた北海道の昔の事では到底考えられないことであつたろう。
しかしだんだん人間もぜいたくになつてきて除雪するのが当り前になるとそれが当然のように考える。特にここに掲げた標題の歩道除雪に至つてはサービスも度がすぎる。自分の家の前は自分の庭位い考えて市民がやるべきだという理想が強い。市民の協力を求めるということになるのだろうが、何時までたつても歩道除雪の問題は解決していない。歩道除雪をやる位なら道路の除雪廷長を優先すべきだという声もきく、それも一考すべきことではあるが矢張り両方とも考えてやらなければならない問題であろう。わたくしが特にオリンピツクの時だけを契機として市内のある範囲内は歩道の除雪を完備しなければ外人の笑いものにならないかということをおそれるからである。暖い所では冬でも雨だ。その雨は歩道に降つても道路の側溝を通して流れていく。寒地なるが故に流れていかずに積つていく雪をどうすれば歩くことができるかを考えるのは当然のことであろう。道路とは車道と歩道とから成りたつているものだ。特に市内ではそう考えなければならない。車が増えて日曜日だけはなんとか歩行者のためにということで車をとめた。銀座でもやつた。ニューヨークでもやつた。その外各都市でもやつた。歩行者天国という言葉が生れたのも当然であつた。なんと歩行者が喜々として車のない道路を歩いている光景を新聞テレビでみたことであろう。道路は人間が通るに安全にすべきだ。車を通すのも結構だが人間を無視した現在の道路行政が人間を尊重すべき方向になるべきだ。人命を保護せずしてどうして道路行政があるのだ。そこで問題を更に歩道除雪の貞に戻して考えるならば、夏は通れるが冬は通れない。従つて歩行者は仕方がないので車道を歩く、そうでなくてさえ交通事故の激増している今日どんなに恐るべきことかを考えなければならない。冬季間にツルツルした道路を歩くことが如何に多くの怪我人を出ずているかは、恐らく病院へ行かずに家で苦しんでいる人も加えればどんな数に達するか一度調査をしたらどんなものだろう。最近はロードヒーテイングが行なわれて無雪の歩道もふえてきた。一部は市が助成しているようだがその維持費に到つては誰が負担しているのだろうか。外人も国内の人も多くやつてくる。市内見物にも出かけよう。買物にもでかけよう。そうした時にそれらに要した費用はその買物の中に含まれるのですよ。無雪地帯に住む人も降雪地帯に住む人も等しくあるべきだ。憲去にもその精神がうたわれているではないか。“寒い所に住む人間がわるいのだ”といわれたことも私にはある。そんな除雪までしなけれげならない所に住むからだといわれた。それは道路の権威者の言葉であつた。私はとんでもないことだと聞きなおつたが、その言葉は雪国に住む人にとつては反省すべき言ではなかろうか。私には肝に銘じた名言だと思った。喜々として外は寒いけれど歩行者にとつて安全な歩道があれば家の中にくすぶらずに外出もできるではないか。ともかく道路法にも又雪寒地帯に対する道路対策の法律とも助成の途が明記されていることを怠つているのは一体誰なのか。疑わざるをえない。市民も市民だと思う。あるいは日本の国民性の然らしむる所だろうか。公害でどうしようもなくなつてから公害だ、公害だと騒ぎたてる。私も最近公害問題にとりくまざるを得なくなつて少しづつ勉強しているがとても一日の新聞の記事さえ目が通せない。こんなひどくなつて始めて動き出したのだから歩道除雪はなにを云うか、まだまだ解決さるべき問題が山積しているではないかと叱られないで平然といえる日が何時来るのだろう。
特に学童の通学路はいたいたしい。その時には車をとめて学童を優先させるべきだとの意見もあるようだが、交通規制をやるのが、お役所でこの権利をふり廻わされたらたまつたものではない。吹雪の時にもそんなことがドンドン起つたなら、それは権利の濫用だ。あまり悪口を書きすぎたが要は、雪国に住む人間として云いたいことを云わさせてもらつたまでのことだ。
道路のそばの広告物
次に道路沿線の広告物である。道内全部は知らないが、俗悪な広告物が目立ちずぎる。一度随分と新聞紙上でもたたかれたせいか、きれいになつたように思つたが、それも又もとへ戻つてしまつた形で日本人の商魂のたくましさにあきれる。ごていねいに電柱一本一本にぶらさがつて“これでもか”“これでもか”という具合い見える。かと思うと目をみはらせるような広告物が道路の風景をそこなつている。特に札幌千歳道路に多い。
これは何度も問題になつて解つているのだろうと思うのだが“屋外広公物法”というもので取締つている筈だが、今回のオリンピツクまでになんとか一考を煩してもらえないかと、にがにがしく思う一つの問題だ。それに街角にでている立看板最近は日本人の美的感覚もよくなつたのかも知れないが市内の中心部には見かけなくなつたが、三角形の“そとうば”のような立看板、あれはどうして許可されるのだろうか、場所をとらずに効果的だからたてるのか、
日本人の美的感覚を疑わざるをえない、もう少し街の中を美化しようと考えたらあんなものは逆に腹がたつ。ことにこれから選挙戦に入るとなればあれが益々ひどくなつて見苦しいこと選挙そのものがイヤになる。選挙権行使を叫ぶ前にあの見苦しい立看坂を取り外してほしい。それだけの行使指導はとても人がいなくてやれませんといわれるに違いないが、なんとかしてくれなければやりきれない。
騒音公害について
公害といわれているもののうちで件数の多いのは騒音に関するもののようである。騒音とはいつても現在法律で規制されているものは工場騒音と建設騒音の二つだけである。前者は工場の特定機械から発する騒音で、後者は建設工事による杭打機等から発するもので前者とは期間的についても短期間であつて性質が異なるものである。何れも道や市からその手統き等もあるので騒音に関心のある方は既にご存知のことと思う。
特に騒音だけという場合とそれに伴つて振動とか更には大気汚染の問題が同時にからんでくる場合が多い。こんどの国会は公害国会といわれる位で公害法案が多く出されるのであるが、騒音規制法も一部改正される見こみである。この法律は昭和42年8月に成立をみているのを更に交通騒音として最近のモータリゼーシヨンの進展に伴いとくに自動車による騒音の苦情がふえているので、いまの法律に更に自動車による交通騒音が加わるわけである。なお、交通公害のなかで飛行機特にジェット機などによる騒音もあるが、これはまた別途に法律があつて特に軍用機については自衛隊が学校、病院、市民会館等は補償によつて、防音工事対策に対して助成をしている。とくに交通騒音は東京などでは何百万台という車が動いているので騒音としても問題としてとりあげられる理由があろう。
アメリカにおいては住居地域の静かさを要求される所では、ピアノをひいていると、うるさいので警察に電話すると警察がきて止めさせるというまで徹底しているのでわが国の場合のように騒音を野放しのようにしているのも市民側にも青任がある。特に家屋の構造からいつても騒音の影響が大きいのでコンクリートとか厚い壁でできている外国の家の構造とは比較にならないから更に問題が大きくなるわけである。
こんどの騒音規制法についても道路交通法との関係もあるので、技術面からのみ解決はできないので、法律も充分知つておかなければならない所に枝術対策の面倒さがあるのではないか。
ただ問題になるのは建設騒音については、建設工事にはデイーゼルハンマーの杭打機が盛んに用いられているが、油圧式の無騒音もあるし、アースオーガーであらかじめ穴をあけておいてコンクリート杭をあと一米位打つなどの諸方法があろうが最近札幌市内でみうけるのはデイーゼルハンマー・一本槍で地区住民の諒解をえてやつているようであるが、附近には病人がいたり相当の被害をうけているものもあるからこれら対策が心要となる。
ただこの際発注者が当然工費がかさむのであるからその費用について施工者の負たんにならないように考慮すべきである。この種工事は都市が発展していくと同時に盛んになるわけで、これに対して当然問題化してくるにちがいない。
ただ建設騒音が前述したように短かく我慢しろという場合があるのではないか、もう少し法律を理解してそれに対する規制あることの周知徹底方が必要である。
騒音のみならず大気汚染にしろ水質汚濁にしろやはり人口が都市に集中するのだからこれに対しては公害のない、都市計画法も新たに改正され実施に移つているこの際、工場地帯と住居地域とを離してその間に緩衝地帯としての緑地帯を大巾にとるとか雄大な計画をたて、そこを市民のいこいの場にするとかして緑に親しめるような大構想で公害から脱れるような地帯をこれからドンドン作つていくことが要求されるであろう。
(筆者は本会副会長)