自然は管理できるか
(講演要旨)
北海道大学農学部助教授 辻 井 達 一
今日はご紹介戴きましたように“自然は管理できるか”という非常に大きなテーマでお話したいと思います。あるいはテーマ倒れになるかと思いますが暫くお聞きいただきたいと存じます。
自然の保護と開発は対極的な言葉として使われていますが、開発と自然保護・保全は本来は必ずしも対極的な言葉ではないはずです。ただ、日本ではことに自然保護を心情的に考える人が多いようで、たとえば私のように植物生態学という分野で植物そのものを商売にしていますと意外にそれを、つめたく見ることがあるのに対して、アマチュアの植物を可愛がって育てるのと自然のあつかいとが混同されるような傾向があります。植物をいはば職業にしているものとしては、あるいはそれを扱いなれているものとしては、どこまで、大丈夫であるか、
1本の木を扱う場合、 1本の木でもどこまで傷つけてもよいものかという見当がつくわけです。かつて私が親しくしていた開発局の次長をしておられた亀田さんという人で、開発の親玉といわれるような立場であり乍ら、私と時々山へいきまして、私なんか掘っているのを見て乱暴で見ておられないといいまして、亀田さんの掘っているのを見ますと、根から一粒の土でも落すまいという心くばりをしておられたので私たちの方がはるかに乱暴であるといわれたことさえあります。
自然とは
まず第一に自然とは何かという所から申しますと日本語としてはそう古くから自然(シゼン)とは言ってないようであり、元来は仏教用語でありまして“じねん”とよびまして、ありのまま、本来そうあるべき姿としての意味があったことを
「自然」という言葉で捉えている、植物とか動物とかそういう自然物だけいっているわけでなく、人間の考え方にしろ、物にしろ自然のまま、ありのままという意味でとらえているようで、NATUREの訳語としての「自然」は明治以降であります。「自然」はいくつかに分類されます。植物からみますと森林、草原、湿原とか、砂漠とかのように生きている植物の種類による区分、山、丘、平原のような地形的区分、また土壌的な意味で考えますと火山灰地、泥炭地などの区分もあります。
しかし「自然」というといきなり考えるのは森林、草原というように植物の生えている所を憶い出すことが圧倒的に多いようです。
ことに日本では自然とはイコール森林と考えたり、自然保護という場合には「緑」という考えが強いのではないかと思われます。つまり自然といいましても、国、民族によって異なるものでありまして、自然という概念が違ってくる。森林のない砂漠の民族には自然とは何であるかといいますと大体自然とは恐るべきものだという答えが返ってくるのではないか、われわれの考えている暖かい、なつかしい存在として森林とか緑とかいう概念はでてこないわけです。われわれの考える開発というと森林の伐採が直接的な行動になりますが、いい所を残していく考えと、砂漠に住む人、遊放の民族にとっての自然保護とは、我々の概念では全く異なったものになるはずです。彼らにとっては自然とはまず、恐るべき存在であって、保護の対象ではないでしょう。
農耕民族としての日本人は、暗いことが、きらいといわれています。
日本で雨量の少ない所は北海道の斜里町で、600粍程度、多い所では四国、太平洋の沿岸、鹿児島の一部、屋久島の所で4,000〜5,000粍ありまして、少い所の5〜6倍位であります。降水量は何を意味するかというと、一般に植物の生育に比例すると考えていいでしょう。杉の名産地と申しますと紀州とか屋久島、
四国、太平洋沿岸、秋田県とかであり、
日本の降水量の少ない所で600粍というのは世界的レベルでも多いので、600粍は局限された地方であって、水田、稲作は1,000粍から1,500粍の雨量が必要であります。日本全国に稲が育ちうるわけで、また日本中は木が育ちうるといえます。日本人は熱帯原産の稲を持ちこんで、北海道でも作っているわけであります。米を好んだ民族であり、稲作は暗い所では、できないのであって、明るい所に水を引張ってくるわけであります。
狩猟民族ではありませんので、森林の中にどんな野獣が住んでいるか判らない、それを減らして、明るい所で稲を作っていくわけでありますので、推測して、1500年前には、日本人の祖先は何を食っていたのかと思われますが、野菜としては、山の芋とか牛芽位しか喰っていなかったのではないか、それ以外に中国を経由して、近代では欧米から輸入されたものを現在食べているのが大部分で、山の芋とか牛芽は森林性のものであって、祖先の近くには森林があったのではないかと思われる。日本人の祖先にとっては、自然は砂漠ほどではないが恐るべきものと思われていたのではないかと思われます。森林を伐採しなければできないとすると、森林を伐ることに抵抗はできない。また伐らなければ仕事ができなかった。自然即ち森林が失われていったのであります。それで最初に日本人の自然観について申し述べておきたかったのであります。
自然管理の目的
2番目に自然を管理する目的は何か。管理できるかということであります。
日本人には農業開発は平和的に聞えるかもしれないが、工業開発に比べて、非常に大きな自然の変革であった。面積についても、工業開発はいくら大きくても1ケ所でも何万ヘクタールかであって、農業開発の面的な広がりには到底およびません。自然は人間が存在するだけで変るものであって、狩猟民族は木を切ることはしないけれど、自然は何もしなくとも変ってくるわけであります。
現在の自然の保全目的の第1は学術的、景観的なもの、次に都市化に伴う自然への要求の拡大でありましょう。都市化に伴う感覚的、生理的、生物的要求が自然に対して保全が要求される原因となっています。
自然の保全
3番目の要因は資源の保全であります。森林資源即ち木材の形での森林資源、次に水資源の保全、自然草地の保全などがこれに当ります。
国土の保全
4番目に国土保全の間題です。海岸浸蝕、風蝕、河川の浸蝕によって地形が変ってくるのを防ぐ、採石採砂、または露天掘りの跡始末をするなどがこれであります。
管理された自然
5番目に管理された自然とは何かを考えてみたいとおもいます。利用目的がハッキリして管理される必要が起きてきて、管理された自然は、もう自然ではないのではないではないか。特に日本人の考え方では、こうした問題が起きてくる。仏教的風習ではないが自然を大事にするという考えがあり、白木を好むとか、ムクのものを尊ぶ、珍重する向きがある。小さな自然を尊ぶという要求が高い。生のものを尊ぶ、人手を加えることを好まない、自然保護の考え方にはしばしば人手を加えるなという日本人の潔ぺき性があり、管理された自然とは何事かという議論が出て米ます。例えば知床のような秘境といわれるようなところで、斧を加えたことがないといわれるような所でも大きな切株の跡があったり、阿寒、大雪にした所で、山火事の跡があったりします。開道100年〜110年といわれる位でありますが使っていた所は400〜500
年位前にもあり、知床などでも証拠があります。北海道でも多い。ヨーロッパでは原始的自然はあり得ないということであってドイツなどは自然保護の原点であり、
自然保護という言葉はドイツであるといわれているが、本もとでは自然は存在しないという不可思議な所があるわけであります。
日本的発想における自然、ヨーロッパの自然との違いがある。いくら自然といっても人手の加わっていないものはない。われわれの見ている自然は疑似自然であるといってもいいではないか。私共が保全、復元したい自然というものは使い易い自然でなければならない。
誤解を招くかもしれないので注釈を加えますと、釧路湿原のことであります。私共のよう釧路市に住んでない者にとりましては、自然に恵まれた所ではないかと思います。例えばタンチョウ鶴の住んでいる湿原がある。周囲には厚岸とか阿寒の自然公園がひかえている所という感覚があります。所が釧路市民に聞いてみると、そうした自然に恵まれた所にかかわらず、面白いことに、旭川、札幌、小樽等に問いかけて、釧路市民にあなたの周辺に自然がありますかというと、自然に乏しいといったのが釧路市民であった。小樽市民が言ったということになら判りますが、釧路市が高いパーセンテージで示された。これはある新聞社がとったアンケートであったので、私の所に、“これは一体何であろうか”と聞かれたのでありますが、私にはどうも判らない。釧路市民が、そういうことをいっているのは不思議千万であると思って、釧路市に住んでいる知人に、これは一体何であろうかと聞いてみましたら、自分の囲りによい自然があるが、行ってみても使えない。使えないということは何であるかといいますと、湿原はああいった都市の近くにあるということは、日本でも、また世界でも珍らしい。10分も車で行けば見れる。見るのはよいが、入るのには長靴を用意しなければならない。湿原には川がある。スポット落ちこんでいるのであります。イトウなど釣るにはよいが、子供連れで遊びに行けるタイプの所ではない。入りこみにくい様相をしている。使えない自然であって使える自然ではない。
というわけであります。
自然に対する要求でも都市化に伴う自然の要求が高くても原始的自然を要求している意味とは違ってくる。われわれの周辺には日常的には疑似的自然が必要ではないか。管理された自然が必要になってくるのではないか。学術的には人が入っては困る自然も存在するし、これを周辺からの影響から守る必要があるが一方では人間からいうと使い易い自然が準備されることも必要でありましょう。疑似的自然の最たるものは庭園であろうが、それは常によく手入れされなければならない。個人の庭とか、公園とかは、市民的責任で管理されるべきであろう。たとえば昨年までセイタカアワダチ草−アメリカ産の雑草で、どこもかしこも埋めづくされるのではないか−これは空地があると占領されるので空地を作らないということが考えられる。家を建てるとか、工場を作るとか、畠を放置しておかない、凡ゆる意味で空閑地を作らないということで解決される。
もう一寸スケールの大きな所では、市民的責任では解決されない。例えば苫小牧東部のようなものになると雑草だけでなく、景観的な問題で、ある場所が設定されて、工業団地として放っておくと、大きな荒地になって、中途半端なまとまりのない景観ができる場合があります。これらはいわば企業的責任というべきでありましょう。もっと大きくなると自然公園、地域的な範囲の景観を快適にすることが行政的責任になる。大きな自然はたとえば自然公園のように国なり道なりが管理しているが、身近かな所でまだ管理が十分でない所が少なくないのであります。
自然の維持管理
先にのべたように一つは維持管理である。日本の場合は降水量が多い。どんな少いところでも放っておくと森林になる可能性がある。水田が減反で放きされている所がありますけれど、せいぜい2〜3年すると柳の芽が生えて疎林になってしまう。10年もすると林になって、元のもくあみになってしまうという例が各処にみられる。草原にしておくことは、なかなか難しいということが言える。網走の原生花園がありますけれど、その一つの例である。あのつづきの所には、相当な15米近い柏の林が、斜里に向って生えている所があります。洞窟のあたりはことに気象条件のきびしい所ですが、かつては森林が発達していたところで、今の原生花園はその伐採跡地であろうと思っております。ここには共同放牧が行われておりまして、私も当時の写真を持っておりますが、毎春、雑草やダニ防除のために火入れが行われていました。原生花園として有名になってからは、放牧は勿論禁止され、火入れも中止されましたので、近来雑草が増えてきまして、木も大きくなり草原としての維持状態が悪くなってきました。川湯の硫黄山の例では、立派な道路ができていますがその中心に白樺が増してきています。10年も前から問題になって、あまり多くなると折角のハイマツとイソツツジが見えなくなる。観光サイドからは木を伐らせろというと、公園側ではシラカバを切らせない、互い論争をしていて未だ解決してない。厚岸の近くの尻羽岬はヒオオギアヤノの有名なところですが、牛の放牧が行われ糞がおちていて、観光客から牛を放つなという声が出ることがよくあったそうです。ヒオオギアヤノは牛によって他の草がコントロールされているわけで、放牧を止めれば相対的に外の草、木が生えてくるわけですから、観光的に草原を維持するのも仲々むづかしいわけです。目的が景観的のものであれば、草原として維持するときはそうした維持管理をする必要があるわけです。
森林の場合には逆のことが考えられます。アカエゾマツの美しい林を残しておくときは放っておくことが必ずしも保全にはならないこともあります。木の間で競争が起きるので、これをコントロールしてやらないと自然のバランスが保たれないことがありうるわけです。維持管理には、ある目的に沿って、伐採をするとか火入れをするかということが必要なのであります。
復元管理
2番目には復元管理というものがあります。一般には森林へということと考えていいでしょう。荒地や放棄された水田の場合、森林への復元をたすけて元へ戻してやること、または土地改良や水位のコントロールをしてやること、粋石場とか、ダムサイトは必然的に木を伐るわけですから森林へ復元を考えるといったことがこの項目になります。
もう一つは、生態的管理、地域的管理で、更にスケールが大きくなります。維持管理、復元管理は、幾らスケールが大きいとしても、一ケ所当何十ヘクタール位のスケールではありません。地域的・生態的管理とは植物だげではない。生態系は植物だけで成立しているわけではなく、野生生物も含まれます。森林性のものなら森林性の、草原性なら草原性の生物がいるわけです。つまり群落の種類によって生物相は異なっていてお互いに、からみ合って生きているわけですから人間の都合によって、草原にしておくかとか、森林にしておくかというわけにはいかないことになります。たとえば道東で防風林で50米〜100米とか防風林が残されている所がありまして自然林をそのまま防風林にしたところその中には色々な木があって、管理者側からいうと大変な仕事になるから全部カラマツにすればということになり一斉にカラマツに切り換えた例があります。これは野生生物のことを考えてなかったので、中に棲んでいたキツネやタカ、トンビなどが何処かへ行ってしまった。そのためにノネズミが大発生したという例があります。釧路湿原のように、タンチョウも棲んでいるから国際湿原条約で批准されると思いますが、指定された地域は保護されるでしょうが、その附近に展望台ができるとか、土産物店ができるとかということが起きてくるに違いない。農業開発もギリギリの所まで行われますと保護地域にも影響が生ずることが考えられるとおもいます。ではどうすればいいか。
釧路湿原について
次に釧路湿原を例にとってお話をしようと思います。湿原の保存と開発について調査をしてみたのですが、釧路湿原の植生と地下水位についてみて戴きたい。写真の左側に曲った線が道路であり、右下に黒い線に見えるのが堤防兼道路であります。左側の道路の右側(河側)と左側(山側)では同じ湿原とでは景色が変っているのが判ります。湿原内のヨシの群落の発達状況が違ってきたことが分りました。この堤防は既に10年も前にできているわけですから、
2年や3年で変ったわけではないのですから、堤防、道路ができてから何年かたってから植生が変ってきている。そうすると何かこの堤防が変化に対して意味を持っていることになり主す。次の図面で真中に線がありますが、これを道路と考えで貰えばよいと思います。右側ではヨシが圧倒的に多くなって、左側(N側)になるとヨシだけでなく、ヨシも増えているが外の植物も増えている。
もとはN側にあった植物から以前にもズーツとあったがヨシが増えてきた。これはどういうことであるかと申しますと、地下水の変動によるものであると結論づけたわけであります。昭和48年の地下水の変動が高位泥炭地では少く低位泥炭地では非常に大きいのですが、こういう所にヨシの発生が大きく、地下水の変動が少いところではヨシの発生が少い。
これは面白いといえば、私達にとりましては奥味がありますが、植生の維持管理に使ってもよいように思われます。釧路湿原は、国際湿原条約による保護湿原に第一になる所ではないかと思われる所であり、釧路という大きな都市近くにあり乍ら、自然が残されていることであり、山の上にあるのとは違うわけであります。タンチョウがいることが、また理由である。タンチョウがどういう所に住んでいるかということが、1つの理由であり、毎年調査しておリ、湿原に240羽とか250羽という調査が報告されているわけであります。鶴が多くなった方がよいか、また少い方がよいか、問題があろうと存じます。勿論、餌の間題もありましょうが、増えることを喜び、少くなるのを悲しむという問題もあろうかと存じます。
ヨシの発達が鶴のためによいのであれば、S側のようにすればよいということになる。
高層湿原には、きれいな植物が生えている。サロベツ原野などには、きれいな花が咲く。あの地帯の原生花園などは、非常に美しい。景観的には、はるかに高層湿原が勝れている。もし鶴がどうでもいいなら、高層湿原のように、水位の変化を少くする。鶴が繁殖するためには、ヨシの発生がよければ変動量を多くするということになります。目的がハッキリすれば、こうした工作をすれば、よろしい。実際に水位の変動をどうすればよいかとなりますと、恐らくフローテイングダムのようなものを作ってコントロールする、上水道、発電、農業用水田のダムとは違って、鶴のための水位のコントロールをやるとか、高層湿原の維持をするためには、それに必要なダムを作ってやるというようなことになってその方法を考えることになります。目的がハッキリすれば、例えば釧路湿原のような場合に、コントロールの可能性があります。釧路湿原の誘導の可能性、鶴を含めれば、生態的レベルでコントロールを、ここでは誘導といっておりますけれど誘導の可能性がある。水のような場合変動量の誘導が易しいのでありますが、これ以外の群落の場合は非常に難しい。それというのもファクターが多すぎて、明らかに水と植物といった関係だけではないと思います。湿原でやっているからこのような結果が出ているけれど、立体的な森林のようなものになると、ファクターがもっと多くなりまして、一すじ縄ではいかないと思います。かんたん明瞭な場合で、ご説明したわけであります。可能性を一つ一つたしかめていくことも必要ではないかと思います。北海道でも環境アセスメント条令ができまして、私もお手伝いしたのでありますが、歩きながら考えるより仕様がないではないか、完壁なアセスメント条令を作ることはその手法を自然環境については申上げにくい。今あわててアセスメント条令を作る必要がないではないかという意見がでて参ります。今やっておいて、修正していけばよい。現に条件が変っていくので、追いつかなくなって来るので、私は歩き乍ら考えてもよいのではないかという意味で条例をback
upしたわけであります。
北海道は比較的広いわけでありますので、
自然についての最新の情報を常に持っていることは仲々難しいとおもいます。
釧路湿原のような場合でも何時もチェックしていく必要があろうと存じます。文化関係の人の悪口をいうことになりますが、しめ縄的保存管理が多く、指定か解除かの2つしかないということになり、その途中の対策がなければ保全とはいえないでしょう。中間情報が少ければ手の打ちようがないということになる。釧路のように水条件によって、変ってきたのでその対策が必要になり、そのためにはチェックスコアー、追跡調査が必要になり、チェックシートが出来ると思います。
自然のチェック
最後に、自然なり、自然管理なり、チェックのための知識と情報が必要となってきます。色々な場合に開発の自然保護のトラブルをみていますと、開発の側で知らないで破壊した例が案外多いのではないかとおもいます。トラブルが生じた段階では、時既に遅しで、トラブルが出来で路線変更ということになりますと無駄も大きくなりますし、半分、助かったとしてもそれはよい解決にはならないと思います。そんな結果にならないようにするためには、初めから、その土地についての野生生物や植物に関する正確な知識なり情報が集められて、正確に伝ってくると、そういったロスが少くなるとおもいます。
自然に関するデータバンクはまだ完全に整理されていません。データを質的、量的にどうやって処理するかということに難しい点があり、完全なものをすぐ求めるのは難しいとしても歩き乍ち考えるということで、それが完壁でないまでもいろいろな点で破壊が免がれるのではないでしょうか。