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茅沼炭鉱鉄道の話

梅 木  通 徳

  北海道の鉄道の起りは、明治13年11月28日(1880年)、手宮・札幌間の幌内鉄道の開業であることから、ことしで丁度92年になる。しかし、本道にはじめてレールを敷いて車両を運転した記録をたずねると、さらに11年前の明治2年(1869年)で、古宇郡泊村にあった茅沼炭山から同地の海岸に達する約2.8キロメートルの鉄道がある。
  この茅沼炭山は、往時徳川幕府が函館港にひんぱんに出入した外国汽船に燃料を供給するために、函館奉行に命じて開発させたもので、その石炭輸送のために鉄道の建設が急がれたものである。この鉄道工事は、幕府のおかかえ鉱山技師イギリス人ガールと同機械技師スコットの指導により、慶応3年(1867年)の春からはじめられ、秋までに道床や橋梁の建設からレールの敷設までほぼ終ったが、年内には使用開始するにいたらなかった。翌4年は春から戊辰の役が起り、世の中がさわがしくなって、幕府直営の仕事は思うようにならず、この炭山の開発もまったく中止の状態となった。
  翌明治2年、本道に開拓使が設置されてから、この炭山の事業は官営として引き継がれ、鉄道の残存工事が急速に進められて使用を開始するにいたった。当時の石炭輸送の設備状況をみると、貸車には1トン車と4トン車とがあって、炭山の坑口から麓の陸橋上までは、1トン車を1両ずつ強い糸綱(いとづな)の両端に結んで、山上の滑車(かっしゃ)によりレール上を交互に上下し、複線のところで積車と空車が行き違いして運ぶ方法をとり、また4トン車の麓の陸橋の下で、石炭を1トン車から受けて積み込み、ここから海岸までゆるやかな傾斜路を荷物の重みを利用して運転したものである。各車にひとりづつ運転者が乗って制動しながら下ってたが、上りは牛に引かせて帰ったもので、この牛が山から下るときは、空の4トン車を連結して乗せ、機関車はぜんぜん使用していなかった。
  また、当初のレールは、木製の鉄張りで、厚さ4.2センチ、幅6.1センチの鉄の角棒を、厚さ12.2センチ、幅18.3センチの長い角材に釘で打ちつけ、これを厚さ15.1センチ、幅18.3センチ、長さ180.2センチの枕木に据えつけたものである。レールの幅は、76.2ミリの狭軌(きょうき)であった。この木製鉄張りのレールを鉄製レールに取り替えたのは、はっきりした記録はないが、明治11年の改良工事のときではないかと思われる。
  この炭鉱は明治17年4月、官営廃止により民間に払い下げられたが、そのときの記録の車両数をみると、「大小炭車坑内外運搬車16両並に1輪車20両」とあり、1トン車と4トン車の合計は、16両とみられる。
  明治17年の民間払い下げ後、同炭鉱は地元の人たちの共同経営による採炭組合に移り、この共同採炭組合は明治29年まで続いたが、明治23年にその一部が徳田炭鉱に分離した。かくして共同採炭組合の方は、明治30年に右近炭鉱、さらに明治43年に藤山炭鉱と変わり、一方徳田炭鉱は明治26年に松岡炭鉱、明治35年に岩内炭鉱合資会社、さらに大正元年に河合炭鉱と変った。
  そして大正5年に、この両派が合体して茅沼炭鉱鉱業所となり、大正6年に沢口汽船鉱業株式会社、昭和5年に茅沼炭鉱株式会社、昭和15年に茅沼炭化鉱業株式会社、最後に昭和34年茅沼炭鉱株式会社と変せんした。
  この間、昭和2年に炭鉱の山元貯炭場から、海岸までの運炭軌道にはじめて小型蒸気機関車を2両を使用してトロッコによる輸送を開始し、これが昭和6年の山元貯炭場から岩内港にいたる約10キロメートルの索道竣工まで続いた。
  その後、昭和21年10月27日、山元貯炭場から、国鉄岩内駅まで6.4キロメートルの専用鉄道が敷設され、8100型の蒸気機関車2両と石炭車10数両を設備して運営されるようになった。なおこの専用鉄道の軌間は1メートル67センチのものであった。
  この茅沼炭鉱は、原料炭として戦時中の乱掘がとくに激しかったヤマといわれ、最盛期には坑口が四つもあり、従業員数も約1900人を算えた。このようななかで昭和31年には、開鉱100年を迎えて、100年祭が盛大に行なわれた。
  しかし、採炭の深度化、採炭と伴う運搬系統および排水系統の複雑化、通気効率の低下等の生産系統の合理化に破たんをきたして閉山のやむなきにいたり、この専用鉄道も、昭和37年11月12日に廃止された。

(筆者は本会理事)

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