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北海道交通史概説(下)

梅 木  通 徳

 

5 馬車・馬そりによる明冶以降

(1) 馬車会所
 明治5年3月開拓使は、函館・森間の函館本道の開削に着手し、翌4月これをしゅん工してこの間数箇所に取締所・休泊所等を設け、人々の往来に便した。同年10月には更に函館鶴岡町に馬車会所を設け、馬車数頭を備えて函館・森間の馬車輸送を開始し、11月にはこの中間の峠下村に旅館を建てて人馬の宿泊に供した。森からは海路室蘭に渡り、ここから千歳を経て札幌に至る人馬道があった。
 一方札幌の開拓使本庁においては、明治11年8月黒田長官がロシアのウラジオストックを視察した際、同地において使用ざれている客馬車や馬そりの便利なことを認め、同地の職工3人を雇用して帰国し、札幌において馬車と馬そりを製造させた。

(2) 陸連改良係
 明治l2年4月開拓使は工業局内に陸運改良係を設け、派出所を銭函と小樽に置き、夏季は馬車、冬李は馬そりを使用して札幌・手宮間の運輸営業を開始した。
 これによって従来不便をきわめていた札幌・小樽間の交通は、いちじるしく改善されて好評を博した。しかしこの馬車・馬そりによる両地間の直営運輸も、翌13年11月手宮・札幌間の鉄道開通により廃止され、翌14年10月には札幌・室蘭間の札幌本道に移され、開拓使は陸運改良係派出所を苫小牧・幌別・室蘭に、継立所を島松・美々・白老に置いて、直営運輸を開始した。
 なお、この陸運改良係による運輸営業は、明治17年6月廃止された。

(3) 民間普及
 前述の開拓使陸運改良係の設置により、民間でも客馬車を経営する者が起こり、官設の陸運改良係廃止後は、札幌・室蘭間をはじめ小樽付近でも民間に普及するようになった。

6 鉄 道

(1) 茅沼鉄道
 鉄道は明治2年開拓使によって経営された古宇郡泊村字茅沼村の茅沼炭鉱から海岸に至る専用鉄道が起こりで、これは炭坑から麓の陸橋まで200メートル間にはさく道を敷き、坑口に近くロクロを据えて1トン車を交互に上下させ、麓の陸橋から海岸までの3キロメートル間には4トン車を使用し、下りは自然の傾斜を利用して自転させ、上りは牛に引かせて戻ったもので、機関車を使用していなかった。

(2) 官民併行
 機関車を使用する鉄道の起こりは、明治13年11月の手宮・札幌間35.9キロメートルで、開拓使の幌内鉄道と称せられた。この鉄道は明治15年11月に幌内まで開業し91.2キロメートルとなった。
 この幌内鉄道は明治22年12月北海道炭鉱鉄道会社に払い下げられ、この会社は同24年7月に空知線岩見沢・空知太間及び砂川・歌志内間を、同25年8月に室蘭線岩見沢・室蘭間、同年11月に夕張線を開業し、333キロメートルとした。
 更に北海道庁は明治31年7月に、上川線空知太・旭川間、同34年9月に十勝線旭川・落合間、同36年9月に天塩線旭川・名寄間、同38年l0月釧路線釧路・帯広間をそれぞれ開業し、376キロメートルとした。
 一方北海道鉄道は明治38年8月函館・住吉(現・南小樽)間254.1キロメートルを開通した。

(3) 国有一元化
 明治39年3月公布の「鉄道国有法」により前述の各鉄道は一元化されることになり、翌40年7月北海道帝国鉄道管理局の開設となり、本道の鉄道はすべて国有となって運営されるのである。
 かくて鉄道の幹線は年々延長され、本道交通の大動脈となっていくのである。

(4) 私鉄のぼっ興
 大正3年の美唄鉄道を皮切りに、毎年国有鉄道の培養線として約20の私設鉄道が建設され、一時は局部的交通機関としてよく利用されたが、自動車の発達と過疎化の現象には勝てず、続々と廃止するようになり、今日では5社を数えるのみとなった。

(5) 日本国有鉄道
 終戦後の昭和24年6月、日本の鉄道は政府即ち運輸省から分離されて公共企業体となり、その名も「日本国有鉄道」となって今日に及んでいる。

7 自動車

(1) バ ス
 自動車がはじめて本道に移入されたのは、明治43年のことで、札幌北1条東2丁目の荒物商諸橋熊吉と薪炭商高橋栄祐が共同で遊覧自動車営業をやろうということで、東京から買ってきたドイツ製のベンツである。この車は大隈重信がヨーロッパ旅行の帰りに持ってきたもので、諸橋らが買ったときは帝国ホテルにあったといわれている。馬車型のゴムタイヤ付きで、エンジンは水冷2気筒4サイクルの中古車であった。しかしこの車はほとんど実用化されず、一般の観覧用に供せられたに過ぎない。
 バス営業のはじめは大正3年6月、根室の大津滝三郎が、東京からフォードの幌型8人乗りの自動車を8,500円で買ってきて、根室・厚岸間の乗合営業を開始したときである。当時釧路以東には鉄道がなかったので、彼はこの区間のバスを計画したのであるが道路が悪いため厚岸までで思いとどまり、根室・厚岸間を毎日l往復し、運賃は1人3円70銭と相当高かった。しかし歩行する難儀には替えられず常時5、6人の乗客があった。

(2) ハイタク
 ハイタク営業のはじめは、大正4年7月、釧路の米町で車屋(人力車)を経営していた小川勇次郎で、根室の大津自動車にヒントを得て、彼も東京からフォードの幌型8人乗りの中古車を買ってきて、釧路一帯を走る旅客運輸営業を開始した。驚いたのは彼と同業の車屋たちで、早速小川を人力車組合から除名したが、自動車と人力車では競争にならず、組合側でも翌5年東京から中古車を買ってきて対抗するようになった。

(3)トラック
 トラック営業のはじめは、大正7年函館に函館トラック会社を設立し、松岡力三らが中心となってトラック7台を買入れて、貨物運業を開始したときである。

(4) 戦時の大統合
 大正7年の夏、札幌で開道50年記念北海道博覧会が開催されたとき、東京から菊川タクシーが進出してきて、5台の乗用車をもって第1会場の中島公園と第2会場の駅前通間を往復運転し、その便利さを宣伝した。この時の運賃は1人l円と相当高いものであったが物めずらしさに客がつき、博覧会終了後大もうけをして東京に引き揚げた。
 この菊川タクシーの宣伝は、道民を大いに刺激し、自動車営業が広く全道に普及するようになった。
 しかし本道の道路事情は悪く、かつ冬季半年は積雪のため運行不能となるので、その経営は常に苦しいものであった。
 それでも昭和16年l2月の太平洋戦争ぼっ発当時になると、バス498台、ハイタク454台、トラック1,401台、自家用2,063台、計4,416台を数えた。
 これが戦争の激烈化に伴って、燃料や資材の規制が次第に強化され、昭和18、19年の大統合により、バスは98社が7社に、ハイタク257社が4社に、トラック792社が8社に統合された。
 かくて終戦により自動車運輸営業は、燃料の不足と資材の窮乏により一層苦難の途をたどるのである。

(5) 戦後の復興
 昭和25年から冬期道路除雪による自動車の運行が通年可能となり、加えて同27年から燃料や資材の統制が緩知され、ようやく自動車は活気を呈するようになった。
 特に進出の目覚ましかったのは、霊枢業者で、この営業はハイタクの範囲内であったが、終戦後はトラックの特種営業となって、道民は不便を感じていたから、これを緩和しようとしたものである。
 ついで新規免許申請を提出するようになったのはハイタク・バス・トラックの統合会社の分割申請で、この分割申請で新規免許申請に対抗しようとしたものである。
 道路の除雪の進展、自動車の普及は通年営業を可能にして営業ぺースに乗るようになり、かくて昭和49年末の乗合バス業者は49、貸切バス業者は55、ハイタクは1,672(外に個人l,298)、トラック業者は1,767の多きに達した。

8 鉄道とバス・トラックの競合

(1) バス・トラック運行の長距離化
 自動車営業は道路の普及改良と相挨って、その行動範囲を拡大し、当初はその行動半径はせいぜい40キロメートル程度であったものが、昭和30年ころから3倍にも延長し、例えばバスについてみると、札幌・室蘭間、札幌・倶知安間、札幌・旭川間、札幌・留萌間及び札幌・富良野間と長距離化し、またトラックについてみると、道内の引越荷物はほとんど鉄道から離れてトラックを利用するようになった。
 かくて自動車と鉄道とは競合する部門が多くなり、かつ自家用車の普及は鉄道の短距離区間にも影響を及ぼすようになった。

(2) トラックによる短距雛フェリー利用
 昭和39年から青森・函館間の航路に、道南海運会社(現・東日本フェリー会社)のフェリーが運行するようになり、自動車にとっては本州と本道とは陸続きとなって、例えばトラックの如きは札幌・東京間を30時間で運行できるようになり、鉄道ではコンテナで26時間20分、列車指定では80時間も要するので、急送貨物はほとんどトラック便に流れるようになった。

9 鉄道と航空の競合

(1) 日本航空等の札幌・東京間連航
 更に鉄道に対する脅威は、昭和26年開始の日本航空による札幌・東京間の運航開始である。この需要は年々増大しており、その上函館・東京、旭川・東京、釧路・東京、帯広・東京の各航空路もそれぞれ開設されるようになった。

(2) ローカル航空線の連航
 前述の航空路の外にローカル線として、千歳・稚内、千歳・女満別、千歳・釧路、千歳・帯広などの整備が現在行われているので、こうしたローカル線の利用も、やがては鉄道の脅威となろう。

10 鉄道・航空・フェリーの競合

(1) 長距雛フェリーの運行
 その上昭和45年から苫小牧・東京、苫小牧・仙台・名古屋、小樽・舞鶴、釧路・東京等の長距離大型フェリーが運航するようになり、鉄道の本州方面行きの長距離貨物は、大きな脅威を感じつつある。

(2) 第2種空港における大型機の就航
 昭和48年以降における千歳・函館・釧路等の第2種空港には、大型ジェット機が就航するようになり、その輸送量は旅客はもちろん貨物においても年々増加の一途をたどっている。
 試みに昭和49年度の旅客輸送のシェアをみると、本道対本州間では航空44%、鉄道41%、フェリー15%となっている。更に旅客輸送の札幌対首都圏では、航空85%、鉄道15%となっている。この傾向は最近特にいちじるしくなっているから、鉄道としては大いに対抗処置を配慮しなければならないところである。

(3) 鉄道の近代化
 こうした運輸業の競争激化の中にあって、鉄道はどう対抗してきているか。
 まず貨物輸送にあっては、昭和35年に貨物急行「ほっかい」を桑園・秋葉原間に運転を開始し、その後コンテナ基地を札幌貨物ターミナルに移し、コンテナ急行列車を増強して送達時間の短縮を策している。
 旅客輸送については、昭和36年に気動車特急、「おおぞら」を函館・旭川間に運転開始、同44年には小樽・旭川間の電車化を完成し、同50年には札幌・旭川間特急電車の運転を開始、また同年度SLを追放して動力の近代化、スピード化を図った。
 この間昭和46年には、青函トンネルが着工され、同48年には北海道新幹線の整備計画が策定されて、その終点を札幌にするルートも決定され、目下の状況では恐らく60年代に実現するものとみられる。
 この北海道新幹線が完成の暁は、札幌・東京間は5時間余で結ばれることになり、旅客輸送のシェアに一大変革をもたらすことになろう。

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