「講 演」
日本の鉄道技術(前編)
本文は,去る昭和56年11月27日, 当研究会が開催した研修会における北大大学院情報工学専攻の竹村先生講演の抄訳です。文責,編集部。竹 村 伸 一
1. 終戦直後の日本の鉄道
今日,私がお話致しますのは,
日本の鉄道についてです。私達は今,経済大国日本の中で,世界に優れた鉄道技術を駆使した車輔に毎日乗っているわけですので,昔からいかにもそうだったような気がしますが,決してそうではありません。では,
どのような形で日本の鉄道技術がここまで伸びてきたかということを,
なるべくやさしくお話してみたいと思います。
昭和20年の終戦の時,私は海軍技術中尉でした。終戦と同時に首になり,東京の焼け野原の真ん中に立っておりました。東京駅に立っておりますと,全部焼けてしまった東京の中を,真っ黒な煙を吐きながら蒸気機関車に引っぱられた列車が走っておりました。東京の焼け野原で一体この日本はどうなっていくのだろうか。これから日本がもとのような文明国になれるんだろうかと,たいへん心配でした。
その頃の日本は簡単な言葉でいいますと連合軍に占領されておりました。従って,
日本の中のいろいろな事は,連合軍の胸一つで決まったわけです。幸か不幸か,連合軍のポリシーというものは,
まず, この荒れ果てた国土を再建するには,交通を完全にしなければだめだ,交通に関しての予算は優先的に認めようということでした。異例のことなんです。これは作っちゃいけない,
あれを作っちゃいけないと言われる中で,交通だけはやってよろしい。まあ,今にして思いますと,たいへんにその点はいい事を言ってくれたと思います。しかし,その他の産業は全く立ち上がることのできない程の状態に壊滅しておったわけです。
私は先程,五十嵐先生の御紹介にありましたように,以前は日立製作所に働いておりました。そのような状況のためでしょうか,私が復員して,会社にもどりましたところ.車輔をやる事になりました。そして,
その後約25年というもの.ずっと車輔をやっておりました。実は,会社には戦前,戦後を通じ36年間おったんですが,残りの10年間はシステムをやっておりました。その間に焼け野原を走っていた日本の鉄道が,世界のトップレベルまで上昇したわけで,私はたいへんいい時期に,
いい場所で, いい経験をさせて頂きました。
2. 国産第一号の電気機関車
私の最初の思い出は,昭和22年l2月27日です。l2月27日と言いますと、お正月も,もう2〜3日という年の瀬の一番忙しいその時に,一体何が起こったかと申しますと,終戦後,第1号の国産大型電気機関車が完成したのです。これにはたいへんな苦労があったんです。
と言いますのは,一つのものを作り出すには関連産業が全部ないとだめです。終戦後の日本の状態は,
これらの関連産業も全部つぶれてしまっていたわけです。その中で、一台の電気機関車を作るという事はたいへんなことです。たいへんな苦労をして材料や部品を集めて,戦後,第一号の電気機関車を完成したわけです。
これはEF13型と言いまして,今でもEF13と言う電気機関車が走っておりますが,形が違います。その時は凸という字の形をしていまして,真中が運転席で,機械室が両側に低くありました。初めてそれが出来たのが昭和22年。それから今日まで約30数年の間に,
日本の鉄道技術はものすごい勢いで進歩して来た訳です。ですけれども,
この進歩は一朝一夕に出来たものではございません。ただ今は,進駐軍が鉄道というものを重要視したという,
いい話を申しました。
3. ドッヂ・ライン・ショック
我々は,一所懸命に電車・電気機関車を造ったのですけれども,昭和24年に,
当時の人は年号は忘れても,非常に印象深く残っていますドッチ・ラインが施行されました。これはアメリカの経済顧問であるところのドッチ氏が日本に来まして,
日本の経済を全部見直し,長い長いレポートを出した訳です。我々が大きなショックを受けたのは.
この中に,
日本の様な敗戦国がこんなにどんどんと電気機関車を造るのは怪しからんではないかと。まだ古い電気機関車がブロゴロ転がっている。これを全部直して使えと言う一行があったからです。
そういう事になりますと,
日本政府は゛ごもっともでございます“,
゛まったく間違っていました“という訳で,直ぐに全部の発注を取り消してしまいました。ところが,電気機関車は設計が終わってから、
いよいよ汽笛を鳴らして工場から出るまでに,一年以上かかる訳です。
ですから,来年の分を今年発注する訳になる。ところが,
ご承知のとおり,当時の鉄道省も年度予算ですから,来年の分は今年発注できません。そこで内示をして作らせることになります。それを一度にキャンセルしたわけです。
しかし, もう, どんどん造ってる訳です。一番最初のなんか、もう,明日でも出られる位になっている。これを全部止めるって事はとても難しい作業で,また,めったにやった人はいません。それをやったんです。何ヵ月もかかりました。今でも忘れませんが雨の降った日に工場の中を歩くと,
自分の設計した遮断機とか, リレーとか, シャフト,歯車などが山の様に捨ててありました。買ってくれる人はいないんですから,捨てるよりほかないわけです。工場の両側に山と積んでありました。ほんとに涙が出ました。これから先,
どうなって行くのかと, その時また,
日本の将来を心配した訳です。
4. 初めてインドに輸出
次に私が日本の車輔技術として思い出に上りますのは,
日本で最初の戦後の車輔輸出です。当たり前の話ですけれども,外国に物を売るには外国よりいい物を,外国よりも安く作らなければなりません。ですから,余程の経済力と工業力がなければ,そう簡単に輸出は出来ません。
初めて大型の本線用の電気機関車を輸出するのに,
日本は終戦後から10年かかりました。10年経過する中で,
日本の工業力もだんだんだんだんとカがついて来て、
日本の中に蓄積された技術力,エ業力,経済力と言うものがそろそろ外国と比べても大丈夫じゃないかという位になって来た訳です。
折りも析り、
インドの国鉄で電化計画が発表されたんです。いわゆる動力の近代化という事です。初めは,
みんな蒸気機関車で走っている訳ですが,
それを段々と電気にしていく。これが動力の近代化と言われているものです。
世界の主なメーカーは,カルカッタとニューデリーに集まりました。当然,日本でも,東芝・日立・三菱電機などが相当なメンバーをインドに送った訳です。私の方でも,私の当時部長だった人がインドヘ行きました。
ところが,
なかなかこの注文は進行しなかった。インド人が日本の鉄道技術というものを信用していないのです。
日本に作れる筈がないと固く固く信じているんです。
その時, インドは3千ボルトの電化を最初にカルカッタからバードワンまでの計画をたて,そこに,
まず,初年度は15輌の電気機関車を買おう、というわけです。その15輌を世界が狙ったわけです。結果から申し上げますと,やっぱりインドはイギリスの方向に向いてるんです。イギリスこそ大先生,
と考えていますから, まず, イギリスに12輌決まったんです。日本がそんなに言うのならば,
3輌作らせてみるか, その代わり半値で作れ。そこで日本が戦後,最初に輸出した車というのは,
その時のマーケット・プライスの半値なんです。当時の日本の工業力ではマーケット・プライスをもらったって赤字です。ですけれども,
なんとかこの辺で輸出の糸口を築いておかなければと考えて,半値で注文を3輌だけ取ったんです。取ったんだけれど,全ての図面は承認を得なければ製作してはならないという条件をつけられたのです。電気機関車一台の中には,電気部品から機械部品まで色々なものが入っていますから,大変な数の図面が必要です。その図面を一枚ずつ全部,承認してもらわなければ,作ってはイカンというのですから大変です。
とにかく外国へ行くのは大変な時代でしたが, 山の様な図面を全部,梱包しまして,インドヘ送りました。電気担当の私と,機械担当の技師と,たった2人でカルカッタへと行った訳です。
まあ,毎日毎日熱い中で一所懸命,図面の説明をしました。いくら説明したってダメなんです。偶然にもイングリッシュ・エレクトリックと同じだったらOK,違えばNOと・・・言うんですから。
しかし,やっぱり人間ですから,
それだけ長い間毎日やっておりますと,
インドの技師長ぐらいの相当偉い人と段々仲が良くなって来ました。それで,休みの日には呼んでくれたり,色んな所ヘ案内してもらったりして,お互いに息、が大変に良くあって来ました。我々もこれから後,
どんどん3千ボルトの電気機関車を納めるんだと思ってますから,やっぱり仲良くしなければと一所懸命,毎日努めていた訳です。ある日の事,゛ミスター・タケムラ,ちょっと来い“,゛Goodニュースだ、、と言うのです。何だろうと思ったら.最初のl5輌の後にもう30輌の電気機関車の入札が公示されて,
日本が一番札になったというんです。いよいよ次の注文30輌が全部,日本に来るかと言う事になった時に,
カルカッタの街の中にいる日本人は゛バンザイ“を叫んだものです。
5. フランスの交流電気機関車
その頃,
ヌービオンと言うフランス国鉄の技師長が部下を連れてインドヘ来たんです。それはインドに限らず,あっちこっちの国に行くんです。何をするかと言うと,その国の鉄道事情を全部,調べていて,
ヌービョン・レポートというフランス語で書いたレポートを出すんです。
御承知の通り,電力は原子力で作ろうが,石油で作ろうが,水力で作ろうが,何で作ろうが,生まれた時はみんな交流なんです。交流でなければ運ぶのにも電圧を変えるのにも不便だからです。だがら全部,交流なんです。一方,鉄道というものは全部,直流なんです。
もしも,交流で電気機関車が走れたら,直流にしてる地上にある変電所は全部いらなくなって,大変に経済的なんです。それを,
フランスはコツコツと研究していたんです。
丁度, 日本が終戦後,色々と苦労している頃に,
フランスの北の方にあるベレンシーナ・シオンビール線で,交流の商用周波数の電気機関車の試作に成功したんです。そこで,フランス国鉄,及びその背後にある所のフランス工業が,
これで一つ,世界を制覇してやろうと考えたのです。それで,フランスの国鉄の技師長をリーダーとして,世界の国々を回って歩いた訳です。そして,その国の国鉄事情を全部,調べて,今,世界はどんどんと,交流電化しているのに,
あんたの国はまだ直流でやろうとしている。これでは世界に遅れますよ。
と言って歩いたわけです。私が先程, コングラチュレーション,後の30輌は,
日本に行くよ。言われたその丁度同じ時に,
゛ヌービョン・ミッション“のレポートが出たんです。
結果のほうから申し上げましょう。インドは交流電化に切り換えたのです。そして,
日本が一番札をとった30輌の直流の電気機関車の入札は,
キャンセルされてしまいました。また,前に納めた直流の3輌も田舎の線で使うことになりました。インドは,交流2万5千ボルトの50サイクルの電化に決めたんです。これは,
たいへんに我々にとってはショックだった。
6. 世界一の電気機関車
それでは, いったいその頃,
日本の鉄道屋さんは居眠りをしていたのか?実はそうではないんです。すでに3年くらい前から国鉄を中心として,各メーカーは一所懸命に交流の電気機関車を日本でも完成しようとして,非常な努力をしていたのです。当時としては,
トップレベルの技術のかたまりですから,問題が多く,
なかなかできないんです。ついに,国鉄からフランスの車を買う交渉の団が出ました。その団長が,北大の大先輩の関四郎さんでした。その頃は,国鉄の常務理事をしておられました。関四郎さんを団長にして数人の人がフランスに行って,フランスの交流の電気機関車を日本に売ってくれと交渉を始めました。
その交渉が, なかなか成立しなかった,丁度その時なんです。昭和30年8月10日ですが,仙山線の仙台〜作並間で,
日本で最初の交流電気機関車の試運転に成功したのです。電気機関車はEDの441でした。新聞に,テカデカと出ました。とにかく,私は,毎日毎日,作並に通いました。
日本国鉄総裁は,すぐにフランスに.国産電気機関車が動いた,
フランスの車,買うにおよばず,すぐに帰国せよと打電しました。この,ほんのタッチの差のおかげで,今日までみなさんは日本の中で外国製の電車や電気機関車は一輌も見ることがないのです。こんな国はめずらしいのです。どこの国へ行ったって,
それこそフランスに行ったって, ドイツに行ったって,みんな外国の車も走っているんです。
その後,交流の電気機関車は,
イグナイトロンやエキサイトロンという水銀整流器の時代から,
シリコン整流器に変わってきました。シリコン整流器も, どんどん,
どんどん大容量のものができるようになり,とうとう大型の電気機関車も,全部シリコンの整流器式になりました。そして,
それがサイリスタになったわけです。
サイリスタも,
はじめは小さいトランジスタぐらいの大きさしかできなかったのが,
だんだん,
だんだん大きなものができて来ました。これは直流の電圧が自由に制御できるし,交流が直流になるんですから,
こんないいものはありません。世界中はサイリスタの電気機関車を作りたいと,一所懸命に研究を始めた訳です。その頃は,
日本の技術も上がってきました。私も,世界のどっかで,サイリスタの車があるというと,すぐ,それを見に行ったものです。
しかし,試作品はいくつか見ましたが,ほんものの電気車輌には,ついにお目にかかりませんでした。世界で最初のサイリスタ式大型電気機関車ができたのが,
日本のED93という車なんです。これができましたのが,昭和40年です。丁度その時,
ヌービオン氏がパリから私のところへ電報をよこしました。「ぜひ,その車を見せてくれ!」来日してED93を見た彼は,ぱっと目を輝かせて「間違いなく,これこそ世界で一番進んだ電気機関車だ。しかも,
シリコンのサイリスタの電気機関車である。」と言いました。日本の車輌技術は,
戦後20年で,やっと世界と肩を並べる所まで来た訳です。
(北大工学部教授)
このあと,超高速車輌,新交通システム,鉄道へのコンピューター導入へと続きますが,後半については,紙数の関係から次号にゆずります。