小樽の交通あれこれ
渋 谷 睦 三
小樽市建築都市部都市計画課長
「育てよう夢と歴史の生きる街」, この標語はこの6月街づくり月間において,
市内の小中学生から寄せられた作品の中のひとつです。
ロマンが込められた,このフレーズの中にこれからの我が街の行方が示されているような,
そんな気がしますので紹介しました。
さて,
小樽の街は僅かな平地を求めて自然発生的にできた街であるから,道路や交通を語るときに街の歴史を抜きにしてはできない。
明治13年,小樽〜札幌間に鉄道開通さる。これは北海道開拓史上でも大事なポイントであり,人・物・情報の路として活躍し,札幌が大飛躍するのに一役買ったことは間違いない。当時,朝9時小樽発正午札幌着,午後4時には小樽へ戻るダイヤで,今は3両編成40分間,すっかりローカルになってしまったが,
まだまだ住民の期待は大きいし,大量輸送機関の代表の座をしっかり守って貰いたいものである。
明治32年,
小樽港が開港場に指定され国際貿易港となる。小樽港は明治末期から商港として繁栄を欲しいままにしてきたが,樺大航路を失い外国航路も衰退するなど天の時を得ず,
いま日本海の波高しで,独り新日本海フェリー(新潟・敦賀・舞鶴)が週6便と港の主役で頑張っている。また戦前から深い繋りを持つ利尻・礼文島とは利礼航路(第一宗谷丸537トン)が島の生活を支え,観光客を乗せて隔日運航している。
道路の築造の歴史を見ると,私人によって築かれたものが多く,昔の人は偉かったと感心するばかりである。
昭和10年の内務省告示によれば小樽の都市計画街路は,一等大路三類(幅員12間)が主要幹線で,最小幅員は二等大路三類(幅員6間)となっており,古老達は○○10間通と称して自分達の地域の誇りにしている。お気付きでしょうが,
主要幹線が12間幅( 22m )であるから現代の6車線や4車線には幅員が不足している訳である。これが小樽の悩みであり,街の発展の足かせになってきたことは事実だが,
当時は道路よりも企業用地が優先であり, また,平地が極端に少なかったことも道路造りに専念できなかった理由になるし,鉄道や港を造った先人達に道路ができない筈はなかったと考えられる。広幅員の道路には防火線や公園的な利用も考えられるが,
当時,人力車や大八車が交差するには幅2間もあれば十分だったのであろう。現在市内の至る処に2間道路が残っており,除雪や交通の障害になっている。しかし,この狭い道路にも陽の当るときが来て,新しい散策の場に変えようという試みが動きつつある。
焦点を現代に絞ると,
いま北海道の手て臨港線の工事が進められていますが,運河沿いのプロムナードや街園が間もなくでき上り新しい姿を表わします。車の流れが変わることは勿論ですが,観光客や市民に親水の場として大きく登場してくることと思います。少しずつですが小樽の街は変わってきています。ぜひ一度ごらん下さい。