晋州マスクダンス&ドラマフェスティバル報告

 6月と8月と2回、韓国に行って来た。猿田彦神社で10月に行われる「おひらきまつり」で金梅子(キム・メジャ)さんと細野さんのコラボレーションがあり、その準備のためである。
 1回目は金先生から「見た方がいいイベントがあるから」ということでムーダン(巫女)の「クッ」という神事芸能を見てきた。金梅子さんは韓国を代表する国際的舞踊家で、ソウルオリンピックの閉会式の振り付けをするなどたいへんなキャリアの持ち主であるが、その踊りの根底には韓国の伝統舞踊があり、70年代から舞踊のみならず、韓国の文化全般で民族文化復興の運動を展開してきた人である。
 どこへ行くのかよくわからずソウルで案内のカン先生と待ち合わせしたところ、行くのは晋州(チンジュ)ということだった。晋州は釜山の西に位置する町で翌朝の国内線で一気に南端へ飛んだ。1時間くらいのフライトだが料金は6000円くらいと安い。この町は南江という川の下流に沿って広がる落ち着いた町で「文化の町」として知られているようで慶尚大学があり、案内してくれたカン先生はここの民族舞踊の教授で金先生の弟子にあたるそうである。毎週、ソウルとチンジュを往復しているそうで、それでソウルでの待ち合わせになったのだろう。
 訪ねたイベントは「晋州マスクダンス&ドラマフェスティバル」というもので二日間にわたって全国の仮面劇や民族舞踊のパフォーマンスが繰り広げられるのだが、その他にも演劇や伝統武術、ナムサダン(男寺党)の綱渡りの曲芸など、民俗芸能がたくさんあり、そのひとつがムーダンの「クッ」だったのである。
 プログラムの最初は下町の小さなビルの中で行われたシンポジウムで、タイトルは「祝祭(フェスティバル)はどこへ行くか?」という、各地で同様のイベントをやっている人や大学教授などが意見を交わすものだった。ありがたいことに会場に大阪の国立民俗学博物館に留学していたという人がいて、同時通訳してくれたので大変助かった。韓国では一つ一つの都市でこのようなフェスが行われているそうで、民俗芸能のものが多いそうだが、「地元のフェスで脚光を浴びたグループの芸風を他のものが真似してしまい多様性が失われる」、「地元の住民の参加が少ない」「地元の住民にのぞまれているものなのだろうか」などと、まじめな話が続いていた。
 町おこしとか、経済効果とか、税金を狙ったプランナーの仕組んだイベントが多い日本とはずいぶん違う。ちなみに今回が6回目のこの晋州のフェスも公的援助は受けていないそうである。一時は深刻な経済危機に見舞われた韓国で、公的支援なしでこれだけのイベントができるのはすごいと思った。日本人はなんと元気のないことか。韓国ではひとりひとりが前向きに生きている感じがした。
 さて、実際のパフォーマンスは南江の河原の公園に作られたステージで行われ、市民は無料でこれを見ることができる。主催者で用意した露店や本職の屋台なども出ていて、日本のイベントと変わらない盛り上がりで、子供たちが多いのが印象的だった。主催者代表の鄭(チョン)先生が以前ICUに留学していたそうで、日本語が話せ、この後はカン先生と共に鄭先生に通訳も兼ねてずいぶんお世話になることになった。そしてこのお二人がなんと「日本の神楽に興味があって詳しく知りたい」とそれぞれ言ってきたのにはびっくりした。自分は今神楽の本を作っているところなんだと言ったら向こうもビックリ。日本から客が来るが神楽に詳しい人間が来るとは知らなかったわけで、縁の強さを感じた。
 夕方にお目当ての「クッ」がはじまった。ステージに祭壇が作られ、供物が並べられる。脇には笛、太鼓、琴などの楽士が並び、ムーダンが歌い、踊る。実際はトランスに入っていくものだろうが、ここはステージなので「芸能」としての「クッ」になる。しかしそれでも十分にシャーマニスティックである。ステージに長い布をわたし、その上を船の形をした祭壇のようなものを歌いながら動かしていくと、観客がステージに次々と上がってお金を船に入れていく。ほとんどが子供だったので子供のための「クッ」だったのかもしれないし、伝統文化を教えるために子供にやらせていたのかもしれない。終わった後は祭壇の供物をみんながもらいに行き、アッという間になくなった。ちょうどお腹が空いていたのだが、米をふかしたような菓子をもらったので助かった。
 このグループは今の「クッ」ではレベルの高いものらしく、それで金先生が「見ておいた方がいい」と言ってくれたようである。楽士の中で弓で琴を弾くサングラスをしたちょっとアヤしげな男性がリーダーらしく、一目でファンになってしまった。面白かったのはこのあと、この男性がメインのパフォーマンスがステージ前のサブステージで行われたことだ。あとから聞いたところによると急に出られなくなったグループがあり、急遽出演と言うことになったらしい。
 彼は琴や太鼓など楽器を取り替えながら大道芸のように語り、歌い、踊っていた、観客がかなり笑っていたので漫談のような要素もあるのだろうか、別のグループの楽士が伴奏に加わったりして筋書きのない展開が見られ、面白かった。途中でドラを持ってまわると観客はそこにお金を入れるなど、ムーダンの韓国での存在がまだ生き生きとしているのが見られて感動した。この「おっさん」は芸が終わると観客に混じって他の演目を見ていたが、首から提げた携帯電話で盛んに話していたり、ちよっと若めのおねーちゃんを従えていたりと、なかなかいい雰囲気の人だった。こういう芸は日本に来てもらっても場の空気が再現できないだろうが、言葉のわかる観客も100人くらい動員したら面白いかも、などとも思った。
 この日は他の芸能に加えて演劇もあったのだが、占領下が舞台で日本兵も登場し、もちろん悪役でいたたまれない気持ちになったりもしたが、周りの人たちは今の日本人と日本兵を一緒には見ていないようで、少しほっとしたりもした。
 その晩主催者の用意してくれた宿は韓国式旅館とビジネスホテルの中間くらいなものだろうか、よその町から来た参加者グループも泊まっていたが、一泊目がオンドル部屋、二泊目がオンドル部屋にベッドでどちらもバストイレ付きの殺風景だが悪くない部屋。ソウルのホテルと比べるとノリは民宿だがお湯もちゃんと出たし、テレビも写った。南部なのでNHKの映りも良かった。
 どこかの部屋の飲み会に誘われるような感じだったので「日本の酒を持ってきているから」と言って、着替えてのんびりしていたら、釜山から来た蔡(チェ)先生が外へ行くという、あわてて着替えて後をついていったら宿の近くのダウンタウンの裏通りに屋台が何軒か出ていた。ビニールに囲われた中をちょいとのぞいて「ここはだめだな」という感じで選んでいく。人数が入れるところを選んでいたようだが、入ったところはけっこう大きな屋台だった。日本の小さなラーメン屋くらいはありそうで、カウンターに10人くらい収容できて、横にテーブル席がある。まずビールで乾杯してから、何が飲みたい、と聞かれたので迷わず「マッコリが飲みたい」と答えた。韓国のどぶろくは美味しい。20度くらいの焼酎を飲む人とマッコリの人といたが、最後はどうなったのか、よく覚えていない。焼酎も飲んだ気がする。
 つまみで印象的だったのは貝のスープ。ムール貝だろうか一杯入っていて、スープも白濁している。味は塩味なので潮汁だが、ニンニクやとうがらしなど、韓国風味一杯で、これをみんなでスプーンを伸ばしてすする。貝は手でつかみ、身を食べる。韓国の人はよく飲むが、これだけ肝臓に良さそうなものを食べながら飲めば大丈夫なのかもしれない。日本だと仕上げに飲むシジミの赤出しを常に飲みながら酒を飲んでいるような物である。
 長髪の絵描きという青年がいて、日本では神憑りが残っているかという質問をされた。システムとしてはほぼ失われたが、まだ神がかる人はいると答えた。韓国のシャーマニズムはまだ生活の中で根強く生きているが、アーティストにもこれに関心のある人が多いようだ。
 翌朝、不思議と二日酔いはしていなかった。緊張しているせいもあるだろうが、貝も効いているのだろう。近くの店で食事をするから、と連れて行かれた店が、これまた貝の専門店のようだった。さすがは海に近い町である。今度はシジミの汁がメインで、これにキムチやナムルやチヂミのようなおかずがずらりと並ぶ。このシジミ汁も白いスープでむき身のシジミが大量に入っていた。蔡先生が早くも焼酎を注文して飲み始めるのだが、ここから蔡先生の「韓国式酒の飲み方講座」がはじまり、付き合わざるを得ない状況となる。韓国の礼儀作法には厳しいものがあるという事は知っていたが、今回、明らかに目上の人と同席ということもなく、フランクな感じで飲んでいた。それでもやり方があるらしく、まず、酒を勧められたら杯を持つ右手の肘あたりに左手を添える。位置も微妙ではっきりしないが、力を入れてもダメでちょっと揺らすようにしながら受けるのだそうだ。そして返盃する。「まだまだ力が入ってる」とかダメ出しが繰り返される度に酒も飲むわけだ。蔡先生と金梅子先生の二人が70年代の韓国の民族文化運動のリーダーだったという事で「伝統」にはちとうるさいぞ、という感じだが、とても親しみを持ってレクチャーしてくれたのが嬉しかった。民族舞踊に見られる韓国独特の肩の動きと通じるところがあるような動作で、スタッフの若い女性が酒を勧められて同じようにやっていた。今回会った韓国の女性も酒が強い。
 この日のプログラムの最初は「ティーセレモニー」ということで、伝統の茶道のような事をやるのかと思っていたら、近くの晋州城の中にある慰霊碑の前での儀式だった。晋州は豊臣秀吉が朝鮮に攻め込んだ文禄・慶長の役で大きな戦いがあったところで7万人以上が戦死したという。韓国ではこの7年続いた戦いを「壬辰倭乱」と呼び、国立晋州博物館はこれに関する展示を主として作られている。
 儀式の前に周辺を案内してもらったが、ノンゲという芸者のような女性が倭の武将のリーダーを誘って抱きつき、南江に一緒に身を投げたという岩が名所となって残っていて、義妓祠という慰霊の祠も作られていた。ノンゲは今も祖国の英雄なのである。他にも祠があったが、英語の表記ではShrineとなっていた。これを神社と直訳するわけにはいかないだろうが、神道及び神社はもともと朝鮮半島から入ってきたという説もあるので感覚としては似ているのかもしれない。
 さて、小高い場所にあるその儀式の場所に行くと大きな石碑の両側にテントが建てられ、右手に民族衣裳を着た女性たち、左手に男性達が控えていた。ほとんど年配の人達である。日差しが強かったのでテントに入れと誘われて日本から来たと紹介されると、おじいさん達は達者な日本語で話しかけてきた。「ここには神社があって鳥居が立っていた」「私は農業学校を出た。今でも同窓会をやっていて日本にも行きました。」「北海道の学校は今何という名前の大学になっていたっけ」などと、いろいろ話してくれた。そういえば日本が占領していた頃の学校の同窓会の看板を町でたまに見かけた。ハングル文字ばかりの中に漢字で書いてあるのでそれだけは読めたのである。
 儀式が始まるまでの時間にお菓子や果物など、いろいろと勧められたが「これは日本語でなんと言ったっけ。知ってるはずなのに忘れてしまった」と訊ねられたのはナツメだった。生のナツメを食べたのは初めてだった。
 儀式が始まる頃には若い人達も集まってきた。内容はお茶をささげ、祈るものだが、参列者は花を供えてこれに参加する。僕も促され、あわててシャツのボタンを留めて列に加わった。なんだか日本人を代表しているようで重たいものがあったが、参加できて良かったと思う。
 その後会場へ行くと、昨日に続いて子供たちの唄やお母さんたちの舞踊など、様々なプログラムが仮面劇に混ざって繰り広げられた。一つ印象的だったのは踊りの中に、障害者の振りをまねる部分が見受けられたことだった。確かめてはいないがそのようにしか見えない。「バカのまね」みたいなところがあるのだ。そしてそれは、笑いものにしているのではなく、その中に「神性」を見ているような気がした。
 最後はたくさんの幟が集まって皆で踊ってのフィナーレだったが、この二日間、韓国の伝統芸能の深さ、濃さには驚かされっぱなしだった。よく細野さんが沖縄と本土の芸能の違いを「本土では習い事になっているからね」と言うのだが、韓国も沖縄同様、生活に根付き子供からお年寄りまで共有する芸能文化が豊かなのだ。その中には日本に占領されていたことから消滅しかかったものも多いはずで、ナムサダンなどは大変な努力で復活したと聞く。日本でも自分たちの文化が消滅しているという危機感をもっと持たなければ、後々後悔することになるだろう。もう手遅れかもしれないが。
 このフェスに匹敵するようなものが日本であるのだろうかなどと、いろいろなことを考えさせられたが、基本的には楽しかったし、面白かった。博多から船で行けば近いところなので是非また訪れたいものである。できれば日本の仮面舞踊である神楽をここで紹介したいものだ。
 この日は会場の飲食ブースで打ち上げたあと、先生たち主要メンバーは町に片隅にある、居酒屋へ行った。ここは日本で言えば「学生の飲み屋」だろうか、壁には古い韓国歌謡のレコードジャケットや雑誌などが一面に飾られていてかつて70年代に京都にあったような手作りの感じで、きれいではないが文化の薫り高いというやつである。外国なのに懐かしさを覚える店だった。 きっと先生たち、学生の頃からのなじみに店なのだろう。そしてここの自家製マッコリのうまいこと。晋州はいい町だ。ここでしこたま飲んで宿へと帰った。そしてまた翌朝、シジミの店で飲まされた。(三上敏視)













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