花祭報告

 11月22日から23日にかけての奥三河の花祭に行ってきた。花祭はこれで三回目だが今回は東栄町の「月」という地区で行われる花祭で、開催予定の時間は22日の午後2時から23日の午後6時までという長丁場の祭である。神事をきっちりとやるので長いのだが、いわゆる舞がメインの時間も午後7時から始まるので舞だけでも23時間近くやるのだ。中味をひとつひとつ説明すると大変なので、だいたいのところは別冊太陽「お神楽」を参照していただきたい。
 会場は道路に面した公民館なのだが花祭用に造られた立派なもので、外から来たものにとってはちょいと風情がない。天井に吊り下げられる飾り物の「湯蓋」を取り付ける鉄のフレームが天井裏のワイヤによって上下するというハイテクで、地元にとっては便利なものなんだろうな。思い入れで風情を求めるのは普段に便利すぎる暮らしをしている、都会から来たよそ者の贅沢というものだろうが。
 着いたのが午後6時半だったのではじめの方の神事は見逃したが、舞いは最初から見ることが出来た。ただ、大きい公民館で舞庭(まいと)という舞うスペースはかなり広いのだが観客が座るスペースはあまりない。湯立ての釜がすえられた土間(これも土ではなかったが)を囲む四方の、道路と反対側の一方だけが二段くらいの階段状の小上がりになっているだけである。一方は祭壇があり太鼓や笛を演奏する「神座」なのでここで見るわけにはいかない。残る一方の、その向かい側は座敷なのだが接待部屋となっていて、閉じられているのだ。結局観客の多くは舞庭で舞う人を取り囲んでのスタンディングである。
 最初のうちは人も多くはなかったので階段状の小上がりの後ろの方に場所を確保してビデオ用の三脚を立てたりした。こういう有名な神楽には教育委員会や放送局などの撮影クルーがベーカムで記録していることが多いのだが今回はひとつもない。そのかわり学生が多い。この「月の花祭」は式次第をきっちりやるので研究対象としていいのだろう、和光大学と慶応大学の学生が多かったようだ。神楽を見に行ってこれだけの数の学生たちと一緒になったのは初めてだ。観客スペースにゆとりがないので、飲食しながら見るのはつらい。「神座」の反対側に座敷があるのだが、ここは接待部屋となっていて逆に飲食専用スペースとなり、戸が閉められていて舞が見られないのだ。ここは受付にご祝儀としてお金を納めておくとおみやげ(ここでは湯飲み茶碗)と一緒に食券をくれて、これをこの接待部屋に出すとちょいとしたおつまみが出て、酒を振る舞ってくれる。 逆に、ゆっくりと飲み食いしたいときには便利なスペースなのであるが。

 さて肝心の祭の中味だが、話しに聞いていたとおりここの花祭は丁寧にきっちりと行われているようだ。最初ののクライマックスである幼子による「花の舞」も午前3時を過ぎてもやっている。ひとつの舞が一時間くらいになるのだが、祭をしている人たちの集中力の影響だろうか、意外と時間のたつのが早い。時計を見る度に二時間くらい進んでいる感じだ。人気の「花の舞」や「山見鬼」「榊鬼」などの演目の時は観光客もこれを目当てにやってきて、観光のおばさんたちは電車やバスと同じくちょっとした隙間に強引に入り込んでくる。夜通しの神楽は地元の人たちが毛布を抱えてやってくるという光景が多いのだが、ここの場合は毛布をひろげるスペースがないのでアットホームな雰囲気は少なかった。
 しかしその分、立って見ている人々の盛り上がりはすごく、中高生あたりの若い連中は鬼が去った後も肩を組んで歌い、踊り続けている。ロックのライブみたいな盛り上がりだが、ここには暗黙のルールがあるようで、それをはずすものはいない。「神座」の演奏もそれに合わせて続けていた。この「青少年たち」は月だけでなくいろいろな地区から来ているのだろうが、みんなそれぞれの場所でこれから花祭を担っていくに違いない世代なのだ。また女の子の盛り上がりにも驚いた。ちょうど同じ世代の男の子が舞っているときにはそれを取り巻く最前列にずらりと並ぶ。モー娘みたいに。これでは舞っている方も元気が出るというものだ。みんなすごくかわいかったし、舞っている「男子」もかっこ良かった。これが夜中過ぎのできごとなのだ。うらやましい。  三脚を立てて確保した狭いスペースでじっとしているのも退屈なので、道路向かいにある公民館の別館の売店を覗くと「蜂の子飯」を売っていた。信州名物の蜂の子を炊き込んだご飯だが数があまりないらしく、最後から二つ目をゲットした。ご飯の中に蜂の幼虫や半分さなぎになったようなやつが混ざっているが、僕の父方は信州のでなので蜂の子にはなじみがある。同行した原章さん、京都の杉原さん、まるおさんといっしょに接待部屋で休んだ時にこれを食べた。接待部屋では食券で煮付けや漬け物がもらえて、酒はフリードリンクといった状態だった。
 そのあと眠気と酔いでだんだん朦朧となってきた夜明け頃に道路脇のたき火に当たっていたら、まず振る舞い酒を勧められて、湯飲みでグビっと飲んだ。ますます朦朧となったところで「子鬼をやらんか」と声をかけられた。子鬼は「山見鬼」や「榊鬼」といった花祭でのメインの鬼の前や後ろに登場するお供の鬼である。月の花祭では子鬼は誰がやってもいいらしく、よそ者でもやれると本では読んでいたが、実際に声がかかるとは思っていなかったので驚いたが、もう二つ返事で「やります!!」と答えた。一緒にいたまるおさんにも声がかかり二人で控えの部屋へ行った。子鬼だけで10人近くいるようで少しホッとした。写真が僕の面である。
 部屋は楽屋のようで狭いところに衣装や面が置いてある。「好きな面を着ければいい」と言われたが、選んでいる余裕もないので目に付いたひとつを手にする。真っ赤な衣装を着て面を着けるのだが、そのために頭に布をぐるぐる巻きにされる。かなり痛い。面の目の穴から外を見るものだと思っていたら口から見るのだそうだ。そういえば面は顔の二倍ほどの大きさである。面を着けて「首を振って見ろ」と言われ、面がずれないようにきつく締められ、かなり痛かった。酔っているせいもあり、面を着けたら吐きそうにもなったが、それはなんとかこらえることが出来た。
 さて、それでどうすればいいのかというと「真似をしていろ」というだけである。考える間もなく、まさかりを持たされて舞処へと送り出された。この時どのくらい舞処にいたのか記憶がないのだが、どうも3-40分はいたようである。必死に榊鬼の所作を真似、他の鬼と同じように舞い、外のたき火の火をまさかりで跳ね上げたりしたのだがビデオを見てみると、もう一つかっこよくない。がっかりである。でも、得がたい経験をさせてもらった。
 ひとつの山場を越えたので、この後は小さなスペースで寝たり起きたりしながら延々と続く舞を見ていた。すっかり夜が明け、昼になっても舞は続く。さすがにこの頃は酒を飲む元気もなくなっている。神楽をやっている人たちも交代で役割を変えているのだろうが、すごいエネルギーである。結局釜の湯をまわりにまいて清める最後のクライマックスの「湯ばやし」は夕方になり、最後の「獅子舞」の頃にはすっかり暗くなっていた。この「湯ばやし」もすごい高揚で、舞の少年たちが藁束で湯を振りまいた後、まわりにいた同世代の少年少女たちが素手で釜に手を入れ、湯を撒き合っていて皆ずぶぬれになっていた。そこだけ見ると「水かけ祭り」のようだが、一番「反抗期」であるはずの世代が伝統的な祭りの中で、しきたりを守りながら「はめをはずしている」姿には感動した。振り返ってみるとこの祭りでは幼児から老人まで、皆が一体となって一緒に作り上げている。これが本当の伝承であり、しつけであり、育てるということなのだろう。「公教育」には逆立ちしても及ばない世界である。
 我々が見ただけでも23時間休みなしで祭りは続いた、古くはこれ以上続いたそうだが、年に一度の祭りなのでエネルギーが凝縮されたのだろう。毎日がお祭り騒ぎの都会にいてはわからない世界で、まったく「お祭り騒ぎ」と「お祭り」は全然違うものなのだ。
 さすがにくたびれて我々一行は6時頃会場を後にして宿に入ったが、興奮していて話に花が咲き、寝たのは午前1時くらいだったろうか。22日は朝の8時頃起きたので、仮眠を3-4時間取ったとはいえ40時間以上起きていたことになる。見に行っただけでこれだけ起きていられたということはまったく花祭とはすごい祭りである。

 翌日の帰りがけに東栄町の「花祭会館」に寄った。ここの館長さんには「お神楽」を編集する時にいろいろ教えてもらってお世話になったのでお礼をしたかったのだが、逆におみやげをもらったりした。本を喜んでもらえたのが何よりである。子鬼をやらせてもらったことを話すと「そりゃあ良かった。いい年が迎えられますよ」と喜んでくれた。館長さんは古戸(ふっと)という地区のリーダーで、古戸もまた古くからのしきたりを守っていて有名なところである。そこでは正月二日に行われるので北海道からだとなかなか行きにくいが、いつか訪ねたいものだと思っている。
(三上敏視)

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