遠山祭り報告

 2001年12月に「遠山の霜月祭」に行ってきた。遠山の霜月祭は長野県の南部にある南信濃村と上村の、天竜川支流である遠山川沿いの「遠山郷」に伝わる湯立神楽である。静岡県と愛知県、そして長野県の三県の県境一帯のこの地域は、古くは遠州と三河と信州の国境であったために「三遠信」などとも呼ばれている秘境である。
 多くの川は上流が一番山奥で、中流、下流と下るにしたがって人里も増え、開けてくるのだが、この天竜川は諏訪湖を源流としていて、この中流域が渓谷も深く一番奥地なのである。鉄道はこの渓谷に沿って飯田線が走っているが現在でも交通の便がいいとは言えない地域で、平家の落人の隠れ里などとも言われ、それだけに古い祭がたくさん残っている祭の宝庫になっている。
 神楽で言うとこの一帯は「湯立の霜月祭」がこの遠山と、西隣の天龍村、そして愛知県側の奥三河では花祭という呼び名でそれぞれ独特のスタイルで伝承され、国の重要無形民俗文化財に指定されている。花祭はすでに三回、天龍村は2001年の1月に「坂部の冬祭」を見たので、この遠山の霜月祭で三信遠の霜月祭をひととおり見たことになるわけだ。
 遠山の霜月祭は遠山郷一帯の十カ所以上で行われるのだが、その内容は大きく四つに分かれ、各地で少しずつ異なっているという。今回行ったのは木沢という地区の正八幡神社での祭礼だった。今回は飯田に住む環太平洋モンゴロイドユニットの仲間である雲龍さんと、奥さんの恵美さんと、山梨の馬場さんという人と一緒に行ったのだが、恵美さんがラジオの仕事で祭りの前に中継インタビューをするということで、まだ準備中の神社に到着した。神社は山間の集落の中にある、いかにも氏神様をまつっているたたずまいの小さな神社だが、年に一度の祭を前に晴れやかな雰囲気があった。

 鳥居をくぐり、階段を上った先に神社があるのだが、本殿の前で焚き火がたかれ、串刺しのサンマが焼かれていた。恵美さんは地元のおじさんに「このあたりだけにいる珍しい顔の細いヤマメだ」などと言われてからかわれていたが、山奥でサンマを焼くのはミスマッチな感じである。あとで聞いたところによるとこれは祭の最初の神事で奉納されるもので、かつては豆腐だったそうだ。それがサンマがこの山間まで入ってくるようになり、豆腐よりサンマの方がありがたいということなのだろう、サンマを奉納するようになったそうである。  神社前の広場の反対側に公民館があり、村役場の出張所があった。二階には広間があり、ここが無料の仮眠所として使われるので便利である。横には食料雑貨店の「鎌倉商店」があり、文房具などかなり古いデッドストックがあった。僕と馬場さんはひとしきりこの店を探検して馬場さんは「クロンボ印」のスタンプ、僕はおもちゃのピストルの火薬をゲット。店の人が「お金はもらえない」と言うような品物だったが、値札通りに20円とか支払った。
 神社の中の様子は、木の引き戸を開けて中に入るとまず湯立ての釜のある土間がある。ここの釜は遠山でもここだけという三つの釜が並んだ物で、中は石で組まれ外を土で塗り固められている。そしてその先に一段上がった拝殿があり、その奥が神殿である。神楽はこの土間で舞われ、拝殿が控えとなって、衣装を着たり、面を着けたりする。到着してすぐに中の様子を見たと時は神事が行われていた。土間に入って左側に受付があり、ご祝儀や御神酒を受け付ける。その裏には炊き出しの竈のある土間があって、女性たちがご飯や汁を作っていた。
 釜の上にはここで「湯飾り」と呼ばれる切り紙や御幣が注連縄に飾られていて、壁には祭の次第や、舞の順序、勧請する神々の名前などが書いた紙が貼られている。これらは何年も貼られているようで、これに加えて今年の祭の役割を書いた名簿や面を着けて舞う人の名前、そしてお金や御神酒を奉納した人の名前が書かれた紙などが所狭しと貼られていた。
 祭の前に雲龍さんが笛の奉納をさせていただく。雲龍さんの笛は上品な笛なので、この山奥の神社でわいわいと村祭の準備が行われる中での演奏は取り合わせが面白かった。
 そして夕方、土間にむしろを敷き、皆が食事を取り始めた。飯と汁と漬け物というシンプルな物であるが、御神酒を飲みながらわいわいと食べるのは立派な晩餐である。我々もこの食事に誘われ一緒にいただいた。
 腹ごしらえをしたら、いよいよ祭もメインに入っていく。神前での神事のあと、神楽はまず、皆がむしろに座って神歌を歌うところから始まる。鈴と御幣を振りながら歌う中で神名帳で神々の名が呼ばれ、勧請される。その後は神官姿による湯立の舞が続くが、前半のかまどの前に座って五大尊の印を結び呪文を唱える修験道の色の濃いところが特徴だ。この印はチベット密教でも見られる印で、数ある印の中でも特別の物らしい。これをかまどの四方それぞれに座って行うのだが、この時は太鼓と笛のお囃子が付く。太鼓は締太鼓の大太鼓を膝のあたりで片面を上向きに置き、これを叩く。
楽座と札の付いた小上がりのような狭いスペースがあるのだが、ここはほとんど物置のようになっていて、太鼓はその前で叩いていた。笛は太鼓に近くで吹く人もいれば、別の場所で好きに吹いている感じの人もいる。腰の曲がったおじいさんが普段の作業着のような姿で吹いていたのが印象的だった。吹かないときは腰に笛を差しているのもかっこよかった。
 舞は御幣を持ってかまどの周りをまわってから湯立の舞になるが、この時は笛はなく、まわりの人たちが鈴を振りながら神歌を歌い、御幣の元を湯につける所作のところでは舞人のうしろで同じように舞っていた。

 ここの祭はこのような儀式的な内容のものや扇や剣などの採り物の舞が夜食をはさんで続き、面が出てくるのは3時頃になっていた。まず色の黒い鼻高面が出てきて釜の周りをまわり、「よっせー、よっせー」というかけ声をかけられながら釜の湯をはねる。湯立の湯を振りまくときは笹束や藁束を使うことが多いが、ここでは素手で行うのだ。祭の前のインタビューでこのあたりのことを聞いてみたら、「湯を切る前に呪文をちゃんと唱えているとヤケドはしない」ということだった。指を閉じない、というのもコツだそうである。
 ここでクライマックスを迎えてから、次々と面が出てきてかまどの周りをまわる。遠山祭は、戦国時代からここを支配していて江戸時代に滅びた遠山一族の慰霊の意味も含まれているということなので「若殿」というような面もある。この若殿は面が五つほどあるのだが、この若殿の面を僕と雲龍さんに着けさせてくれるという。恵美さんがラジオのインタビューをしたことと、彼女の人なつっこい人柄からすっかり内輪扱いしてもらっていて、「何かやれるならやらせてほしい」と頼んでいたみたいで「せっかく北海道から来たならやってもらうか。旦那も呼んどいで」ということになったらしい。
 神楽の舞はほとんどがちゃんと舞を覚えないと出来ないものだし、神楽をする家系でないと出来ないというようなところもあるのだが、ときたま「誰でもいい」という部分があるみたいで、幸運なことに月の花祭に続いて、またも面を着けて舞わせてもらった。
 出で立ちは着物を着て足袋をはき、面を着けて烏帽子をかぶるというものだったが、着物はジーンズの上から着たのでわりと「軽い」演目かもしれない。でも今度は花祭の時の榊鬼について出る伴鬼とは違い一人舞だった。湯立ての釜の周りをはやし立てられながら一回りするのだが、両手に持った笹束と扇を「こうやるんだ」と言って開いて打つ仕草だけ教えてくれただけで、あとは指示なし。提灯を持った人がそばに控えていてくれて、止まれとか動けとかこっちに来いとか指示を出してくれる。僕の前に出た人の動きを見ていたら地元の年輩のおじさんで軽妙に飛び跳ねる感じでやっていてので、それを真似するしかない。花祭の面は大きかったので口から外を見ていたけれど、若殿は小さいので目の穴から見るので、とても見づらかった。「それ舞えそれ舞え」というまわりのはやし立てに乗せられて動いていたようなもので、「踊らされる」というのはこういうものかと思った。一番見物人の多い時間帯だったので「ラッキーだったな」と言われた。
 神楽では面を着けない舞は「人」が舞うのだが、ひとたび面が着くとそれは「神様」ということになっている。だからこの村に年に一度訪れる神様になってしまったわけだ。言葉では説明できない、不思議な感覚である。舞っていた時間は4分くらいだったが一回りして戻ったら口の中がすっかり乾いていた。
 花祭の時は本を作ったご褒美をもらったのかな、という感じだったが、今回またこういう機会を得て、本を作ったことを神様が喜んでくれているていると思った。
 面は各地区数が違うがこの神社では32面あり、それがこのあとも次々と登場してきた。子供や赤子の人形を抱いた面があるのも珍しい。赤子を抱いた女面が舞うとき観衆が何か歌っているのでよく聞いてみると笛に合わせて「乳くれよー」と歌っていた。これはいつごろからなのだろうか、昔、お調子者が歌い出したのが受けて、歌うようになったという感じがした。
 4時頃に始まったのが四面(よおもて)という演目で、舞の中ではもっとも若い20代くらいの青年によるものだ。着けている面は赤い面で、荒々しい表情をしている。
そしてこの神社ではそのうちのひとつは鼻高面で猿田彦と呼ばれていた。この舞の前に近くの河原に降り、本当に寒中の禊ぎをしてきた四人によって舞われるこの舞の後半は、観客に向かって後ろ向きのダイビングをするという珍しいものだ。四人が四方それぞれでダイビングを始めると騒然とした雰囲気になる。ロックコンサートでは観客席にダイビングするのが近頃の流行だが、何百年も前からこんなダイビングが行われていたのは驚きである。禊ぎによって高揚したのであろう青年たちの中には制止を振り切り、何度も飛び込むものもいて会場は興奮のるつぼとなる。他の地区ではこの舞が鼻高面で舞われ、湯をはねるところもあるようだ。
 このあと翁面と榊を持った媼面が出てきて、「じーさ」ばーさ」と呼ばれていた。「ばーさ」が榊で観衆の頭をお祓いしながら釜の周りをまわるのだが、子供たちが「ばーさ、ばーさ」と着物を引っ張ったりしてからかうと追いかけて、それこそ「ばさばさ」と叩くあたりが楽しみのようである。最後はもうすす払いのように乱暴に祓ってまわっていた。
 この神楽で珍しいのは神歌というよりも民謡に近い歌が所々で歌われることである。大黒の面が出てきたときなどは数え歌が出てきてびっくりした。しかし神楽の基本は祭である。地元の人にとって楽しくかつ意味のあるものなら何でもあり、ということで祭りは変化してきたはずなのでこれからもこういう歌に出くわすことだろう。

 空が明るくなった頃に神様に帰っていただく舞などがあり、木沢の霜月祭りは終了した。で、むしろの上でまた朝飯をごちそうになった。少し仮眠をとってから神社を後にしたが、そのときの神社はまさに「祭りの後」で何事もなかったかのようにたたずんでいた。この時期にこの村に滞在して各地区の祭りを見るというような贅沢をいつかしてみたいものである。
(三上敏視)

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