HARRY,MAC AND MORE -ROAD TO ROOCHOO-
沖縄のりんけんさんから細野ユニットにライブ出演依頼が来たのは一年以上前だった。当初はライブハウス「カラハーイ」のオープン記念ということだったが、いろいろ都合がつかずに一年経過してしまったのだ。それで今回一周年記念ということで、ちゃんとしたライブは出来ないけどとにかく行こうと、細野さんと二人で行くことになった。そして三日前くらいに、なんと麻琴さんも行けることになったと連絡が来たのだ。ニューオリンズを思い出してしまう。何をするかはいつものように直前に決めることとなり、楽器はディジュとウクレレを持っていくことにする。ウクレレは10月の猿田彦神社での演奏の時に初めて使ったのだが、そのとき音を拾ってもらえなかったので新たにエレアコを入手。店では「エレレレ」と呼んでいたのでこれからは「エレレレのおじさん」になるのだ。
19日に沖縄入り。札幌との気温差は20度。空港が新しくなりやたらときれいだ。三線の自動演奏ロボットがあったりする。時間差で細野さん麻琴さんが着き、ホテルから北谷町のりんけんさんの会社、アジマァへ移動。落成一周年となる社屋は三階建ての立派なもので、事務所、スタジオA,B、ライブハウス、バー、そしてハワイアンレストランがあり一同びっくり。ゴムぞうりながら実業家りんけんの姿を見た。
ハワイアンレストラン「プナプナ」でりんけん、知子さん達と食事。ちゃんとハワイから料理人が来ていてポイやロミロミサーモンもあり、麻琴さん感動。ポイはタロ芋をすりつぶしたハワイアンの伝統食だが、その芋も沖縄で取れると聞いて驚いていた。味も麻琴さんからお墨付きが出た。実は麻琴さんは意外なことに沖縄は約20年ぶりだそうで、その変貌ぶりに驚いていたが、なんといってもこのアジマァのがんばりにびっくりしたようだ。「こんなビーチが見えるスタジオなんて他にない」と言っていた。「でもこの空気の匂いは変わらないね。アジアと似ているんだけどちょっと違う。独特の匂い」という言葉に細野さんも「うんうん」と頷く。
アジマァのビルにはロビーがあり、版画展などもやっているので一応パブリックスペースのようだが、ここでりんけんさんは打ち合わせとかしてしまう。だから観光客もりんけんさんに会えるチャンスはすこぶる高いということだ。我々もそこで楽器を出して打ち合わせ。ギターやウクレレなどを三人で弾いていたら楽しくなって来た。細野さんの両脇で僕と麻琴さんがそれぞれの音を出してるので「なんだか変で気持ちいい」と細野さん。りんけんさんも加わりしばしのセッション。実は細野ユニットは毎回編成などの演奏スタイルが変わるのでいつもこの打ち合わせの時の演奏が新鮮で楽しい。だけど本番でもこの気持ちを味わいたいのでガマンしてリハーサルはやめる。僕の50肩の話題からりんけんさんが事務所の奥から引っぱり出してきたのが通販で買ったというぶら下がり器。足首を固定して逆さ吊りになるもので、機械的な牽引よりずっと良く、腰痛などすぐ治るそうだ。僕と麻琴さん面白がって即体験。初めての感覚にふたりともちょっとハイになる。細野さんは代理店をメモしていたので買うかもしれない。
ホテルに戻り、麻琴さんがディジュに挑戦。中学の時に吹奏楽をやっていたからと謙遜していたが、すぐに音が出た。あとは循環呼吸だが「僕はせっかちだからすぐ出来ないと放り出しちゃうよ」と言っていた。でも「循環が出来たら気持ちいいだろうねえ」とも言っていたので案外次に会うときには吹けるようになっているかも。細野さんも加わり、「コヨーテ・ウェディングソング」にデイジュを加えることになる。そのあと、話が「ワナビー族」の話になる。70年代にインディアンかぶれでインディアンになったつもりになってしまう連中を「I wanna be」からワナビー族と呼んでいたのだそうだ。最近日本人にも増えているね、というようなことを話していたら2時頃となり、解散。オリオンビールを飲んで寝る。
20日15時よりアジマァの屋上でHARRY&MACの地元FMのインタビュー収録。かつて麻琴さんが離島を訪れたときバスの中で聞いた「ハイサイおじさん」にショックを受け、那覇でレコードを見つけて東京に戻り、最初に細野さんに聞かせたところから沖縄ポップスの本土上陸が始まったことなど語られるが、麻琴さん「今日は口が軽いね」と言いながら初披露の話題などもあって細野さんもビックリ。
リハーサルで麻琴さんが「EASY RIDER」を歌うことが決定。しかも細野さんがベースを弾く。音数は少ないがCDよりファンキーで沖縄バージョンだ。えらいこっちゃ。出番が10時過ぎなのでちょっと離れたところにある沖縄料理店へ食事に行く。早速細野さん店の女の人に「どこかで見たことある人ねえ」とチェック入れられる。ローソンのCMは沖縄でもやっていたのだ。細野さんに睡魔が襲い、料理が来るまで小上がりで横になると「私の部屋があるからそこで寝たら。そして一緒に帰ろうね」と別の女性。沖縄の人はストレートだなあと関心。もう少し若かったら細野さんも迷ったかもしれないが、迷う余地はなかった。
アジマァに戻り、知人の訪問など受けながら本番となる。半年前にニューオリンズで一緒だった顔ぶれで演奏という、直前までは想像していなかったステージとなっていて、やりながら感慨深かった。いつもの細野ユニットだと集中して聞かれることが多いが、今日はすでにりんけんバンドのワンステージがあり、飲み放題の会場なので、客席がかなりにぎやか。やりにくくもあり、やり易くもあり。途中で麻琴さんが「このメンバーでルーチューガンボを録音しよう」とプロデュース宣言、すごい展開になった。
この20年間、沖縄とヤマトの音楽の間には特別の関係が出来ていたと思う。大ざっぱに言うと、ヤマトは沖縄の音楽にコンプレックスを持ちながらもその魅力を借用しようとし、沖縄はそれを「ヤマトは我々の音楽を盗まずにヤマトの音楽をやればいいではないか」というところから来た意識のしあいである。今はヤマトのミュージシャンでも気楽に沖縄音楽を取り入れている人が多いが、先鞭を付けた細野さんや麻琴さんの中にはそれ以降の流れの中で重しのようにものがあったのではないかと思うのだ。それがここにきてやっと「一緒に作れる」関係が出来たのかもしれない。それはこの20年間、常に二人が異文化とその神々に対して「リスペクト」を持って音楽を作ってきたからだろう。ポップミュージックこそスピリチュアルでなければならない。細野さんが一年ほど前から数あるオリジナルの中で「ルーチューガンボ」を再び歌い始めたのにはこの予感があったのかもしれない。「自分で辞典で調べて作ったウチナーグチの歌詞だから、沖縄で歌うときは変えなきゃいけないかもしれない」と事前に気にしていたが、りんけんさんから「大丈夫」と言われ、ホッとしていたようだった。この謙虚さにはいつも感動してしまう。
この夜のライブは麻琴さんが10年ぶりにステージに上がり、20年ぶりに歌ったという歴史的な一夜だったが、その他にもいろいろな意味があったと言われるライブになるかもしれない。打ち上げでは沖縄式手締めが良くて「これは覚えよう」と細野さん。これからはヤマトでもやってみよう。
翌日チェックアウト後にアジマァの宮城さんの手配で注文していたiBookを麻琴さんが買いに行くのにみんなで付き合う。東京だと二ヶ月待ちのものがなんと店内山積みではないか。自らせっかちと認めるところの麻琴さんは本州送りの二日間が待ちきれず、右手に12弦ギター、左手にiBookという出で立ちでうれしそうに東京へ帰っていった。なんと振り返ってみれば今回の沖縄ライブは急きょ参加の麻琴さんのためにあったようなものではないか、と思った次第である。そうそう、昼食を首里の「御殿山」という有名な沖縄そば店でとったのだが、麻琴さんが「たしかどんと君がこの辺に住んでいるはずだ」と電話してみたら本人がいて会いに来たのも面白い出来事だった。
細野さん麻琴さんを見送ったあと、僕は他の用事でしばらく沖縄にいたあと九州に渡り、ライブの一週間後には宮崎の山深い「中の叉」というところで夜通しの神楽を見ていた。僕は細野さんと同じく日本民謡の現代化やポップス化はうまくいった試しがない、と思っている。それはそのアプローチにも問題があるが、歌だけだった民謡に伴奏楽器がついた時点(明治も後半)のセンスも大きく響いているのではないかと思うのだ。
一方神楽は楽器演奏が主体で、しかもリズムが中心である。猿田彦神社の関係でここのところ辺境の神楽を見る機会があるが、その中には世界とつながる普遍的なグルーヴも見いだすことが出来るのだ。日本の伝統音楽の現代化ということでは神楽がもっとも可能性が高いだろう。いつか神楽をベースにしたりんけんバンドのようなグループが作れれば、沖縄への恩返しになると思った。(三上敏視)
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